閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

【映画】さよなら、退屈なレオニー(2018)

http://sayonara-leonie.com/
監督:セバスチャン・ピロット

製作:ベルナデット・ペイヤール、マルク・デーグル
脚本:セバスチャン・ピロット

撮影ミシェル・ラ・ブー
キャスト:カレル・トレンブレイ、ピエール=リュック・ブリラント、フランソワ・パピノー、リュック・ピカール、マリー=フランス・マルコット

原題 :La disparition des lucioles
製作年:2018年
製作国: カナダ
上映時間:96分
映画館:新宿武蔵野館

評価:☆☆☆☆

------

ベック映画ということで見に行った。
ケベック州の海辺の田舎町、いかにも変化が乏しくて退屈そうな町に住む17歳の少女レオニの物語。
両親は最近離婚して、彼女は母親と母親の彼氏と一緒に住んでいる。父親を信頼していたが、父親は普段は遠く離れた所で働いていて、何ヶ月に一度しか会えない。両親の離婚はレオニーとって大きなショックなのだが、その動揺を誰も受け止めてくれないことを知っている彼女は、早熟でシニカルな態度で自分の内面を守ろうとしているようだ。
その彼女が興味を持ったのは、町の安レストランで知り合った年上の冴えない男、スティーヴだった。ギターの個人教授の彼は、母親と二人でひっそりと暮らしている。彼も町の人たちから浮いていて、孤独な存在だ。スティーヴはこの町と孤独から抜け出すすべも知らないし、その気力もない。レオニーはスティーヴの孤独に安らぎを感じつつ、退屈な生活としっかり向き合い、とにかくそれを何とかしようする気力がある。彼女は退廃に沈み込みそうになりながらもそれに溺れることはない。自分の若さを信じている。
主演のカレル・トランブレの演技が素晴らしい。天才。鬱屈した青春期にある女性を好演。
レオニーのパートナーであるスティーヴがミュージシャンということもあり、音楽も豊かな青春映画だった。
ティーヴがレオニーと恋人になるのかなあと思いながら見ていたら、心が通じ合い、恋人同士になりそうな雰囲気を漂わせながら、プラトニックなままだった。この我慢加減あって生じる緊張感がとてもいい。もしスティーヴとレオニーが気分で恋人になってしまったら、この映画は映画にはなっていないだろう。
あそこで一気にレオニーを自分のモノにできないスティーヴはダメ男だ。
原題、「ホタルがいなくなってしまった」はちょっと気取りすぎ、狙いすぎな感じがする。

平原演劇祭×一年劇団 孤丘座 洞窟演劇『鷹の井戸/鷹の風呂』@栃木県某所

「洞窟演劇」と予告されていた。洞窟で演劇だって!?

もうこれだけでどんなものを見せてくれるのだろうかと心が浮き立つではないか。公演会場までの行き方の案内は、平原演劇祭の公式twitterアカウント@heigenfesにあった。雨具と懐中電灯持参とある。

場所は東武佐野線の終着駅からさらに町営バスに乗り、山の中に入ったところだ。

東京都練馬区にあるうちからは約3時間かかった。まず池袋まで有楽町線、それから宇都宮線久喜駅まで行き、そこで東武伊勢崎線に乗り換え館林駅まで行く。館林駅から東武佐野線に乗って終着駅まで。

f:id:camin:20190616104941j:plain

初めての路線に乗って、初めて行く場所と言うことで、旅行気分も盛り上がる。

降りた駅は特徴らしい特徴がない田舎町だ。そこから町営バスに15分ほど乗る。バス停のある道のそばにある木の緑濃い丘を登ったところが、公演場所の洞穴だった。

f:id:camin:20190616113049j:plain

f:id:camin:20190616113224j:plain

開演の前に洞穴の中を一通り回った。中にはいくつかの空間があったが全体としてそんなに巨大な洞窟ではない。15分もあれば一通りみて回ることができる広さだ。観光のためわざわざこの洞窟を訪れるのはよっぽどの洞窟マニアではないだろうか(そのわりには洞窟演劇終演後に家族づれがこの洞窟の見学にやってきたのだが)。洞窟の管理は近所の住人に委ねられているらしい。鍵の開け閉めと洞窟内の電灯をつけるのが主な管理業務らしく、自由に出入りできる。

f:id:camin:20190616113200j:plain

[開演前に出演女優三名の写真を撮らせてもらった]

