閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

genre:Gray(黒谷都ソロ公演)『涯なし』

genregray.wixsite.com

  • 人形遣い:黒谷都
  • 人形美術:渡辺数憲  
  • 原案:岡本芳一
  • 作劇:黒谷都、岡本芳一
  • 音響:中村嘉宏
  • 音構成:山口敏宏
  • 照明:しもだめぐみ
  • 舞台監督:荒牧大道
  • 劇場:鶴瀬 キラリ☆ふじみ
  • 上演時間:50分
  • 評価:☆☆☆

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人形に取り憑かれ、40年以上人形遣いをやってきた人の集大成のようなソロ公演である。人形劇の特に熱心な観客とは言えない私がいったい何をコメントできるのかという感じもする。率直に書くと、この公演が提示した世界は私の持っている世界とは折り合いが悪かった。しかし「私には合わない演劇だ」と切り捨てるのではなく、この公演をめぐって自分の演劇観、人形劇観を再検討し、それについて語らずにはいられないような気分にさせる公演でもあった。

黒谷都の操演を私が初めて見たの5年ほど前のことだ。白百合女子大で行われた加藤暁子の講演会のあと、黒谷都が渡辺数憲の人形を動かす様子を実演したのを見たのだった。ごく短い時間だったが、渡辺数憲のリアルで精密な人形の造形の美しさとその人形を魔法を使うかのように柔らかに優しく動かす黒谷の操演に一気に引き込まれてしまった。それ以降、黒谷都(genre:Gray)の公演は何回か見に行っている。

『涯なし』というタイトルの公演は2015年の秋に六本木のストライプハウスで行われた人形演劇祭のときにも見ているはずなのだが、どんな舞台なのかまったく記憶に残っていない。それでもこれまでに見た黒谷都の舞台から、今回の作品がどのようなものであるかはだいたい予想がついた。そして公演はほぼ私の予想を裏切るものではなかった。

白い服、白い髪の毛、白い肌の等身大の少女の人形を黒子姿の黒谷が操作する。黒谷の繊細な操演は、魔法を感じさせるような優雅さでその人形を操る。はっとするような美しい場面がいくつかある。しかし場面の美しさはあっても、各シーケンスをつなぐ脚本が貧しい。人形と人間の驚異的なコンビネーションが生み出す夢幻の場面をいくつか提示しながらも、骨格としての脚本が弱いゆえに、その夢幻は孤立したままで深みのあるイメージの連鎖を作り出せない。
黒子だった黒谷が白い人形を操作する。50分ほどの上演時間のうち、30分ほどは無音の状態のまま、人形による舞踊が演じられる。いっそずっとこのまま最後まで行けばいいのにと思うのだが、この無音の状態での舞踊は維持されない。というか舞踊だけではスペクタクルを維持できないのだ。

操演者の黒谷がグリム童話の一部のようなものを語る。なぜこんなところで、こんなありきたりの、お約束めいた語りを入れるのだろうと私は思ってしまう。音楽も入る。黒子の衣装を脱ぎ、人形と同じ白い衣装と白い肌、白い髪の毛となった黒谷が動く。そして最後は人形が黒子となり、黒谷が白い人形となって入れ替わる。悪くない流れに思えるが、実はこの人形と人間の入れ替わるイメージはほとんど常套句、クリシェといっていい。このクリシェが魅力的に感じられないのは、黒谷の動きが人形の動きよりもはるかに凡庸に感じられること、そして後半に音楽が入り、音楽に時間の流れが制御される普通の展開になってしまうことによる。

人形と自分の身体をどう見せたいかという意志は表現から明確に伝わってくる。結局のところ、これは演劇である以上に「人形」劇なのだ。人形劇を見たい観客のための作品だ。人形という存在を偏愛する人たちのための演劇であり、演劇(ドラマ)の枠組みは人形を見せるための口実としてある。

私はむしろ人形という特殊な演劇的身体の特性が生かされた演劇を見てみたい。人形の造形のこちらをぎょっとさせるような美しさ、そして黒谷の卓越した操演技術がありながら、その魅力が、よりソリッドで適切な演劇的形式のなかで効果的に提示されていないのをもったいないと私は思ってしまう。何でこんな紋切り型の自分語りの「詩」を見せてしまうのだろう(もちろんそういう表現をしたいからなのだが)。脚本が弱いと思うのは、黒谷都の作品だけではない。これまで見てきた大人向きの人形劇は総じて脚本への関心が、人形の造形や操演技術に比べて薄いのではないかという印象を私は持っている。脚本への関心が薄いために、自分が紋切り型のイメージのなかで陶酔していることに気づかない。

