閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ゲッコーパレード『ファウスト』@旧加藤家住宅

原作:J.W. ゲーテ

引用訳:森鴎外 ほか

演出:黒田瑞仁

出演:崎田ゆかり、河原舞、永山香月、大間知賢哉

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美術:柴田彩芳

衣装:YUMIKA MORI

記録写真・映像:瀬尾憲司

チラシイラスト:石原葉

チラシデザイン:岸本昌也

制作協力:岡田萌

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埼玉県蕨市の住宅街にある築40年の古ぼけた木造民家で、日本人の若い俳優たちがゲーテの『ファウスト』を上演するという。
京浜東北線蕨駅から線路沿いに12、3分歩いたところに、会場となる旧加藤家住宅がある。一階の八畳の二間が上演場所になっていた。観客は二十名ほど。二つの八畳間を両はしにそれぞれ二列の客席があり、両側を観客に挟まれる形で俳優たちは演技をした。二間は微妙にずれていたので観客から見て奥側にある八畳間の一部は死角になる。
 
こんな場所で、ひょろひょろして頼りない身体の日本人俳優が『ファウスト』をまともに上演しても空々しい。ゲッコーパレードの公演をその本拠地である旧加藤家住宅で見るのは今回が初めてではないのだけれど、会場に着いてみて「ここで『ファウスト』をやるなんて、いかにも無茶な話だな」と思う。この古ぼけた民家で『ファウスト』を上演するという馬鹿げた挑戦自体が面白い。
 

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男性俳優の口上とともに10分押しで芝居は始まるのだが、『ファウスト』はなかなか始まらない。三人の若い女優たちのグダグダしたやり取りが続く。そのじゃれ合いのようなルーズなシーケンスのとシームレスに『ファウスト』の断片的場面が様々なやり方で挟み込まれていく。小さなムーミン人形を「ファウスト」に見立てた一人遊びのような感じで、一人の女優がブツブツと『ファウスト』の一場面の断片を提示したり、あるいは仰々しい翻訳(森鴎外訳らしい)で二人の女優が掛け合いで演じたり。『ファウスト』の外枠となる若い女性三人のグダグダしたやり取りも、それぞれが何かの「ごっこ」をしているかのように女優たちの演じる人物は連続性を持ちながらも変化していく。最後は家の外から木の枝やら土の入った水槽やら様々なガラクタ的オブジェを部屋に持ち込み、雑然とした「聖域」のようなものを作り、そこで宗教儀式みたいなことをしたりする。それが終わると雑然と並べられたオブジェは片付けられるのだが。
 
とにかくとりとめなく、とらえどころのないシーケンスが『ファウスト』の断片とともに80分間に渡って続く。ああいう場所でああいう女性によって『ファウスト』が上演されるということでもたらされる異化効果というのはもちろんある。ただこの上演の場合、それがどういう意味を持つのか、そしてそれが成功しているのかどうか、私にはわからない。こうした引っ掛かりを観客である私にもたらしているのだから、不可解ではあるけれど試みとしては成功しているのかもしれない。しかしそれが面白かったかどうかも私にはよくわからないのだ。
 
すごく投げやりで無作為に見えるように作為的なことをやっているのだけれど、それではその作為の意図は何かというのがわからない。それは「観客側に開放されたまま投げ出しているんですよ」というもっともらしくて、実は怠惰なだけの思わせぶりではないように思う。そうではないと私は思いたい。
蕨市の住宅地の古ぼけた民家で、若い女優3人プラス男性俳優だけで、あえて『ファウスト』という超大作を上演するということだけで戦略的だ。単に「このミスマッチが面白いでしょう?」だけでは、こうした企画を実際にやって見ようと思わないだろう。『ファウスト』を彼らの上演環境に強引に引っ張り込み、「矮小化」し「ローカル化」することで生まれる何かがあるし、その何かは『ファウスト』という古典の可能性をさらに広げるものとなる、ぐらいの目論見はあるのではないか。
 
その「何か」への自分なりの解答はとりあえずは保留にしておく。ゲッコーパレードは今後も『ファウスト』を上演していくとのことなので、ずっと見ていくうちにわかってくるものはあるだろう。とにかく強い日差しのなか、蕨駅から旧加藤家住宅まで歩いてちょっとぼーっとなった。女優3人が『ファウスト』の断片とともに違った姿を80分のうちに見せてくれるのがとても心地よかった。

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劇場でないところで上演される演劇が私は好きなこと、俳優と戯曲を介してその場所が異世界に変容していくということにたまらない魅力を感じることを、今日の旧加藤家住宅の『ファウスト』で改めて確認することができた。

【演劇】劇団サム第4回公演『BREATH』

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作:成井豊

演出:田代卓

会場:練馬区生涯学習センター

2019/07/21 17:00

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練馬区石神井東中学演劇部のOBOGたちがメンバーの劇団サムの第四回公演。劇団主宰で演出を担当する田代卓はかつてこの演劇部の顧問で、演劇部を関東大会、全国大会に導いた指導者だった。教員を退職したあと、田代は演劇部のOBOGたちに声をかけて劇団を結成し、年に一回の公演を行なっている。
公演は石神井東中学演劇部との合同公演で、劇団サムの『BREATH』の公演の前に、現役の中学演劇部による『男でっしょっ!』(一宮高志作)の公演があった。『男でっしょっ!』は50分の作品。共学化した元女子校に三人の男子学生が入学してきて、マイノリティの彼らが強くて横暴な女子たちと関係を築いていくという話だった。テンポのあるテキパキとした進行で退屈しない。観客席からなんども笑い声が上がる楽しい舞台だった。中学へ入ってまだ数ヶ月の一年生も含め、20人ちかい生徒が舞台に上がるのだけれど、全員が演じることを楽しんでいる様子が伝わってきて見ていて気持ちがいい。溌剌としていて舞台に立つ喜びが伝わってくる。舞台に立ち、自分でない何かを演じ、観客に向かってそれをさらし、表現することで、中学生たちが日頃囚われている色々な束縛から解放されているように見えた。
300席ほどの会場は8割ぐらい埋まっていた。観客の多くは出演者の家族や同級生たちのようだったが、知っている子供たちの登場に反応する会場の雰囲気もよかった。カーテンコールでは裏方も含め、全員の紹介が行われた。そのカーテンコールの挨拶も元気いっぱいで誇らしげだった。
 

