市原佐都子(Q)『バッコスの信女─ホルスタインの雌』
市原佐都子作品に対して思うことは、最初に見たときから変わらない。私たちが性を意識しはじめたときに感じたはずの性の奇妙さ、滑稽さ、不気味さをしっかりと見据え、それを奔放な想像力で表現に変換していく。
性衝動に対する戸惑い、恐怖を私たちの多くは思春期が過ぎるとともに「そういうものだ」として受け入れ、性への異物感を日常の奥に押し込んで「忘れてしまった」ふりをする。市原の作品は、思春期に私たちが感じたような性の異物感が、思春期の後もそのまま引き続き育まれ、肥大していった結果が、芸術表現として奔出したかのようだ。その表現は自由で、グロテスクで、あからさまで、ぎょっとさせるような生々しさがある。
あいちトリエンナーレ2019のプログラムの一つとして上演された『バッコスの信女─ホルスタインの雌』は、ギリシア悲劇の形式を借りることで彼女の性的妄想世界がこれまでの作品よりスケールアップした形で展開されていた。
私たちが抱え込み、日常性のなかで押さえつけている性というものが、どれほど奇妙で、滑稽で、不気味なものなのかが、突きつけられたかのような気がする。その突きつけかたには性的存在としての人間へのシニカルな嘲笑、そしてとりわけ男性の性のあさましさと滑稽さへの告発があるような気がして、性に対する意識の自己検証なしに手放しにこの作品を称賛することはためらわれる。
作・演出の市原佐都子が若くて美しい女性であり、それゆえに彼女がこれまでさらされてきた性的視線へのコメントもその表現は含んでいるように思えるのだ。彼女の作品の根本にはミサンドリー(男性嫌悪)があるような気がする。しかしそうした批判的視点を内在しつつも、彼女は自身の性的妄想世界を楽しんでいる、面白がっているようにも思える。市原佐都子は、「この人はどうかしているんではないか」と言いたくなるような逸脱のエネルギーを感じせる作家の一人だ。
『バッコスの信女─ホルスタインの雌』はギリシア悲劇の形式に倣い、コロスが登場する音楽劇でもある。音楽は東京塩麹/ヌトミックの額田大志によるもの。古典劇にふさわしい風格と重厚さをもつメロディーと歌詞のくだらなさのミスマッチが素晴らしい効果を作品にもたらしていた。壮大さと卑小さの二つの極を含有する作品世界を見事に象徴する音楽になっていた。
市原の妄想世界を実現するにあたって、俳優たちに要求される負荷は極めて大きいに違いない。作者の異常な要求を受け止めるだけの体力と度胸が必要だ。主要女優三名は、作品の無茶な要請にそれぞれの個性と能力をもってしっかりと答えていた。
理知的に組み立てられた芝居の兵藤公美、理性的存在である人間の枠組みから抜け出て劇空間をかき乱す永山由理絵、振り幅の大きなエキセントリックな役柄を演じ分け、見事な歌唱力とダンスで観客を圧倒した川村美紀子。どの俳優もみなどうかしていて、作・演出に負けない強靭さを持っていた。