f:id:camin:20190616113758j:plain

この洞窟演劇を見るためにやってきた物好きな観客は十数名いた。その多くは中高年男性で、女性の観客は一人だけだった。

開演は正午と予告されていたが、開演時間直前に洞窟内に入った一般客が一組あったので、その退場を待っての開演となった。

f:id:camin:20190616121222j:plain

f:id:camin:20190616121227j:plain

オープニングは戸外で始まる。

緑の木々にかなり急な傾斜の斜面から、三人の楽人たちが歌を歌いながら、洞穴前の広場に上ってくるのだ。樹々の濃い緑の中に現れる異装をなしたる三人の少女の登場であたりは一気に異世界に変貌する。印象的な素晴らしいオープニングだった。

オープニングの後、洞穴内に観客たちは誘導される。洞穴に入ると、洞穴内の道は軽い傾斜となりすぐに左右に別れる。右手の方から何者かが話している声がする。懐中電灯であたりを照らしながら右手に移動すると、仮面をかぶり、わらじをはいた異形の女がいた。

f:id:camin:20190616122003j:plain

 

f:id:camin:20190616121941j:plain

この仮面の怪物が一人で語っているところへ、異装の若者が現れる。ケルトの若武者のクフーリンだ。彼は不老不死の水が湧き出るという井戸を探し求めている。

イェイツの『鷹の井戸』の内容をここで私はなんとなくではあるが思い出す。仮面女と若武者は言い争いをしているが、その内容は頭に入って来ない。洞窟内という場所の力が強すぎて、セリフが頭の中に入って来ないのだ。

背後から鈴の音、そして獣の叫び声が聞こえた。仮面女と若武者の背後は盛り上がった丘のようになっているのだが、その高みに鷹が現れた。思わずハッとするような印象的な場面となった。

f:id:camin:20190616122910j:plain

突如現れた鷹に激しく動揺する手間の二人。

鷹の姿が消えると、若武者は槍を手にして颯爽と退場していった。

この退場をもって第一部、洞穴内での『鷹の井戸』が終わる。異世界を描き出す幻想劇でこれ以上の舞台装置はそうそうあるものではない。場のインパクトがあまりにも強いので言葉の内容はその空間の中に溶けてしまい曖昧なものになってしまう。

何も知らない人が洞窟に見学に来て、上演の場面に立ち合ったらさぞかしギョッとするに違いない。幸い上演中に「外部」の人が入ってくることはなかった。

 

第一部が終わると洞穴の外に出て、少し休憩となる。10分ほどの休憩の後、第二部会場となる洞穴からさらに200メートルほど上ったところにある「展望台」に移動する。この展望台までの上り下りがかなりの急斜面で往生した。

「展望台」といっても周りは緑の木々に視線を遮られ、特に何が見える訳でもない。谷を挟んで向こう側に、セメント用の石灰岩を削り取られ、片面が禿山になっているのが見えるくらいである。

山の斜面の傾斜が幾分緩やかになっているところに観客が誘導され、そこで第二部の『鷹の風呂』が始まった。

f:id:camin:20190616124858j:plain

『鷹の風呂』は一人語りの芝居だった。この山の斜面と斜面を上ったところにある鉄できた小さなテラスが演技場となった。

f:id:camin:20190616131138j:plain

f:id:camin:20190616130123j:plain

寄ってくる蚊を追い払いながらの観劇となった。ここも場所のインパクトが強すぎて、女優が話している内容が断片的にしか頭に入らない。高野竜演出の芝居ではこういうことがちょくちょくある。でもそれで問題かといえば、そうでもない。観劇体験の充実はちゃんと味わうことができている。昨年、北千住のBUoYで上演があった時は二回見にいった。一回目は何がなんやらわからないかったけれど、二回目に見たら戯曲の内容が流石によく頭に入った。やはり複数回見に行くものだなあとは思ったものの、一回目の観劇で不満だったという訳ではない。

f:id:camin:20190616130425j:plain

『鷹の風呂』は高野による創作劇だ。野外で声が聞き取りにくいということもあって、正直、ほとんど何が話されているのかわからなかった。家に帰ってウェブ上で公開されている戯曲を読むと、「ああ、これではわからなくても如何しようもないわ」と思う。難解だ。でも面白い。テクストとしてその内容を咀嚼していくと、この戯曲は実に味わい深い文学作品だ。イェイツの『鷹の井戸』を出発点に話がどんどん自由に拡散、拡大していく。内容がわかればわかったで面白いのだが、上演中にわからなくても観劇体験としては特に問題ないように思えるが、平原演劇祭の面白いところだ。