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30分の休憩のあと、劇団サム『BREATH』の公演。開演前に主催の田代卓からの挨拶があった。四回目の公演にして劇団サムは二時間のフルサイズの芝居に挑戦する。キャラメルボックス成井豊の作品で、クリスマスの時期の七組の男女(必ずしも恋人同士ではない)の関係を描く群像劇だ。出演俳優は15名でそれぞれに見せ場が用意される端役のない作品だった。クリスマスまでの二週間ほどの期間に起こる七組の男女を、彼ら全員と関わりを持つ遍在的で変幻する狂言回しの登場人物が導いていく。とってつけたような人工的で説得力の乏しいエピソードもあるが、7つのエピソードの人物をつなぎ、ハッピーエンドのラストに向かって集約させる劇作はさすがに手慣れた感じでうまい。
舞台の手前と奥を幕で仕切る二重構造にし、さらに机や椅子などを出し入れすることで舞台を分割し、素早く場面を転換させていく演出上の工夫がよかった。この工夫のおかげで展開がダレることなく、リズミカルにテンポよく進んでいった。俳優の声もよく通り、しゃべっていないときも表情や仕草などの演技の工夫がある。この演目の前に見た中学生の芝居と比べると、さすがにはるかに芝居らしい芝居になっている。
四回目の公演となった今回は、中学演劇OBOGの俳優たちの半分は成人だと言う。俳優たちがみなとても魅力的だった。アマチュアとはいえ、中学演劇の卓越した指導者だった田代卓が指導しているので、発声や所作などはそれぞれそれなりの訓練はできている。また今回の出演メンバーのなかには職業的な俳優を目指して専門学校などに通っている者もいた。しかし演技がうまい下手ということよりも、舞台上での俳優一人一人の存在がきらめいていていた。お互いの芝居をそれぞれが注意深く、優しく見守っているような親密な緊張感を舞台から感じられる。
主宰の田代は当日パンフレットに劇団サムが団員たちの「心の拠り所」となっていると書いていた。一年に一度「古巣」に戻り、仲間たちと舞台を作るという濃厚な経験が、彼らにとっていかにかけがえない重要なものとなっているかが舞台から伝わってくる公演だった。
劇団サムの『BREATH』はこうした「背景」を仮に取り去って見ても、十分に楽しんで見ることができる水準の公演になっている。しかし彼らの前に中学生演劇部の芝居を見ているだけになおさら、舞台上の彼らのあり方に、色々と変化の多い思春期、青春期のなかで成長を遂げた彼らの姿を感じ取ることができるように思え、その存在の二重性がこの舞台の感動をさらに大きなものにしている。当日パンフレットにはキャストのコメントも掲載されているが、その短い文章からは仲間との演劇づくりに挑む彼らの真摯な姿勢が伝わってくる。
「ああ、人間ってこうやって成長していくんだ」と言うことを確認できる舞台なのだ。一年に一度、かつての演劇部顧問のところに集い、アマチュアとして公演を行う劇団サムの公演は、その舞台から感じとられるその健気さと誠実で愚直な作品づくりの姿勢ゆえに、ある意味でキャラメルボックスよりもずっとキャラメルボックスっぽい芝居になっていた
マチュアによるこういう芝居を見るたびに「演劇ってなんだろう?」と考える。こうした演劇は、集団での創作・表現活動のなかで凝縮され、増幅された特別な生の充実のありようを伝えてくれる。

【映画】さよなら、退屈なレオニー(2018)

http://sayonara-leonie.com/
監督:セバスチャン・ピロット

製作:ベルナデット・ペイヤール、マルク・デーグル
脚本:セバスチャン・ピロット

撮影ミシェル・ラ・ブー
キャスト:カレル・トレンブレイ、ピエール=リュック・ブリラント、フランソワ・パピノー、リュック・ピカール、マリー=フランス・マルコット

原題 :La disparition des lucioles
製作年:2018年
製作国: カナダ
上映時間:96分
映画館:新宿武蔵野館

評価:☆☆☆☆

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ベック映画ということで見に行った。
ケベック州の海辺の田舎町、いかにも変化が乏しくて退屈そうな町に住む17歳の少女レオニの物語。
両親は最近離婚して、彼女は母親と母親の彼氏と一緒に住んでいる。父親を信頼していたが、父親は普段は遠く離れた所で働いていて、何ヶ月に一度しか会えない。両親の離婚はレオニーとって大きなショックなのだが、その動揺を誰も受け止めてくれないことを知っている彼女は、早熟でシニカルな態度で自分の内面を守ろうとしているようだ。
その彼女が興味を持ったのは、町の安レストランで知り合った年上の冴えない男、スティーヴだった。ギターの個人教授の彼は、母親と二人でひっそりと暮らしている。彼も町の人たちから浮いていて、孤独な存在だ。スティーヴはこの町と孤独から抜け出すすべも知らないし、その気力もない。レオニーはスティーヴの孤独に安らぎを感じつつ、退屈な生活としっかり向き合い、とにかくそれを何とかしようする気力がある。彼女は退廃に沈み込みそうになりながらもそれに溺れることはない。自分の若さを信じている。
主演のカレル・トランブレの演技が素晴らしい。天才。鬱屈した青春期にある女性を好演。
レオニーのパートナーであるスティーヴがミュージシャンということもあり、音楽も豊かな青春映画だった。
ティーヴがレオニーと恋人になるのかなあと思いながら見ていたら、心が通じ合い、恋人同士になりそうな雰囲気を漂わせながら、プラトニックなままだった。この我慢加減あって生じる緊張感がとてもいい。もしスティーヴとレオニーが気分で恋人になってしまったら、この映画は映画にはなっていないだろう。
あそこで一気にレオニーを自分のモノにできないスティーヴはダメ男だ。
原題、「ホタルがいなくなってしまった」はちょっと気取りすぎ、狙いすぎな感じがする。

【映画】山本良子監督『ぼくらのハムレットができるまで』(2004)

2004年(46分)
監督・編集:山本良子
出演:学習塾赤門塾のみなさん
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『ぼくらのハムレットができるまで』は、埼玉県所沢市にある学習塾、赤門塾で1975年以来、毎年3月末に開催される演劇祭のメイキングを記録したドキュメンタリー映画だ。作品は映画美学校の卒業制作として2004年に撮影された。
 
赤門塾は地元の子どもたちが通う個人経営の小さな塾だ。塾を創立したのは、在野の哲学者、ヘーゲルの翻訳者として知られる長谷川宏である。東大闘争の活動家だった長谷川は、大学院博士後期課程修了後に大学から離れ、1970年に小中学生を対象とする学習塾を開設した。
赤門塾演劇祭は、長谷川宏が主宰する学習塾が母体とする「共同体」の演劇祭だ。「共同体」と鉤括弧でくくったのは、生活の場ではない塾は普通、共同体を形成するような閉鎖性、拘束性を持ち得ないからだ。赤門塾のような地元の子供たちを対象とする塾の機能の根幹は公教育の補完であり、通うのもやめるのも自由だ。赤門塾は小・中学生対象の塾だったので、通っていた塾生も学校卒業とともに塾とは縁が切れるのが普通のはずだ。ところが赤門塾に通う子供たちのなかには、中学を卒業したあともこの塾に居場所を見出し、勉強や遊びにやって来る者たちがいた。この塾OBOGを中心に、様々な文化活動が行われるようになった。文化祭、美術館見学、ハイキング、完全自炊の夏合宿、そして演劇祭。こうした集団での活動を通して濃厚な学びと遊びの擬似共同体となった。『ぼくらのハムレットができるまで』は、演劇づくりという集団での活動の観察を通して、赤門塾という擬似共同体の特異なあり方を伝えている。
 