こんなありきたりの自分語りをやらずに、メーテルリンクの芝居をやればいいのに、と私は思う。「マリオネットのために」と書かれたいくつかの一幕劇、そして『青い鳥』や『ペレアス』。『青い鳥』のチルチルとミチルだけを人形にして他を人間が演じるとか、あるいはチルチルとミチルだけを人間が演じ、他は全て人形にするとか、想像が膨らむ。大正期にはメーテルリンクの劇が人形劇で実際に上演されていた。人形劇の人形はノイズのない純演劇的な身体であり、そのストイックな演劇性がもたらす欠落ゆえに、特異な詩性と象徴性を自ずから提示することができる。メーテルリンクやイェーツを人形劇で見てみたいと私は思う。

 

私がこれまでに見た黒谷都の人形舞台で、私が圧倒的に素晴らしいと思っているのは、2015年5月1日に見た『淡野弓子<操り人形と歌の夕べ>~「ユトロ」とともに~』だ。これは声楽家の淡野弓子が舞台を構成した、音楽、語り、そして人形の共同作業が、奇跡的とも思えるような見事なポリフォーニーを奏でる複合的スペクタクルだった。この舞台で黒谷は井桁裕子が作った少女の人形ユトロを操演した。ただしこの人形は造形美術としての人形で、人形劇用のものではない。人形のパートは、武久源造の音楽、モンテベルディの《アリアンナの嘆き》、岡本かの子『狂童女の戀』の語りのなかに、置かれた。演劇ではないコンサートと朗読によるこの舞台が、高い演劇性を持ち得たのは淡野弓子が優れた読解力を持つ歌手であり、歌曲が内在するドラマ性を人形とともに効果的に引き出し、一つの世界として構成することに成功したからである。この複合的な表現の舞台のなかで、黒谷が操演する人形パートは埋没することなく、むしろ他の表現との関係性がもたらす相乗効果のなかで、その特異な存在感を印象づけていた。

劇団サム『K』

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原作:フランツ・カフカ『審判』『変身』『城』『父への手紙』

構成:羽場小百合・丸子修学館高校演劇部

演出:田代卓

会場:練馬区生涯学習センター

評価:☆☆☆☆

上演時間:75分

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劇団サムは、石神井東中学校演劇部のOG・OGたちがメンバーの劇団で、今回の公演が二回目になる。劇団主宰は同演劇部の顧問だった田代卓だ。田代は3年前に退職したが、その最後の勤務校が石神井東中学だった。田代は中学演劇の卓越した指導者であり、石神井東中学在職の6年間に同校演劇部を都大会の常連校にした。退職の前年には関東大会、退職の年には沖縄で行われた全国大会に石神井東中学演劇部を導いた。

『K』は2013年の高校演劇全国大会丸子修学館高校(長野県)が上演した作品で、同校はこの作品でで優秀賞に選ばれた。カフカの『父への手紙』を外枠に設定し、その内側でカフカの代表作である『審判』『変身』『城』が自由に再構成されている。『父への手紙』ではカフカのその父への葛藤が綴られている。この手紙は実際にはカフカの父は読むことがなかったと言う。カフカエディプス・コンプレックスが、『審判』『変身』『城』のなかに投影されているという解釈のもと、外枠と内枠のエピソードが入り組んだかたちで提示され、その虚構と現実の交錯のなかに作家カフカの姿を浮かび上がらせるという非常によくできた脚本だ。『審判』『変身』『城』のなかにカフカエディプス・コンプレックスを読み取るというはそれほど独創的な読みではないかもしれなが、高校演劇らしからぬ本格的な演劇作品の脚本である。

4作品の登場人物約40人を、16人の若い俳優が演じた。各物語の各シーケンスはかなり複雑に絡み合っているので、その演じ分けは大変だ。各人物のキャラクターを記号化しはっきりと示す他、舞台空間を垂直方向に二段に分け、さらに水平方向にもいくつかに分割する、背景のホリゾント幕の色をエピソード毎に変化させるなどの工夫で、展開が混乱しないような配慮がされていた。音楽も多用される。それでもやはり手強い芝居だった。

時折コミカルな芝居も組み入れられていたが、芝居のアンサンブルの完成度はいまひとつで、会話のリズムが若干重苦しい。また各俳優のエネルギー、芝居の強さも不揃いだった。

公演の完成度の点では難点はあったけれど(難しい芝居だった)、中学演劇部のOB・OGが年度を越えてこうして集まり、公演にまでたどり着いたというのは素晴らしいことだと思う。中学演劇部では田代に指導されるまま、おそらく何もわからない状態で演劇をやっていた子供たちが、卒業後またかつての顧問を中心にこうして集まって「劇団」を作って公演を行うなんて、どんな気持ちだろう。練馬区生涯学習センターは300席ほどの客席がある会場だった。今日は激しい雷雨だったのだが、客席は8割がた埋まっていた。

終演後、照明スタッフを含めた17名が全員一言ずつ挨拶をしたが、このカーテンコールに感動してしまった。今後も年に一度のペースで公演を続けていく予定だと言う。ずっと見守っていきたい。