観客の「なんじゃこれは?」という表情を受け止めつつ、この厄介なテクストを30分に渡って語り、役柄を演じきった女優はどうかしている。素晴らしい。

『鷹の井戸』『鷹の風呂』合わせて上演時間は90分ほどだった。

f:id:camin:20190616132251j:plain

終演後は食事が用意されていた。『鷹の風呂』で言及されていたコノシロの酢漬けとスパイスで味付けされたクリームチーズ、きゅうりを、それぞれが自分でフランスパンに挟んで食べるサンドイッチが供された。コノシロの酢漬けのサンドイッチは実に美味しかった。これに加えてアメリカンチェリーとすもも(?)というデザートもあるのも嬉しかった。

 

 

 

【劇評】カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』2019/05/22@渋谷ギャラリー・ルデコ

「今」、「ここ」にいる「私」が語る『ハムレット

演技者だけでなく、観客も芝居が終わったあとは、精力を使い果たしたような状態になる。詩的で混沌とした断片的なイメージの集積が、後半に一気に凝縮され、行き詰まるようなクライマックスがどんどん密度を高め、加速しながら連続する。私がこれまで見たカクシンハンのシェイクスピアはどの作品も、「今」、「ここ」にいる「私」のシェイクスピアであり、400年以上前にイギリスで書かれた戯曲をしっかり読み込んだうえで、その世界を現代の日本に生きる私たちに繋げるための様々な劇的でトリッキーな仕掛けが魅力となっている。
ハムレット×SHIBUYA』は2012年のカクシンハンの旗揚げ公演で上演された作品であり、カクシンハンの上演作品のなかでは唯一のオリジナル作品だ。タイトルが示す通り、『ハムレット』のセリフや場面が劇中ではふんだんに織り込まれている。しかし場所はAKIHABARAとSHIBUYA、現代の東京だ。


ほぼ一年前に見たカクシンハン『ハムレット』の冒頭の場面を思い出す。あれは確かシブヤのスクランブル交差点の雑踏から始まった。まだ観客席に開演前のざわつきが残っている状況のなか、劇ははじまる。傘をさした多数の人間が舞台上に描かれた横断歩道を横切る。この都会の雑踏のなかに一人の男がうずくまっている。しかし彼に気を留めるものはいない。せりふのない五分ほどの群像劇は『ハムレット』の物語全体の象徴的なレジュメとなっていた。現代を強引にシェイクスピアの時代に結びつけるオープニングの演出は、カクシンハンの演劇美学の高らかなマニフェストとなっていた。原発事故後のフクシマの惨状を『ハムレット』に重ねた昨年の公演はまさに現代のわれわれの作品としてのシェイクスピアの可能性を提示するものだった(ただしそこに「フクシマ」というある意味手垢のついてしまった記号を用いたことは、作品の解釈の可能性を狭めてしまったように思え、私は評価できなかった)。今回『ハムレット×SHIBUYA』を見ることで、一年前に上演されたカクシンハン『ハムレット』の舞台上演の記憶を見たときが蘇ってきた。あの『ハムレット』の印象的なオープニングのあと、舞台上の世界はテープが巻き戻されるように一気に過去の時代へ、シェイクスピアの『ハムレット』で描かれた「デンマーク」へと移行していった。


現代劇として翻案された『ハムレット×SHIBUYA』では時間は巻き戻されない。抽象化され、象徴化された場としてのアキハバラとシブヤが舞台となり、この場所は二人の青年として擬人化される。『ハムレット×SHIBUYA』では、木村龍之介自身の『ハムレット』という作品に対する姿勢や解釈がより直接的に伝えられる。ハムレットに共鳴し、その存在の混沌と闇の中に果敢に身を投じ、格闘する作・演出家自身の姿が晒されているように感じられた。


ギャラリー・ルデコの中央には小さな丸テーブルが置かれ、そこが演技エリアの核となる。客席の椅子はそのテーブルを取り囲む形で、無造作に並べられている。この上演空間は客席を含め、作品の舞台である「アキハバラ」と「シブヤ」のミニチュアとなっていて、あえて殺風景で雑然とした状態で置かれている。リーディング公演ではあるが、俳優たちはテーブルの周りで座ってテクストを朗読するのではない。照明の効果も使用され、ときに俳優が客席のあいだにも侵入する動的でダイナミックな演出となっている。何よりも俳優の演技が発する熱量が圧倒的だ。その激しさにこれがリーディングであることを忘れてしまう。ギャラリー・ルデコの空間全体が象徴的な劇的空間となり、観客もその空間の一部として取り込まれてしまう。