この映画が撮影された年の演劇祭で上演された『ハムレット』でタイトルロールを演じたのは、大学を卒業したばかりの長谷川優だ。長谷川優は長谷川宏の次男であり、数年前から宏に代わって赤門塾の活動全般を取り仕切っている。監督の山本良子も撮影時には20代で長谷川優と同年代だった。当時山本は長谷川宏が行なっている哲学書の読書会のメンバーだったが、赤門塾演劇祭の出演者のほとんどとは面識がなかったと言う。演劇祭のOB・OGの部の稽古は一月から始まる。山本が撮影を開始したのは二月初めだった。『ぼくらのハムレットができるまで』というタイトルが示す通り、2月初めの稽古から映画祭当日までの様子がこの作品では記録されている。山本と演劇祭メンバーとは撮影を通じて少しずつ関係を構築していった。稽古は演劇祭直前までは週一回日曜日に行われる。山本は撮影される映像の中に自己を介入させない。彼女は他所から来た観察者として演劇祭のメンバーの姿を追いかける。最初のうちはおずおずと相手との距離を測りながら。山本の視線は観察者としての視点を失うことはないが、それでも稽古が進み、演劇祭の日が近づくにつれ、演劇祭に参加する人間たちの高揚感に撮影者が引き込まれていく様子が映像から伝わってくる。緊張感のなかにも、共同でものを作り上げていくなかで形成される親密さがどんどん濃厚になっていく。
 
この作品が撮影された2004年には、演劇祭開催は29回目を迎えていた。この演劇祭に何年も続けて参加している常連たちもいる。しかし演劇作りはルーティン・ワークにはならない。参加する人間たちの様々な関係性の網目のなかで、稽古時間の経過とともに、集団とそれに関わる各個人がダイナミックに変化し、成長していく瞬間を『ぼくらのハムレットができるまで』はとらえることに成功している。それにしても彼らはなんでこんなに真剣なのだろうか。年に一回の仲間内のための演劇祭にどうしてここまで労力と時間を注ぎ込むことができるのだろうか。このドキュメンタリーは、演劇作りがその参加者にもたらす魔法の時間を伝えている。公演が近づき集団の作品づくりへの求心力が一気に高まったときの緊張と興奮、出演者の熱気に次第に同調し、それに巻き込まれるように彼らをサポートすることで祭りの当事者となっていく周囲の人々の姿。学習塾の教室が三日間の演劇祭のために大掛かりな模様替えが行われ、劇場になる。舞台美術も小道具も衣装も音楽も全てが手作りであり、これを見に来る観客たちのほとんどは出演者やスタッフの家族や知り合いである。タイトルに「ぼくたちのハムレット」とあるが、これは文字通りこれは彼らたちの手による彼らのためのハムレットであり、演じる人間と見る人間のほとんどが赤門塾という擬似共同体のメンバーである内輪の演劇の様子を伝える作品なのだが、そこには外側の人間も共感できる集団での演劇づくりの喜びの普遍性を確認することができる。
 
『ぼくらのハムレットができるまで』は演劇が本質的に持つ教育的機能もとらえている。戯曲の登場人物を演じることで他者を引き受け、それを他人の目の前に晒すことで、演者は自分自身の殻を打ち破らなくてはならなくなる。この覚悟を決めたとき、人は変わり、別の段階に成長する一歩を踏み込む。昆虫の脱皮を見るように、人間の内面の変化の瞬間を目の当たりにする機会は日常ではそうあるものではない。演劇、それもアマチュアの演劇ではそれまでの自分から別の何者かへ変わろうとするときに人が見せる崇高な時間に立ち会うことがある。それは自分自身の発見のすぐれた契機であり、他者の発見の契機にもなる。『ぼくらのハムレットができるまで』にはそうした劇的な時間が記録されている。年に一度の祭である赤門塾演劇祭公演には、普段は演劇と関わりのない人たちが集団での演劇づくりを通して得た様々な変化や発見が凝縮されている。そしてその凝縮された集団の時間は舞台上で一気に吐き出される。
 
『ぼくらのハムレットができるまで』は公演の後ろ側にある演劇の時間の厚みと豊かさを伝え、アマチュア演劇の醍醐味を感じさせてくれる。学習塾を母体としたアマチュアによる演劇祭にみなぎる活気と充実感は「演劇ってなんだろう」という根源的で素朴な問いを私たちに突きつける。

平原演劇祭×一年劇団 孤丘座 洞窟演劇『鷹の井戸/鷹の風呂』@栃木県某所

「洞窟演劇」と予告されていた。洞窟で演劇だって!?

もうこれだけでどんなものを見せてくれるのだろうかと心が浮き立つではないか。公演会場までの行き方の案内は、平原演劇祭の公式twitterアカウント@heigenfesにあった。雨具と懐中電灯持参とある。

場所は東武佐野線の終着駅からさらに町営バスに乗り、山の中に入ったところだ。

東京都練馬区にあるうちからは約3時間かかった。まず池袋まで有楽町線、それから宇都宮線久喜駅まで行き、そこで東武伊勢崎線に乗り換え館林駅まで行く。館林駅から東武佐野線に乗って終着駅まで。

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初めての路線に乗って、初めて行く場所と言うことで、旅行気分も盛り上がる。

降りた駅は特徴らしい特徴がない田舎町だ。そこから町営バスに15分ほど乗る。バス停のある道のそばにある木の緑濃い丘を登ったところが、公演場所の洞穴だった。

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開演の前に洞穴の中を一通り回った。中にはいくつかの空間があったが全体としてそんなに巨大な洞窟ではない。15分もあれば一通りみて回ることができる広さだ。観光のためわざわざこの洞窟を訪れるのはよっぽどの洞窟マニアではないだろうか(そのわりには洞窟演劇終演後に家族づれがこの洞窟の見学にやってきたのだが)。洞窟の管理は近所の住人に委ねられているらしい。鍵の開け閉めと洞窟内の電灯をつけるのが主な管理業務らしく、自由に出入りできる。

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[開演前に出演女優三名の写真を撮らせてもらった]

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この洞窟演劇を見るためにやってきた物好きな観客は十数名いた。その多くは中高年男性で、女性の観客は一人だけだった。

開演は正午と予告されていたが、開演時間直前に洞窟内に入った一般客が一組あったので、その退場を待っての開演となった。

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オープニングは戸外で始まる。

緑の木々にかなり急な傾斜の斜面から、三人の楽人たちが歌を歌いながら、洞穴前の広場に上ってくるのだ。樹々の濃い緑の中に現れる異装をなしたる三人の少女の登場であたりは一気に異世界に変貌する。印象的な素晴らしいオープニングだった。

オープニングの後、洞穴内に観客たちは誘導される。洞穴に入ると、洞穴内の道は軽い傾斜となりすぐに左右に別れる。右手の方から何者かが話している声がする。懐中電灯であたりを照らしながら右手に移動すると、仮面をかぶり、わらじをはいた異形の女がいた。