ゴキブリコンビナート『法悦肉按摩』

ゴキブリコンビナート

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ゴキブリコンビナートの公演で期待を裏切られたことはない。常にこちらの期待を越えた過激で壮絶で独創的な趣向で楽しませてくれる。小金井市某所の野外テントで行われた本公演も壮絶で苛酷な、そして驚異的なパフォーマンスだった。場所を特定されてはまずいので、公演終了後までテントの写真はSNS等に公開しないように言われた。
今回の本公演も強烈だった。受付のときに「危険で汚れますけど」とさらっと注意される。もちろんそんなことは承知の上だ。

整理番号順に並ぶのだが、入場前に視線を塞がれてしまうのだ。眼鏡をかけていない観客はアイマスクを、眼鏡をかけた観客は黒い布袋を頭からすっぽり被せられる。観客の9割はビニール合羽を持参していて、行列時にスタンバイしていた。

ゴキコン公演ではビニール合羽は必須アイテムだ。だいたい9割方の観客が持参している。私はこれまであまり服が汚れることはなかったので今回は持参しなかったのだが、服が汚れる汚れないに関わらず、一つの観劇スタイルとしてビニール合羽は持って行くべきだった。

都内某所での野外テント公演だったが、入場前から恐くてどきどきする。客入れに時間がかかった。そして芝居がはじまるとテント内は阿鼻叫喚となった。

目が見えない状態で一人ずつ誘導されて入場するので、入場にはかなり時間がかかった。時計も見ることができないため確認できなかったが、十五分以上は予定していた開演時間より押していたと思う。

立ったままでの観劇である。観客は10畳ほどの狭い空間に押し込められる。体が触れあうぐらいの密集ぶりだ。そこは「満員電車」だった。痴漢たちが密集した車両のなかを跋扈する。酔っ払いが乗り込んできてゲロを吐く。上から酸っぱい匂いの液体が振ってきた。観客は目隠しをされたまま、叫び声を上げながら逃げ惑う。目隠しをはぎ取られると、今度は女性乗客数名がお腹の調子が悪いらしい。彼女たちは壁や天井の鉄パイプによじ登り、下痢便を下に向かってまきちらす。阿鼻叫喚の観客たち。汚物がばらまかれるときにさっと身構える緊張感がたまらない。本公演では本当にフード付きの雨合羽は必須だった。さもなければ頭上から汚物にまみれていた可能性がある。

この満員電車の場のあと、壁が取り払われる。炭坑での悲惨な労働生活でさんざんいたぶられた健太とチアキのカップルは、健太の両親が住む農村に移住する。チアキはストレスフルな生活のなかで狂気に陥っていた。そこにはのどかで美しい自然と田園で遊ぶ純朴な子供たちもいた。田園生活のなかで徐々に正気を取り戻すチアキ、しかし幸せは長くつづかなかった。田園の子供たちは、凶悪天才按摩師ヒロシの弟子たちだった。ヒロシを追って田園にやってきたミドリが、田園の平和を撹乱する。健太の初恋の相手だった幼なじみのミドリは、無残に犯され、快楽のなかで死ぬ。健太とその家族もヒロシの妖術按摩の犠牲になり、健太は絶望のまま、田園を彷徨する。

中盤からダラダラと展開が間延びするのもゴキコンならでは。暑さと匂い、そしてスタンディングでの観劇なので、観客もけっこうきつい。今回も本水を使う。初日だけれど、既にゴキコン公演の匂いがした。

出演俳優は危険を顧みず壮絶な芝居をみせ、観客の前でぼろぼろ、ドロドロになっていく。

 

本当に今回も楽しい公演だった。日本小劇場界の最前衛を30年突っ走り、そして最高のエンターテイメントでもある。日常の退屈に絶望している人はぜひゴキコン公演を見にいって欲しい。生きる元気が沸いてくるはずだ。

急傾斜の板の上を俳優たちが滑り落ちる。不安定な足場の上をよろめきながら移動していく。ゴキコンの公演をアヴィニョン演劇祭のオフで3週間やれば、フランスのメディアから注目されるだろう。アヴィニョンでゴキコン公演に立ち会い、唖然としているフランス人観客の様子を爆笑しながら見るというのが、俺の夢だ。

 