安定していた世界が突然ゆらぎ、崩れてしまったときに、人はどうなってしまうのか。世界と「私」との関係が激しく揺さぶられたときのハムレットの混乱と不安は、断片的な言葉の連鎖というかたちでそのまま伝えられる。断片に解体され、再構成された『ハムレット』は、現代の「アキハバラ」と「シブヤ」という場のなかで徐々に不可解で不気味で怪物的なイメージを形成しはじめる。あらかじめ観客に伝えられる「あらすじ」は奇妙で意味不明の状況しか記しておらず、冒頭の詩的で断片的なモノローグ解読の手助けにはならない。『ハムレット×SHIBUYA』の難解さは、あのハムレットが味わい、作・演出の木村が共鳴した混乱と不安を、観客であるわれわれにも共有させることを意図しているかのようだ。このわけのわからなさは解決されることはない。ハムレットの苦悩は重苦しい闇として最後まで持続する。いやむしろその闇はどんどんと深くなって行った。


上演時間の1/3を過ぎる頃からようやく混沌から抜け出し、それまで提示されていた暗示的な要素が劇的なアクションを形作り、物語が展開し始める。しかしそこから提示されるシーケンスがことごとく濃密で、凝縮された感情が爆発するような激しい場面が最後まで延々と続くのだ。劇中人物に憑依されたかのような俳優の熱演に、観客である私は戸惑いのなか、なんとも抗しがたい強引さで引きずり込まれた。あの荒々しさには現代の日本に生きる自分の物語として『ハムレット』に真摯に向き合ったときに作・演出の木村の中で湧き上がった思いが反映されているに違いない。ハムレットが具現する闇の深さに飲み込まれそうになったとき、恐怖に思わず悲鳴をあげそうになる。その悲鳴を演劇という形式に抑え込むことでなんとか第三者に伝えようとする。『ハムレット×SHIBUYA』では、作・演出の木村と俳優たちが全力で溢れ出る闇と格闘し、それを不器用に表現としてかたちにしようとするさまがむき出しになっている。


クライマックの場面が次々と続くような重量感のあるリーディング公演で、終演後の俳優たちは精力を使い果たした抜け殻のようだった。観客である私も重力から解放されたような虚脱感を覚えた。カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』は、「今」、「ここ」に生きる「私」が『ハムレット』とどう格闘したのかを伝える壮絶な記録であり、『ハムレット』の闇が含みもつ可能性の豊かさを示す舞台だった。[観劇日:5/22]

---------------

カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』2019/05/22@渋谷ギャラリー・ルデコ
http://kakushinhan.org/others/hs
【公演情報】
カクシンハン特別リーディング公演『ハムレット×SHIBUYA─ヒカリよ、俺たちの復讐は穢れたか─』
- 作・演出:木村龍之介
- 原作:シェイクスピアハムレット
- 会場:ギャラリー LE DECO 4
- 2019年5月22日(水)─26日(日)
- 出演:河内大和、真以美、岩崎MARK雄大、島田惇平、鈴木彰紀、椎名琴音
- 映像:松澤延拓
- 照明:中川奈美
- 音響:大園康司
- 美術:乗峰雅寛(文学座
- 企画・製作:カクシンハン

ヨアン・ブルジョワ『Scala - 夢幻階段』;ミロ・ラウ『コンゴ裁判』;SPAC『ふたりの女』(ふじのくに⇄せかい演劇祭2019)