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この仮面の怪物が一人で語っているところへ、異装の若者が現れる。ケルトの若武者のクフーリンだ。彼は不老不死の水が湧き出るという井戸を探し求めている。

イェイツの『鷹の井戸』の内容をここで私はなんとなくではあるが思い出す。仮面女と若武者は言い争いをしているが、その内容は頭に入って来ない。洞窟内という場所の力が強すぎて、セリフが頭の中に入って来ないのだ。

背後から鈴の音、そして獣の叫び声が聞こえた。仮面女と若武者の背後は盛り上がった丘のようになっているのだが、その高みに鷹が現れた。思わずハッとするような印象的な場面となった。

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突如現れた鷹に激しく動揺する手間の二人。

鷹の姿が消えると、若武者は槍を手にして颯爽と退場していった。

この退場をもって第一部、洞穴内での『鷹の井戸』が終わる。異世界を描き出す幻想劇でこれ以上の舞台装置はそうそうあるものではない。場のインパクトがあまりにも強いので言葉の内容はその空間の中に溶けてしまい曖昧なものになってしまう。

何も知らない人が洞窟に見学に来て、上演の場面に立ち合ったらさぞかしギョッとするに違いない。幸い上演中に「外部」の人が入ってくることはなかった。

 

第一部が終わると洞穴の外に出て、少し休憩となる。10分ほどの休憩の後、第二部会場となる洞穴からさらに200メートルほど上ったところにある「展望台」に移動する。この展望台までの上り下りがかなりの急斜面で往生した。

「展望台」といっても周りは緑の木々に視線を遮られ、特に何が見える訳でもない。谷を挟んで向こう側に、セメント用の石灰岩を削り取られ、片面が禿山になっているのが見えるくらいである。

山の斜面の傾斜が幾分緩やかになっているところに観客が誘導され、そこで第二部の『鷹の風呂』が始まった。

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『鷹の風呂』は一人語りの芝居だった。この山の斜面と斜面を上ったところにある鉄できた小さなテラスが演技場となった。

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寄ってくる蚊を追い払いながらの観劇となった。ここも場所のインパクトが強すぎて、女優が話している内容が断片的にしか頭に入らない。高野竜演出の芝居ではこういうことがちょくちょくある。でもそれで問題かといえば、そうでもない。観劇体験の充実はちゃんと味わうことができている。昨年、北千住のBUoYで上演があった時は二回見にいった。一回目は何がなんやらわからないかったけれど、二回目に見たら戯曲の内容が流石によく頭に入った。やはり複数回見に行くものだなあとは思ったものの、一回目の観劇で不満だったという訳ではない。

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『鷹の風呂』は高野による創作劇だ。野外で声が聞き取りにくいということもあって、正直、ほとんど何が話されているのかわからなかった。家に帰ってウェブ上で公開されている戯曲を読むと、「ああ、これではわからなくても如何しようもないわ」と思う。難解だ。でも面白い。テクストとしてその内容を咀嚼していくと、この戯曲は実に味わい深い文学作品だ。イェイツの『鷹の井戸』を出発点に話がどんどん自由に拡散、拡大していく。内容がわかればわかったで面白いのだが、上演中にわからなくても観劇体験としては特に問題ないように思えるが、平原演劇祭の面白いところだ。

観客の「なんじゃこれは?」という表情を受け止めつつ、この厄介なテクストを30分に渡って語り、役柄を演じきった女優はどうかしている。素晴らしい。

『鷹の井戸』『鷹の風呂』合わせて上演時間は90分ほどだった。

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終演後は食事が用意されていた。『鷹の風呂』で言及されていたコノシロの酢漬けとスパイスで味付けされたクリームチーズ、きゅうりを、それぞれが自分でフランスパンに挟んで食べるサンドイッチが供された。コノシロの酢漬けのサンドイッチは実に美味しかった。これに加えてアメリカンチェリーとすもも(?)というデザートもあるのも嬉しかった。

 

 

 

【劇評】カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』2019/05/22@渋谷ギャラリー・ルデコ

「今」、「ここ」にいる「私」が語る『ハムレット

演技者だけでなく、観客も芝居が終わったあとは、精力を使い果たしたような状態になる。詩的で混沌とした断片的なイメージの集積が、後半に一気に凝縮され、行き詰まるようなクライマックスがどんどん密度を高め、加速しながら連続する。私がこれまで見たカクシンハンのシェイクスピアはどの作品も、「今」、「ここ」にいる「私」のシェイクスピアであり、400年以上前にイギリスで書かれた戯曲をしっかり読み込んだうえで、その世界を現代の日本に生きる私たちに繋げるための様々な劇的でトリッキーな仕掛けが魅力となっている。
ハムレット×SHIBUYA』は2012年のカクシンハンの旗揚げ公演で上演された作品であり、カクシンハンの上演作品のなかでは唯一のオリジナル作品だ。タイトルが示す通り、『ハムレット』のセリフや場面が劇中ではふんだんに織り込まれている。しかし場所はAKIHABARAとSHIBUYA、現代の東京だ。


ほぼ一年前に見たカクシンハン『ハムレット』の冒頭の場面を思い出す。あれは確かシブヤのスクランブル交差点の雑踏から始まった。まだ観客席に開演前のざわつきが残っている状況のなか、劇ははじまる。傘をさした多数の人間が舞台上に描かれた横断歩道を横切る。この都会の雑踏のなかに一人の男がうずくまっている。しかし彼に気を留めるものはいない。せりふのない五分ほどの群像劇は『ハムレット』の物語全体の象徴的なレジュメとなっていた。現代を強引にシェイクスピアの時代に結びつけるオープニングの演出は、カクシンハンの演劇美学の高らかなマニフェストとなっていた。原発事故後のフクシマの惨状を『ハムレット』に重ねた昨年の公演はまさに現代のわれわれの作品としてのシェイクスピアの可能性を提示するものだった(ただしそこに「フクシマ」というある意味手垢のついてしまった記号を用いたことは、作品の解釈の可能性を狭めてしまったように思え、私は評価できなかった)。今回『ハムレット×SHIBUYA』を見ることで、一年前に上演されたカクシンハン『ハムレット』の舞台上演の記憶を見たときが蘇ってきた。あの『ハムレット』の印象的なオープニングのあと、舞台上の世界はテープが巻き戻されるように一気に過去の時代へ、シェイクスピアの『ハムレット』で描かれた「デンマーク」へと移行していった。


現代劇として翻案された『ハムレット×SHIBUYA』では時間は巻き戻されない。抽象化され、象徴化された場としてのアキハバラとシブヤが舞台となり、この場所は二人の青年として擬人化される。『ハムレット×SHIBUYA』では、木村龍之介自身の『ハムレット』という作品に対する姿勢や解釈がより直接的に伝えられる。ハムレットに共鳴し、その存在の混沌と闇の中に果敢に身を投じ、格闘する作・演出家自身の姿が晒されているように感じられた。