朗読劇 ひめゆり

www.nntt.jac.go.jp

  • 脚本:瀬戸口 郁
  •  『私のひめゆり戦記』(宮良ルリ著) 
  •  『ひめゆりの塔 学徒隊長の手記』(西平英夫著) 
  •  『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(仲宗根政善著) より
  • 構成:道場禎一
  • 構成・演出:西川信廣(新国立劇場演劇研修所副所長)
  • 美術:小池れい
  • 照明:塚本 悟
  • 音楽:上田 亨
  • 音響:黒野 尚
  • 衣裳:中村洋一
  • ヘアメイク:前田節子
  • 歌唱指導:伊藤和美
  • 方言指導:長本批呂士(3期修了)、下庫理ゆき
  • 演出助手:阿岐之将一(10期修了)
  • 舞台監督:米倉幸雄
  • キャスト:川澄透子 金 聖香 佐藤 和 篠原初実 高嶋柚衣 田渕詩乃 生地遊人 小比類巻諒介 椎名一浩 上西佑樹 バルテンシュタイン永岡玲央 山田健人(11期生)  岩澤侑生子(7期修了)
  • 上演時間:90分
  • 劇場:新国立劇場 小劇場
  • 評価:☆☆☆☆☆

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研修所研修生の芝居、しかも朗読劇。内容は反戦平和を訴える教訓もの。正直なところ、出演者である知人から声がかかっていなければ、どんなに評判がよくてもわざわざ見に行こうとは思わなかっただろう。戦争の悲惨さを訴えるこういうタイプの芝居はあまたあって、そのメッセージのあまりの正しさゆえに、もううんざりという気分なのだ。

しかし見に行ってよかった。素晴らしい舞台だった。沖縄がかつて戦争で経験したあまりにひどい、痛ましい現実について、われわれは忘れてしまっていている。しかしそうした忘却がどんなにひどいことなのか、そして歴史の悲惨はなぜ語り継がれなくてはならないのかを、あらためて教えてくれるような作品になっていた。

しかし70年前の悲痛としかいいようのない歴史的事実を、今の私たちがここで、どんなにうまくお芝居として再現したとて、いやむしろうまく演じれば演じるほど空々しさが漂ってしまうかもしれない。それでは私たちが当事者性とともにあの過去の悲惨と対峙するにはどうすればいいのか。

ダイナミックな動きのある朗読劇だった。台本は沖縄戦ひめゆりに関わりを持った3人の人物の手記を再構成したものだった。あの痛ましい歴史を演劇というかたちで伝えるにあたって朗読劇というスタイルを選択したのは正解だった。証言を「台本」を通して間接的に伝えるという形式によって、あの悲痛としかいいようがない歴史的体験を説得力を持って、今ここにいる若い俳優たちが演劇的に再現することが可能になったのだ。
現代の日本人の立場から、あの体験を誠意をもって、真摯に、まっすぐ、演劇を通して伝えるにはどうしたらよいのか、あの体験を演劇で伝えることにはどういう意味があるのかと考えた結果が、あの朗読劇というスタイルに行き着いたように思った。

冒頭の牧歌的な場面が、上演時間の大半を占める無慈悲な現実と残酷に対比される。胸締め付けられる緊張感に満ちた時間が最後まで持続する。

DE PAY'S MAN × DAP TOKYO『STREET STORY』

NEXT PRODUCT - sharakusei Jimdoページ

 

  • 構成・演出・振付 : 木皮成
  • 音楽 : 木皮成、大間知賢哉
  • 出演:甘井飴子、石丸将吾、遠藤梨乃香、片倉裕介、高橋夏生(俳協)、田島冴香、根本和歌菜、藤井祐希、森田恭矢、SEI
  • 会場:池袋 スタジオ空洞
  • 舞台監督 : 水澤桃花(箱馬研究所)
  • メイク:津田颯哉(実験劇場)
  • サポート:安田晃平
  • 宣伝美術 : 嵯峨ふみか(カミグセ)
  • 制作協力 : つくにうらら(カミグセ)
  • 企画・運営 : DE PAY’ S MAN
  • 上演時間:65分
  • 評価:☆☆☆

 

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1月終わりにパスカル・ランベールの「都市をみる/リアルを記述する」と題されるワークショップに参加した。このワークショップのレポートはこのブログに詳しく記している。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第三日目(1/27) - 閑人手帖

このWSでの発表で最も独創的で印象的な発表を行ったのが、振付師のSeiという若者だった。そのアイディアにすっかり感嘆してしまい、彼に直接賞賛の言葉を掛けたら、この青年は、「ありがとうございます。僕はこんなことばっかり考えているんですよ」とちょっと照れたふうに、でもさらっと答えた。

このSeiがFUKAIPRODUCE羽衣の公演などの振付を担当している木皮成だと知ったのはWS終了後だった。

木皮は職業的振付師であり、クライアントの注文を受け、そのニーズや特性などを考慮しつつ振付を作っていくことを生業にしている。しかしその彼が自分自身のユニットを作り、自分の表現行為としての作品を発表する場が8月にあるとWSが終わったあとに聞いた。WSで見せた彼の発想に天才を感じた私はこの公演は必ず見に行こうと決めた。

ユニットを組むにあたって経験を問わずダンスを本気でやりたい人を公募した。45名の応募があったが、五ヶ月間のリハーサルで9名が残った。木皮は公演直前の7/31に「今回、作品を作る上で、今までの自分の人生で考えられないくらい人に対して怒った。自分に何様なんだと思うし、何様だとも思え無いけど、感謝してる。」というtweetをしていた。このtweetが気になって、公演を見た後に木皮に聞いてみた。

「なんで怒ったの?」

彼の求める「本気」と集まってきたダンサーの「本気」にずれがあったからだ、と木皮は答えた。そのずれの調整にリハーサル期間のかなりの時間が必要だったと言う。

私が『STREET STORY』を見るにあたって、事前に見たこのtweetに何らかの影響を受けてしまっていた可能性は否めない。端的に書くと、随所に木皮のセンスのきらめきは感じとることができたし、スペクタクルとして退屈することはなかったけれど、ランベールWSでの木皮 が示したような、こちらの期待の地平を爽快に裏切るような斬新なアイディアは、今回の公演で感じとることはできなかった。

ダンスのジャンルとしては、集団でのストリート・ダンス(当パンでは「HOUSEダンスの習得をお願いした」とある)ということになるのだろうか。9人のダンサーが集団で踊る。その様子を池袋のホームレスがじっと見ているという構図である。客入れの段階からダンサーたちは持続的に踊り、ホームレスは己の境遇の孤独を詩的なことばで嘆いている。

65分の上演時間はいくつかのシーケンスに分かれているが、その核となるエピソードは木皮の一年間のカンボジアでの体験である。木皮はカンボジアにストリートダンスの講師として招かれた。経済復興の途上にあるこの国で、彼は日本では出会わないような様々な人間と出会い、社会と人間とそしてダンスをなりわいとする自分との関係を考えた。彼の経験に基づく断片的なエピソードをダンスとしてどのように表現していくか、そしてそれがどのような意味を持ちうるのかという問いかけが、この企画にはおそらくあるはずだ。ルポルタージュであり、私小説であるような世界が、ダンスに変換され、提示されようとしていた。

私は熱心なダンスの観客ではないが、この三月に見たバランシン振付の『夏の夜の夢』や、勅使川原三郎と佐東利穂子のアップデイト・ダンスのシリーズで物語性のある原作のあるもの(《トリスタンとイゾルデ》や《ペレアスとメリザンド》)、そしてつい先日、古典戯曲を読む会@東京で見たアントニオ・ガデスによるロルカ『血の婚礼』を見て、大きな感銘を受けた。言語芸術の世界が、身体表現であるダンス特有の言語に読み替えられる際の変容によってあらわれる新しい側面が実に新鮮であるし、ダンスで用いられるその読み替えの発想自体に驚きがあったからだ。これらの振付師は、独創的で卓越した舞踊表現を持っているだけでなく、優れたテクストの読み手であり、解釈者でもある。その読み方はまさにダンスをやっているからこそ可能なテクストの読み方なのだ。

プロの画家や写真家、優れたエッセイストや小説家が、世界を表現しようとするとき、彼らがそれぞれ持っている特性によって、普通の人が見過ごしているような世界のありかたを見出し、それを表現に変換させるように(あらゆる芸術家がそうなのだが)、優れた振付師はやはりダンサー独自の視点で世界を観察し、それを舞踊表現に変換する術を持っている。

『STREET STORY』は、日常のなかに確かにあるささやかな《詩的な瞬間》をすくい上げ、それをダンスに変換しようとしていた。『STREET STORY』のなかで取り上げられたエピソードは構成・演出の木皮成だけのものではなく、他の出演者の個々の体験も取り入れられていた。それらを俯瞰し、一つの枠組みを与えるのが、池袋の浮浪者だったはずである。

提示されたいくつかのシーケンスで圧倒的に印象的だったのは、木皮成ことSeiが提示したカンボジアの舞踊スクールでのエピソード、彼が家族の窮乏を訴える生徒に求められるままにお金を渡すエピソードだ。スクールに来なくなった女子受講生がいた。事情を聞くと、家族が病気で、お金がなくなり、スクールに行くどころではなくなっていると言う。彼女は講師であるSeiにお金を無心する。その迫力にひるみ、Seiは200ドルを渡してしまう。

他のシーケンスもこのエピソードと同じくらいの強度のものが並ばなくてはならなかったと私は思う。他の出演者によって提示されたエピソードは、これよりはるかに薄い。彼らは世の中を表現者の目で見ていない、生きていない(と書いてしまうのはごう慢すぎるかもしれない。おそらく彼らは彼らとして真剣に世界と立ち向かっているはずなのだから)、世界から衝撃を受け取っていないように思えた。もっとも最初に書いたように、私がこのように思ってしまったのは、公演前の木皮成のtweetが何らかのかたちで影響している可能性もあるのだ。