ギャラリー・ルデコの中央には小さな丸テーブルが置かれ、そこが演技エリアの核となる。客席の椅子はそのテーブルを取り囲む形で、無造作に並べられている。この上演空間は客席を含め、作品の舞台である「アキハバラ」と「シブヤ」のミニチュアとなっていて、あえて殺風景で雑然とした状態で置かれている。リーディング公演ではあるが、俳優たちはテーブルの周りで座ってテクストを朗読するのではない。照明の効果も使用され、ときに俳優が客席のあいだにも侵入する動的でダイナミックな演出となっている。何よりも俳優の演技が発する熱量が圧倒的だ。その激しさにこれがリーディングであることを忘れてしまう。ギャラリー・ルデコの空間全体が象徴的な劇的空間となり、観客もその空間の一部として取り込まれてしまう。


安定していた世界が突然ゆらぎ、崩れてしまったときに、人はどうなってしまうのか。世界と「私」との関係が激しく揺さぶられたときのハムレットの混乱と不安は、断片的な言葉の連鎖というかたちでそのまま伝えられる。断片に解体され、再構成された『ハムレット』は、現代の「アキハバラ」と「シブヤ」という場のなかで徐々に不可解で不気味で怪物的なイメージを形成しはじめる。あらかじめ観客に伝えられる「あらすじ」は奇妙で意味不明の状況しか記しておらず、冒頭の詩的で断片的なモノローグ解読の手助けにはならない。『ハムレット×SHIBUYA』の難解さは、あのハムレットが味わい、作・演出の木村が共鳴した混乱と不安を、観客であるわれわれにも共有させることを意図しているかのようだ。このわけのわからなさは解決されることはない。ハムレットの苦悩は重苦しい闇として最後まで持続する。いやむしろその闇はどんどんと深くなって行った。


上演時間の1/3を過ぎる頃からようやく混沌から抜け出し、それまで提示されていた暗示的な要素が劇的なアクションを形作り、物語が展開し始める。しかしそこから提示されるシーケンスがことごとく濃密で、凝縮された感情が爆発するような激しい場面が最後まで延々と続くのだ。劇中人物に憑依されたかのような俳優の熱演に、観客である私は戸惑いのなか、なんとも抗しがたい強引さで引きずり込まれた。あの荒々しさには現代の日本に生きる自分の物語として『ハムレット』に真摯に向き合ったときに作・演出の木村の中で湧き上がった思いが反映されているに違いない。ハムレットが具現する闇の深さに飲み込まれそうになったとき、恐怖に思わず悲鳴をあげそうになる。その悲鳴を演劇という形式に抑え込むことでなんとか第三者に伝えようとする。『ハムレット×SHIBUYA』では、作・演出の木村と俳優たちが全力で溢れ出る闇と格闘し、それを不器用に表現としてかたちにしようとするさまがむき出しになっている。


クライマックの場面が次々と続くような重量感のあるリーディング公演で、終演後の俳優たちは精力を使い果たした抜け殻のようだった。観客である私も重力から解放されたような虚脱感を覚えた。カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』は、「今」、「ここ」に生きる「私」が『ハムレット』とどう格闘したのかを伝える壮絶な記録であり、『ハムレット』の闇が含みもつ可能性の豊かさを示す舞台だった。[観劇日:5/22]

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カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』2019/05/22@渋谷ギャラリー・ルデコ
http://kakushinhan.org/others/hs
【公演情報】
カクシンハン特別リーディング公演『ハムレット×SHIBUYA─ヒカリよ、俺たちの復讐は穢れたか─』
- 作・演出:木村龍之介
- 原作:シェイクスピアハムレット
- 会場:ギャラリー LE DECO 4
- 2019年5月22日(水)─26日(日)
- 出演:河内大和、真以美、岩崎MARK雄大、島田惇平、鈴木彰紀、椎名琴音
- 映像:松澤延拓
- 照明:中川奈美
- 音響:大園康司
- 美術:乗峰雅寛(文学座
- 企画・製作:カクシンハン

ヨアン・ブルジョワ『Scala - 夢幻階段』;ミロ・ラウ『コンゴ裁判』;SPAC『ふたりの女』(ふじのくに⇄せかい演劇祭2019)

2019/04/28
ヨアン・ブルジョワScala - 夢幻階段』;ミロ・ラウ『コンゴ裁判』;SPAC『ふたりの女
 
まっすぐ伸びる階段を中央にしたシンメトリックな舞台美術は、暗めの照明で照らし出されていてグレーのモノクロームでおしゃれにまとめられている。なんとなく『無印良品』を連想させる。
トランポリンを使って、フィルムを逆回しして見せるような動きの面白さが何よりも印象的だ。この「逆回し」は様々なバリエーションとともに何度も繰り返される。
シルク・ド・ソレイユのようだと評した人もいたが、確かに地味でシックでスノッブなシルク・ド・ソレイユという感じ。音楽を現代音楽風にして、照明を暗くして、そして抑制を感じさせるストイックで洗練された表現による新スタイルの芸術的サーカスというか。体の関節がいきなり外れて崩れるような動き(舞台セットの椅子やテーブルもこうした崩れ方をする仕掛けが施されている)もまた執拗に繰り返される。
同じ動きを何回も繰り返し、それを徐々に変化させるという手法は、その表現の洗練されたストイシズムと相まって、フィリップ・グラスの音楽を連想させるものだった。
最初のうちは表現としてちょっと気取りすぎてやだなあと思って見ていた。場面のヴィジュアルの面白さはあるが、想像力を刺激するドラマ性が弱いようにも。ただ反復しながらグラデーションのように変化していく場面に次第に引き込まれ、作品から詩的面白さも感じとられるようになり、見ている気分も盛り上がってきた。
 