私がランベールのWSで感じた木皮の才能のきらめきはこんなものではないし、羽衣ほかの公演を通じて知っている彼の表現が感じさせる可能性もこんなものではない。ちょっと歯がみしたくなるような気分というか。次の彼の公演ではこちらの期待をあざやかに裏切るような斬新な驚きを期待したい。

Pascal Kirsch, La Princesse Maleine de Maeterlinck

www.festival-avignon.com

 

『マレーヌ姫』は1898年に発表されたメーテルリンクの処女戯曲で、オクターヴミラボーによって激賞されたことで知られている。メーテルリンクの戯曲といえば、2012年から2014年にかけてクロード・レジがSPACの俳優と共に一幕劇『室内』を上演し、その弟子筋にあたるジャンヌトーがやはりSPACで『盲人たち』を上演したが、近年とりあげられるメーテルリンク作品といえばたいていは『青い鳥』であり、それ以外にはドビュッシーのオペラを通して上演される『ペレアスとメリザンド』くらいである。五幕悲劇である『マレーヌ姫』の上演機会は極めて稀であり、アヴィニョン演劇祭の舞台で見られるのを楽しみにしていた。

上演会場はセレスティン修道院回廊中庭(Cloître des Célestins)で、回廊を背景にその内側の庭の巨大な2本のけやきの木のあいだ、15メートルほどが舞台になっていた。f:id:camin:20170713000730j:plain

背景となる回廊にはスクリーンがあり、そこにモノクロを基調とした映像が映し出される。映像は風景などの静止画もあったが、星、木々、川などのゆらぐような動きがあるものが多かった。

こうした映像を使った、抽象的ですっきりしたデザインの美術は珍しくない。床面などは黒が基調とされていて、舞台上の時間はずっと夜のイメージだった。メーテルリンクの原作が描くイメージがほぼそのまま素直に舞台化されている。修道院の回廊の向こう側から満月に近い月が見え隠れしていて、その月や修道院回廊という借景が、作品内容、舞台美術とよく適合していた。

メーテルリンクの作品の上演となると、私としては2012-2014年にクロード・レジが演出した『室内』の公演を指標とせざるをえない。レジの『室内』はあのプロットのシンプルさ、素朴な短い言葉のやりとり、ほとんど停滞しているかのような展開の流れから、いかに豊かで深遠な詩情と思想を作品から汲み取ることができるかという見事な実例だった。あらゆるメーテルリンク作品の上演がレジのテクスト解釈、方法論(レジのそれはメイエルホリドの演出ノートに沿ったものだった)を踏まえなくてはならないというわけでは勿論ない。しかしレジの『室内』公演は、それ以後のメーテルリンク上演においては演出家にとっては重要な参照軸であり、彼の解釈と演出美学を乗り越えた作品を提示するのでなければ、少なくとも現代演劇の文脈ではメーテルリンク作品を上演する意義は乏しいように私は思う。

写真を見る限りまだ30代後半か40代始めに見えるキルシュの演出は、正直、なぜ彼がメーテルリンクのこの作品を今、取り上げたかったのかがわからなかった。舞台空間のセンスは悪くない。借景としての修道院回廊も作品にマッチしている。しかし映像の使い方はごくありきたり以上のものではない。五幕のかなり長い戯曲であるが、これを2時間半休憩なしで上演する。会話のテンポはかなり速く、その口調は現代劇風だ。レジの演出ならおそらくこの倍以上の時間は上演に必要だっただろう。短い言葉のやりとりと表現の反復が特徴的なメーテルリンクの台詞は、リズミカルにたったったと交換される。その平板な速さのなかで、メーテルリンクの台詞の詩的性格は抜け落ちてしまった。連想するのはマンガやBDの吹き出しによる台詞のやりとりだ。人物の動きや動作もマンガ的だ。動きにためや様式性はなく、いわゆるごく普通の写実演劇的な動きをしている。安っぽいプラスチック製品のような上演であり、失われた深遠な詩性の代わりに、ポップで破壊的な要素が機能しているかと言えばそうでもない。安っぽい、味わいの薄い童話のような芝居に、観客の10%ぐらいは上演中に退出していった。

『マレーヌ姫』の最後では、マレーヌ姫をはじめ、その恋人のヤルマール王子、そしてヤルマール王妃のアンヌなど主要な人物が、シェイクスピア悲劇のように死んでしまう。その次々人が死んでいく場面の記号的な演技に観客のあいだからは失笑がわき上がった。この「笑い」は演出家の意図通りなのだろうか? もし意図通りだとすれば、なぜこの終幕部にナンセンスに思える笑いを入れたかったのかがわからない。

 