昨年秋にアンスティチュで行なったイベントで、SPACの横山義志さんからこの作品の報告を聞いていて、日本で上映があるなら必ず見に行こうと思っていた。1990年代末から2000年代の初めにかけてあったコンゴ戦争の後(600万人の死者が出たという)、なお混乱が続くコンゴに演劇家のミロ・ラウが乗り込み、戦争後も続く多国籍大企業によるコンゴ人民からの搾取と虐殺事件の当事者を召喚し、擬似裁判によって事実を検証する様子を記録したドキュメンタリー映画だった。
これは驚異的な作品だった。リミニ・プロトコルなど、演劇的手法を用いて現実社会に切り込む手法の作品はすでに数多く試みられている(ドキュメンタリー演劇と呼のだったけ)。私が驚愕したのは、ミロ・ラウが演劇的手法で捉えようとした現実があまりにも巨大であり、そしておそらく非常に危険でデリケートでスリリングな問題であるからだ。
ミロ・ラウはコンゴの政治的状況の混沌のなかに果敢に飛び込み、「模擬裁判」という演劇的茶番に関係者を巻き込むことでその網目を解いていく。
なぜ模擬裁判か?それはコンゴの現実が自らの関わる事件についての公平な司法を期待できる状況にないからだ。こうした「模擬裁判」は外部者であるミロ・ラウであったからこそ可能になった。しかしそれを実現するための手間はどれほどのものだっただろうか?
いったいどうやってこの大掛かりな茶番に当事者である彼らを巻き込むことが可能になったのか。接触する人物の人選、そのアプローチ、引き込むための戦略の構想、こうした作業には膨大な労力と時間、智恵が投入されている。その作業を設計し、自分が動くだけでなく、この危険で不確定要素の大きいプロジェクトへの協力者を探して、説得し、彼らをを動かすための手間を考えると、頭がクラクラする。
この作品はまさしく演劇的発想と方法が用いられているが、演劇ではないという作品だ。「擬似裁判」という現実の模倣的再現が現実に裏返っていく。スリリングで緊張感に満ちた時間。
 この作品は純然たるドキュメンタリーではない。ドキュメンタリーにも「脚本」はあるが、おそらくこの作品にもかなり書き込まれた脚本はあるように思う。そうでなければ一発どりであの裁判場面は撮ることが不可能ではないか。演技指示という意味での演出もあった可能性が高い。問題はどこまでそういった作り込みを行ったかだ。周到なリサーチの上、様々な可能性を考慮した上で、一番ギリギリのところを切り取ろうとしているように見えた。
 作品創造に関連する文献を読みたい。制作の記録なども。また静岡の芸術祭での二回だけの上映、限定された演劇ファンを対象の上映だけはもったいない。全国の映画館で上映されれば、大きな反響を期待できる作品だ。東京でもまた上映されて欲しい。
 
4年前に再演を見ている。たきいみきが素晴らしくいい。たきいは年月を経るに従ってどんどん魅力的な女優になっている。見た目の堂々たる美しさだけじゃなくて、コミカルな表現がさまになっているところとか、その愛嬌にグッとくる。あと印象に残ったのは武石守正。登場人物の中で一番狂っている人物に見えるその異様な雰囲気と存在感。武石の登場場面が作品の混沌を深めている。俳優宮城聡の出演や三島景太のコミカル・グロテスクな怪演が、観客を喜ばせる。舞台芸術公園の森を借景としたビジュアルの美しさ、壮大さの中で、唐十郎の詩を堪能できる秀作だった。

ザカリーヤー・ターミル著・柳谷あゆみ訳『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』

この短編小説集は2018ねん2月に白水社から刊行され。
 
ザカリーヤー・ターミル(1931-)は現代シリアを代表する作家だが、1981年以降は英国に拠点を移し作家活動を行っている。『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』は200年に刊行されたターミル9冊目の短編小説集とのこと。長さの異なる59編の短編小説が収録されている。最も長いものでB5版のページで5ページ、短いものはごく数行しかない。
翻訳者の柳谷あゆみさんとは、早稲田大学文学学術院の講師控室で知り合った。彼女はふじのくに⇄せかい演劇祭2016でレバノンの演劇人、サウサン・ブーハーレドの『アリス、ナイトメア』の字幕操作をしていて、終演後に赤いシャツを着た太った中年男がブーハーレドに話しかけているのを見ていたそうだ。その赤シャツ男が、彼女の非常勤先でもある早稲田大学文学学術院の講師控室でパソコンに向かっていたので、思わず声をかけたそうだ。赤シャツを着ているとこんなこともある。
『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』に収録されている作品の多くは、シリアの架空の街区、クワイク街区を舞台としていて、荒廃、暴力、横暴、悲嘆、諦念が支配するこの貧民街で暮らす人々の生活がリアルに描き出されている。しかし言論や表現活動に厳しい制限が加えられているシリアでは、現状を批判する直截的な表現は注意深く避けなくてはならない。したがって『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』の描写は、生々しくリアリズムを感じさせつつも、寓意的・隠喩的な表現に満ちている。
B5版で71頁ほどの冊子ではあるが、稠密で詩的な描写ゆえに、読む終えるのにはかなり時間がかかった。耳慣れない固有名詞やごつごつとした文体に最初戸惑ったが、しばらくのあいだそれを我慢して読み進めると、シュールリアリズム的ともいえるブラックでグロテスクな幻想が立ち現れ、その世界に入り込んでしまう。短いエピソードの連鎖と語り物を思わせるハードボイルドな文体、そして描き出されたグロテスクは、『アラビアン・ナイト』のような説話集、あるいはオウィディウスの『変身物語』を連想させた。実際、この短編小説集の登場人物はいろいろなものへと姿を変える。暴力的で不条理な社会を生き抜くシリアの住民たちのたくましさには、ブラジルの貧民街のアウトローたちの姿を描いたフェルナンド・メイレリスの映画、『シティ・オブ・ゴッド』を連想した。
奇妙な後味をもたらす面白い小説集だった。苛酷な紛争が続くシリア社会で育まれた屈折した知性による現代暗黒寓話集である。

2018年の演劇生活 総括

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2019年あけましておめでとうございます。
2018年は119本の舞台作品を見ました。見た作品については、満足度を☆の数で評価しています。最高点が5つ星(☆☆☆☆☆)で、0.5点は黒星★。
 
5点(☆☆☆☆☆)が「素晴らしい!完璧!」、4.5点(☆☆☆☆★)「素晴らしい、けれどちょっとひっかったところもあった」、4点(☆☆☆☆)「大満足」、3.5点(☆☆☆★)「満足」、3点(☆☆☆)「まあ悪くない」、といった感じで、見た直後の印象の評価になっています。
 
昨年見た作品のうち5つ星評価は14作品でした。そして4.5点が21作品。おおむね4.5点以上だと、きわめて満足度の高い公演だったと言っていいでしょう。私の場合、その割合は総観劇数の約3割になります。
ただ振り返ってみると、高評価をつけた作品でもどんな作品なのかほとんど忘れているものもかなりあります。また見た直後は低評価でも、印象に強く残っている作品もかなりありました。
 
2018年の片山ベストテンを上げると以下の通りになります。
  1. 平原演劇祭『平原演劇祭2018第2部 奉納ヴィヨンの妻』@鶴見線浅野駅周辺
  2. 赤門塾演劇祭『愛の乞食 他』@赤門塾
  3. 劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』@明治大学14号館演劇Bスタジオ
  4. 劇団ぶどう座『植物医師』@劇団ぶどう座稽古場
  5. ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』@早稲田大学演劇博物館
  6. ゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』@彩の国さいたま芸術劇場
  7. iaku『逢いにいくの、雨だけど』@三鷹芸術文化センター星のホール
  8. ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』@こまばアゴラ劇場
  9. ゴキブリコンビナート『情欲戦士ロボ単于』@小金井公園特設テント
  10. ココカラ『ヤルタ・ゲーム』@アポロカフェワークス
 