演劇集団ア・ラ・プラス『ビザール〜奇妙な午後』

https://theatrecentrewithoutwalls.jimdo.com/

  • 作;ジェーリコ・フバッチ
  • 演出・構成:杉山剛志 
  • 翻訳:高橋ブランカ
  • 美術:加藤ちか
  • 照明:大野道乃
  • 舞台監督:玉城忠幸
  • 音響:牧野宏美
  • 衣裳:杉野明善
  • ヘアメイク:橘房図
  • 宣伝美術:ミツヤスカナ
  • 制作:高橋俊也(THEATRE-THEATER)
  • 出演:蔡チェヘミ(演劇集団 ア・ラ・プラス)、西村清孝(リベルタ)、辻しのぶ 、服部晃大 、松田崇
  • 上演時間:1時間45分
  • 劇場:目白 シアター風姿花伝
  • 評価:☆☆☆☆

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セルビアの作家の戯曲。ベオグラードの16階建のマンションで起こる三つのエピソードのオムニバス劇。最初のエピソードが屋上での出来事、38歳の5人の人物の物語。次が最上階にある警視副総監ミランの部屋での32歳の5人の人物の物語。最後がビル1階のバーの25歳の5人の物語。今村昌平の映画を連想させる重厚な喜劇だった。

男性3人、女性2人の5人の俳優がそれぞれ、各エピソードで年齢も雰囲気も異なる3人の人物を演じる。つまり全部で15役の人物が登場することになる。

舞台奥から客席に向かって傾斜している黄色く塗られた舞台(俳優たちはその傾斜舞台に数カ所ある穴の上げ板から出てくる)、建物の三層構造と各エピソードの人物相関の平行性、各幕で同じ俳優がまったく雰囲気の異なる人物を早替わりのように演じる面白さなど、さまざまな趣向で見せる芝居だ。ユーゴ内戦で国を離れた人たちがまたベオグラードに戻ってきたという設定が三幕で共通している。エキセントリックな人物たちに漂う頽廃と絶望には、ユーゴ内戦後のセルビアの重苦しい状況が反映されているはずだ。しかし会話のリズムがいまひとつ。特に2幕は人間関係の状況がわかりにくくて眠たくなったところがあった。

俳優の芝居は弾けるようなエネルギーに満ちている。リアリズムではなく、戯画的にエキセントリックな人物を思いきり、堂々と演じきっている。身体の動きも面白い。方言の取り入れ方も違和感がない。

美術の面白さ、演出や脚本上の趣向、俳優の演技はいいが、脚本の台詞のやりとりが冗長でわかりにくいところがある。脚本はテーマ的にも日本の今の私の現実からは遠く感じられ、今一つのれないまま三幕目まで見ていたのだが、この作品のすごさがわかるのは最後の最後だった。三つのエピソードをまとめる脚本上の仕掛けがある。その仕掛けのアイディア自体はそんなに独創的ではないのだが、このとっちらかった三つの物語にすっと芯が通り、オムニバスの重喜劇に一気に奥行きがもたらされ、大きな物語が立ち現れる。その終幕の仕掛けが感動的だった。

 

玉田企画『今が、オールタイムベスト』

  • tamada-kikaku.com
  • 作・演出: 玉田真也
  • 美術:濱崎賢二(青年団
  • 照明:井坂浩(青年団
  • 音響:池田野歩
  • 衣装:根岸浅子(sunui)
  • 出演:宮崎吐夢、浅野千鶴(味わい堂々)、神谷圭介(テニスコート)、菊池真琴、木下崇祥、玉田真也、野田慈伸(桃尻犬)、堀夏子(青年団)、山科圭太
  • 劇場:五反田 アトリエヘリコプター
  • 上演時間:100分
  • 評価:☆☆☆★

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はじまってから三十分間の凝縮力は驚異的だったが、中盤以降失速してしまった。。最初の三十分の密度で全篇が満たされていたら、どんな傑作になっただろう。玉田真也が演じる中学三年生のひねくれぶり、生意気さは、思春期のただなかで屈折しはじめた自分の子供たちに見せてみたかった。会話のディテールのリアリティと確信犯的に強引でむりやりな状況設定のかみ合わせのずれが玉田独自の笑いを生み出すのだけれど、このバランスは実に微妙だ。最初のほうのやりとりは神業を思わせる精妙さで抱腹絶倒の連続だったが、中盤以降、このやりとりの密度が薄まり、間延びした感じになってしまった。結末にもああいう「まとも」なまとめ方はつまらない。最後にまた意地悪くひねって、観客の期待を裏切って欲しかった。

青年団『さよならだけが人生か』

www.seinendan.org

  • 作・演出:平田オリザ
  • 出演:山内健司 小林 智 太田 宏 石橋亜希子 荻野友里 小林亮子 立蔵葉子 森内美由紀 石松太一 伊藤 毅 井上みなみ 小瀧万梨子 佐藤 滋 前原瑞樹 串尾一輝 藤松祥子 大村わたる 寺田 凜
  • 舞台美術:杉山 至
  • 照明:西本 彩
  • 衣裳:正金 彩
  • 舞台監督:小林朝紀 播間愛子
  • 宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
  • 宣伝写真:佐藤孝仁
  • ロケーション・コーディネーター:渡辺一幸(NEGO-TI)
  • 制作:石川景子 金澤 昭 有上麻衣 太田久美子
  • 劇場:吉祥寺シアター
  • 上演時間:2時間
  • 評価:☆☆☆★