埼玉県宮代町在住の演劇人、高野竜氏が主宰する平原演劇祭はいわゆる演劇という枠組みを超越したきわめてユニークな芸術表現ですが、昨年6月に横浜市鶴見線浅野駅周辺で行われたオールナイト公演はまさに類例のない演劇体験でした。鶴見線海浜工業地帯への通勤者のための支線で、そのただなかにある無人駅、浅野駅周辺は深夜にはほぼ無人地帯となります。『平原演劇祭2018第2部 奉納ヴィヨンの妻』は午前1時開演で、午前5時過ぎに終演。浅野駅周辺で移動しながら行われるいくつかのパフォーマンスを、20名ほどの観客が懐中電灯を片手にぞろぞろ追いかけながら見るというものでした。この公演のレポートは、http://otium.hateblo.jp/entry/2018/06/10/000000にあります。
 
赤門塾は在野の哲学者、長谷川宏氏が埼玉県所沢に1970年に開業した小中学生対象の学習塾です。現在は長谷川宏氏の息子の優氏が塾の経営と演劇祭などの塾行事を取り仕切っています。赤門塾では40年以上前から3月末に塾生や塾生OBたちによる演劇祭を行っています。小学生の部、中学生の部、高校生以上OBの部の三部に分かれた公演は、アマチュア演劇ながら演者の本気が舞台からほとばしる見ごたえのあるものでした。この演劇祭のレポートはhttp://theatrum-wl.tumblr.com/post/173166619826/にあります。
 
劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』は明治大学の学生演劇サークルの公演でした。日本ではほとんど知られていないカナダのケベックの劇作家、ミシェル・マルク=ブシャールの傑作を、日本の大学生である自分たちの演劇として演じるためのさまざまな工夫がありました。原作の丁寧な読み込みを感じさせる優れた翻案劇になっていました。この公演についてはhttp://theatrum-wl.tumblr.com/post/171978186001/に劇評を掲載しています。
 
劇団ぶどう座は、岩手県西和賀町で半世紀以上にわたって活動している劇団です。『植物医師』は宮沢賢治作の短い作品ですが、この作品をこの劇団の稽古場で、 岩手の演劇人によって演じられるのを見ることで、いっそう味わい深い演劇体験を得ることができたように思いました。この公演は、西和賀の劇場、銀河ホールが毎年開催している演劇祭のなかで上演されました。演劇祭のレポートおよびこの公演の劇評は、http://theatrum-wl.tumblr.com/post/178069818651/に掲載されています。
 
ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』は早稲田大学演劇博物館の空間の特性が十全に生かされた優れた演出でした。リンドバークを演じた女優、河原舞のありかたも印象的でした。
 
ノゾエ征爾が演出したゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』は、数百人の素人老人俳優を舞台に上げるという画期的で独創的なアイディアの公演でした。大群衆老人俳優のパワーとカオスが作り出すエネルギーが圧巻でした。
 
昨年はiaku / 横山拓也の作品が数多く東京で上演され、この優れたストレートプレイの書き手が東京でも広く認知されるようになったように思います。横山戯曲はアクロバティックでスリリングな対話が、人間の心理の微妙な動きを丁寧に伝えるドラマティックな討論劇です。彼の作品には一つとしてつまらない作品はありませんが、今年上演された作品のなかで私が一本を選ぶとなると12月に三鷹で上演されたiaku『逢いにいくの、雨だけど』になります。
 
青年団所属の俳優の河村竜也と劇作家・俳優の山田百次によるホエイ『郷愁の丘ロマントピア』は、湖に沈んだ北海道の炭鉱町を舞台に地方の現代史を悲劇をしっかりと描き出す傑作でした。
 
ゴキブリコンビナートの公演は常に期待以上の過激さを見せてくれます。昨年に引き続き、小金井公園に設置された特設テント劇場での公演は、演者のみならず観客も身の危険を感じるスリル満点のスペクタクルでした。その破格にばかばかしく、壮絶な表現には、圧倒的な感動もあります。
 
←ココカラは小さなカフェを会場に、まだ日本に紹介されていない英語圏の現代作家の戯曲をリーディングのかたちで上演するユニットです。今回はアイルランドの劇作家、ブライアン・フリーるによるチェーホフ『犬を連れた奥さん』の翻案劇の上演でした。観客の想像力に訴えかけるリーディング公演ならでは醍醐味を味わうことのできる優れた演出でした。この公演のレビューはhttp://otium.hateblo.jp/entry/2018/07/13/000000にあります。
 
ベスト10に上げた作品以外にも言及しておきたい公演はいくつもあります。
SPACの公演では、SPAC俳優の牧山祐大演出による個人企画、『犬を連れた奥さん』(榊原有美、大高浩一出演)が印象に残りました。音楽の生演奏付きのチェーホフの短編小説の翻案でした。こうした小さい企画公演は今後もやって欲しいと思います。
 
東京外国語大学の学生劇団、劇団ダダンによる『つつじの乙女』も素晴らしい公演でした。信州の民話を取材した松谷みよ子の作品の翻案劇。恋の情念と狂気の物語でした。原作にはない外枠の設定もうまく機能していました。
 
島根県松江市で半世紀以上にわたって活動を続ける劇団あしぶえの代表作、『セロ弾きのゴーシュ』をこの劇団の本拠地であるしいの実シアターで見ることができたのも、忘れがたい演劇体験となりました。最小限の要素で構成された舞台美術、切り詰められた台詞のやりとりによって物語の本質を伝える緊張感に満ちた美しい舞台でした。
 
年末に行われたチンドンのまど舎の『中野チンドン劇場〜のまど舎創業五周年記念興行〜』はいわゆる演劇公演ではありませんが、ちんどんをベースにしたユニークでアットホームな和風レビューショーでしたた。観客がこれほど楽しそうな笑顔の公演はめったにあるものではありません。チンドンのまど舎のサービス精神にエンターテナーの魂を感じることができました。
 

5つ星評価:14作品

  1. 1/16 ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』@こまばアゴラ劇場
  2. 2/10 劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』@明治大学14号館演劇Bスタジオ
  3. 2/12 ハンブルク・バレエ団『ニジンスキー』@東京文化会館
  4. 3/24 赤門塾演劇祭『愛の乞食 他』@赤門塾
  5. 5/19 iaku『あたしら葉桜、葉桜』@こまばアゴラ劇場
  6. 5/27 ゴキブリコンビナート『情欲戦士ロボ単于』@小金井公園特設テント
  7. 6/7 日本のラジオ『ツヤマジケン』@こまばアゴラ劇場
  8. 6/9 平原演劇祭『平原演劇祭2018第2部 奉納ヴィヨンの妻』@鶴見線浅野駅周辺
  9. 7/14 ←ココカラ『ヤルタ・ゲーム』@アポロカフェワークス
  10. 7/24 Ensemble Pygmalion魔笛』@Grand Théâtre de Provence@Aix-en-Provence
  11. 9/2 劇団ぶどう座『植物医師』@劇団ぶどう座稽古場
  12. 9/28 ゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』@彩の国さいたま芸術劇場
  13. 10/17 ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』@早稲田大学演劇博物館
  14. 12/8 iaku『逢いにいくの、雨だけど』@三鷹芸術文化センター星のホール
 

4.5星評価:21作品

  1. 1/1 地点『どん底』@アンダースロー
  2. 1/14 SPAC『しんしゃく源氏物語』@静岡劇術劇場
  3. 3/11 榊原有美、大高浩一『犬を連れた奥さん』@静岡芸術劇場一階ロビー特設ステージ
  4. 4/8 ITOプロジェクト 糸あやつり『高丘親王航海記』@ザ・スズナリ
  5. 4/28 たきいみき、奥野晃士、春日井一平『寿歌』@野外劇場「有度」
  6. 5/24 iaku『粛々と運針』@こまばアゴラ劇場
  7. 5/25 iaku『梨の礫の梨』@こまばアゴラ劇場
  8. 5/26 iaku『人の気も知らないで』@こまばアゴラ劇場
  9. 5/31 田上パル『Q学』@アトリエ春風舎
  10. 6/19 劇団ダダン『つつじの乙女』@東京外国語大学
  11. 6/29 モメラス『青い鳥 完全版』@STスポット
  12. 7/6 Kawai Project『ウィルを待ちながら』@こまばアゴラ劇場
  13. 7/20 Anne-Cécile Vandalem『Arctique』@La Fabrica@Avignon
  14. 7/22 Les Bâtards Dorés『Méduse』@Gymnase du Lycée Saint-Joséph@Avignon
  15. 9/1 劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』@Uホール
  16. 9/8 平原演劇祭『嵐が丘』@BUoY
  17. 9/23 劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』@しいの実シアター
  18. 9/24 モメラス『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』@BUoY
  19. 11/18 さいたまネクスト・シアター『第三世代』@彩の国さいたま芸術劇場 NINAGAWA STUDIO
  20. 12/2 新生 若獅子『上州土産百両首/蛍―お登勢と龍馬―』@シアターΧ
  21. 12/14 チンドンのまど舎『中野チンドン劇場〜のまど舎創業五周年記念興行〜』@なかの芸能小劇場
 

スタッフド・パペット・シアター『マチルダ』

作・演出・美術:ネビル・トランター Neville Tranter

出演:ネビル・トランター、ウィム・シトヴァスト Wim Sitvast

劇場:プーク人形劇場

上演時間:55分

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とにかく脚本が素晴らしい。こんなリアルで美しい脚本はそう書くことができるものでない。人形劇の特性が生かされた素晴らしい脚本だった。これまで見てきた大人向けの人形劇の多くは脚本に不満を感じていた。日本では大人向け人形劇の観客はきわめて限定されていて、そのほとんどが人形劇の創作に関わっている方でないだろうか。そのためか人形造形の美しさや操演の洗練ぶりなど技術的なところに重点が置かれ、台本は人形を動かす口実、枠組みにしか感じられない空虚で貧弱な内容のものが多いように思っていた。大人のための人形劇はそのあまりに限定されあ観客層ゆえに、操演や人形をいかに見せるかが重視され、人形によるドラマよりもむしろ人形そのものを見るための芝居になっているものが多いように思った。

 人形劇の人形は、その空洞性、受動性ゆえに、人間の俳優以上に、観客の感情や願望の受容体となる。生命のない人形はその思いをじっと受けとめることで、各々の観客のもとで生命を持つ自律的な存在となる。私たちは人形に私たち自身の姿を見ている。

生身の俳優によって現実を表象するのではなく、あえて人形が使われる意味はなんだろうか。人形劇を見るたびにこの問は繰り返される。人形は生身の俳優の代理なのであろうか。代理であるなら、どこに人形に俳優を代理させる意味があるのだろうか。人形劇は人間の俳優の演じる演劇の代替ではなく、人形劇固有の世界があるはずだ。それではいわゆる演劇にはない、人形劇固有の表現とはどんなものだろう。

あの残酷さと優しさは、人形という媒介を通してこそ、直視できるものとなる。人形劇は、世界の本質を抽出したうえで、それに具体的なかたちを与えることができる。人形は本質的に象徴的で寓意的な存在だ。本当に必要な要素だけを伝えるそのストイシズムゆえに、人形は私たち観客の様々な思いを受けとめる容器となりうる。

チルダは介護付き老人ホーム《カーサ・ヴェルデ》で暮らす102歳の老女の名前である。暗い舞台上の中心で彼女は開演前から鉄棒にじっとぶら下がったまま、前方を眺めている。眺めているというはその表情はにらみつけてるというほうが近いかもしれない。55分の上演時間のうちの最初の40分間、彼女は同じ姿勢を保ったまま、動きもしないし、話もしない。不動の彼女の前で、《カーサ・ヴェルデ》の経営陣の二人はどうやって老人たちを食い物にして、さらに大きな利益を得るかという話ばかりしている。老人たちの介護をする男の看護士はいつも不機嫌・無愛想で、老人たちの扱いもぞんざいだ。入居者の一人マリーは看護士の目を盗み、新聞社に電話して《カーサ・ヴェルデ》の劣悪な環境を告発するマリー、ダウン症の老婆ルーシーと彼女にずっと付き添ってきた心優しき兄のヘンリー、ライオンのぬいぐるみを唯一の友とし、狂気と絶望のなかに生きるミスター・ロスト。102歳のマリーは鉄棒にぶら下がったまま、《カーサ・ヴェルデ》の人々の様子を見守っている。

チルダはこのままずっと最後まで動かないままなのではないかと思っていたら、開園して40分たったころにようやく彼女は動き出す。最初は意味のわからないうめき声をあげて、それが徐々に意味のある言葉になっていく。動けるといっても彼女は鉄棒にぶら下がった状態であり、鉄棒を離れて移動することはできないようだ。彼女が大事にしていた赤毛の女の子の人形が見当たらないとマチルダは当り散らしている。その人形は実は彼女の前においてあるテーブルにぶら下がっているのだが、彼女の位置からはそれを見ることができない。黒いシャツを着た操演者(ネヴィル・トランター)の姿を彼女のは見ることができるのだが、それが誰なのかはわからない。観客にもこの操演者が劇のなかの人物としてどういう役割を果たしているのかわからない。彼女は話し始めたのは、戦争が引き離した彼女の若いころの恋人ジャン・ミシェルのことだ。赤毛の人形はジャン・ミシェルが彼女に贈ったプレゼントだった。しかし彼女が誰に向かってジャン・ミシェルの思い出を話しているのか。マチルダはこの黒シャツの人間に話しかけるのか、独り言を言っている、自分に言い聞かせているのか。

若いときの恋の思い出、これだけが102歳となった彼女の生を支えているように見えた。ジャン・ミシェルのことを語る彼女は、その語りともがくような動きによって、彼女がまさに「生きている」ことを私たちに力強く伝えている。

死の間際の老女が若いころの恋の記憶を再現するという作品などいくらでもあるではないか。確かにそのとおりだ。しかしここで人形劇の特質に立ち返ってみよう。