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足場に囲まれた工事現場の休憩所が舞台。工事現場で働く鳶職、建設会社社員、休憩所の掃除婦、そしてその工場現場に遺跡が見つかったため、発掘調査にやってきた学生たちが登場人物。彼らのなかの何人かの別れが描かれる。平田の現代口語演劇スタイルの作品の究極とも言えるようなだらだらとした、とりとめのない会話がシーン毎に交わされる。対話ではなく、駄弁というか。そのめりはりのないゆるい会話が退屈で前半は眠ってしまった。観劇前から疲れていて眠気もあった。こんな状態では観劇どころではなかったなと思ったのだが、後半は目が覚めた。

しかし恋人と別れ留学をする女子学生(藤松祥子)と彼女の恋人との別離をめぐる諍い(それもきわめてありきたりのものなのだが)から目が覚める。藤松祥子がとにかく可愛らしい。そしてこのダラダラの会話のリズムに、ゆったりと乗っかれるようになった。

平田の台詞、劇作的仕掛けの技巧性・作為が過剰すぎるように思ったが、それでも終幕部の処理はやはり見事なものだ。ダラダラとした日常を舞台としたファルスなのだが、深い余韻とともに終わる。この終幕で帳尻を合わせた感じ。平田の劇作の職人芸を堪能できた。

Qアナザーライン こq『地底妖精』

scool.jp

  • 劇作:市原佐都子 
  • 美術:高田冬彦 
  • 出演:永山由里恵 (青年団
  • 映像出演:中田麦平
  • 音楽:額田大志
  • 劇場:三鷹 SCOOL
  • 上演時間:90分
  • 評価:☆☆☆☆★

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Qの公演を見ると「市原佐都子はいったいどんな男性と付き合っているのだろう?」と考えたくなる。思春期の女性の性愛への関心をこじらせたまま、執拗に徹底的に追求されつづけると、こんな異様なファンタジーに行き着くことができるのだろうか。劇のモチーフとして用いられた作品は、兄妹愛の物語である少女漫画の傑作(らしい、当パンによると)『ママレード・ボーイ』(吉住渉作)とエミール・シュエラザード『妖精の国へようこそ』である。この2作品の抜粋が上演前にスクリーンに繰り返し映し出される。

永山由里恵のほぼ一人芝居の90分だが、着ぐるみの「もぐら」が何回か舞台に介入する。もぐら役にはセリフがない。舞台上には黒いビニールで覆われた巨大なさつまいもらしきものがいくつもぶらさがっている。タイトル通り、地底に潜む妖精の話なのだ。しかし語りを一人で担当する永山由里恵は、妖精と人間のハーフなのだという。彼女は他の妖精たちに語り続けるのだが、他の妖精たちのすがたは人間、すなわち観客には見えない。

永山由里恵は古ぼけたビルの最上階にあるあまり評判のよくない台湾マッサージ店に向かう疲れ切ったOLでもある。このマッサージ店とサツマイモがぶらさがる地下の世界とは繋がっていて、永山由里恵はその二つの世界と二人の人物を行き来する。

膨大な台詞量だ。しかもその語りのテンションは常に高く、その調子は激しく切り替わる。せわしなく動き続ける必要もある。俳優にかかる負荷は相当なものだ。

若い女性が持つ性に対するいびつな意識のありかたが、客観的に冷静に観察されている。そしてそのいびつなひっかかりが、妄想へと自由に貼ってしていき、コントロール不可能になっていくような感じである。
セックスを含めた性的なあらゆる行いは、客観的に見ると非理性的で滑稽なものであり、そうであるにもかかわらず世の人間の大半が性的なものから逃れられないというのは、恐るべきことだと私は思っている。性には自らは没入するものであり、自らの性のありかたを客観的に批評するのはとんでもなくはずかしい行為だと私は感じていて、性について語ることについては大きな抵抗がある。
彼女は性に没入することはなく、その奇妙で異常で滑稽なありさまを観察し、それがコントロール不能になっていく様も冷静に見ているのだ。性の快楽そのものよりも、性に囚われ、非理性的で妄想的な世界に身を委ねる自分を見つめることに喜びと興奮を見出しているような倒錯的な性のありかたが提示されている。

性的幻想の奇怪な逸脱ぶりが確信犯的に深められていた傑作であり、怪作だった。グロテスクで露悪的な性の開示は不健全である一方、真っ当で誠実でもあるからよけい恐ろしさを感じる。