2019/04/28
ヨアン・ブルジョワScala - 夢幻階段』;ミロ・ラウ『コンゴ裁判』;SPAC『ふたりの女
 
まっすぐ伸びる階段を中央にしたシンメトリックな舞台美術は、暗めの照明で照らし出されていてグレーのモノクロームでおしゃれにまとめられている。なんとなく『無印良品』を連想させる。
トランポリンを使って、フィルムを逆回しして見せるような動きの面白さが何よりも印象的だ。この「逆回し」は様々なバリエーションとともに何度も繰り返される。
シルク・ド・ソレイユのようだと評した人もいたが、確かに地味でシックでスノッブなシルク・ド・ソレイユという感じ。音楽を現代音楽風にして、照明を暗くして、そして抑制を感じさせるストイックで洗練された表現による新スタイルの芸術的サーカスというか。体の関節がいきなり外れて崩れるような動き(舞台セットの椅子やテーブルもこうした崩れ方をする仕掛けが施されている)もまた執拗に繰り返される。
同じ動きを何回も繰り返し、それを徐々に変化させるという手法は、その表現の洗練されたストイシズムと相まって、フィリップ・グラスの音楽を連想させるものだった。
最初のうちは表現としてちょっと気取りすぎてやだなあと思って見ていた。場面のヴィジュアルの面白さはあるが、想像力を刺激するドラマ性が弱いようにも。ただ反復しながらグラデーションのように変化していく場面に次第に引き込まれ、作品から詩的面白さも感じとられるようになり、見ている気分も盛り上がってきた。
 
昨年秋にアンスティチュで行なったイベントで、SPACの横山義志さんからこの作品の報告を聞いていて、日本で上映があるなら必ず見に行こうと思っていた。1990年代末から2000年代の初めにかけてあったコンゴ戦争の後(600万人の死者が出たという)、なお混乱が続くコンゴに演劇家のミロ・ラウが乗り込み、戦争後も続く多国籍大企業によるコンゴ人民からの搾取と虐殺事件の当事者を召喚し、擬似裁判によって事実を検証する様子を記録したドキュメンタリー映画だった。
これは驚異的な作品だった。リミニ・プロトコルなど、演劇的手法を用いて現実社会に切り込む手法の作品はすでに数多く試みられている(ドキュメンタリー演劇と呼のだったけ)。私が驚愕したのは、ミロ・ラウが演劇的手法で捉えようとした現実があまりにも巨大であり、そしておそらく非常に危険でデリケートでスリリングな問題であるからだ。
ミロ・ラウはコンゴの政治的状況の混沌のなかに果敢に飛び込み、「模擬裁判」という演劇的茶番に関係者を巻き込むことでその網目を解いていく。
なぜ模擬裁判か?それはコンゴの現実が自らの関わる事件についての公平な司法を期待できる状況にないからだ。こうした「模擬裁判」は外部者であるミロ・ラウであったからこそ可能になった。しかしそれを実現するための手間はどれほどのものだっただろうか?
いったいどうやってこの大掛かりな茶番に当事者である彼らを巻き込むことが可能になったのか。接触する人物の人選、そのアプローチ、引き込むための戦略の構想、こうした作業には膨大な労力と時間、智恵が投入されている。その作業を設計し、自分が動くだけでなく、この危険で不確定要素の大きいプロジェクトへの協力者を探して、説得し、彼らをを動かすための手間を考えると、頭がクラクラする。
この作品はまさしく演劇的発想と方法が用いられているが、演劇ではないという作品だ。「擬似裁判」という現実の模倣的再現が現実に裏返っていく。スリリングで緊張感に満ちた時間。
 この作品は純然たるドキュメンタリーではない。ドキュメンタリーにも「脚本」はあるが、おそらくこの作品にもかなり書き込まれた脚本はあるように思う。そうでなければ一発どりであの裁判場面は撮ることが不可能ではないか。演技指示という意味での演出もあった可能性が高い。問題はどこまでそういった作り込みを行ったかだ。周到なリサーチの上、様々な可能性を考慮した上で、一番ギリギリのところを切り取ろうとしているように見えた。
 作品創造に関連する文献を読みたい。制作の記録なども。また静岡の芸術祭での二回だけの上映、限定された演劇ファンを対象の上映だけはもったいない。全国の映画館で上映されれば、大きな反響を期待できる作品だ。東京でもまた上映されて欲しい。
 
4年前に再演を見ている。たきいみきが素晴らしくいい。たきいは年月を経るに従ってどんどん魅力的な女優になっている。見た目の堂々たる美しさだけじゃなくて、コミカルな表現がさまになっているところとか、その愛嬌にグッとくる。あと印象に残ったのは武石守正。登場人物の中で一番狂っている人物に見えるその異様な雰囲気と存在感。武石の登場場面が作品の混沌を深めている。俳優宮城聡の出演や三島景太のコミカル・グロテスクな怪演が、観客を喜ばせる。舞台芸術公園の森を借景としたビジュアルの美しさ、壮大さの中で、唐十郎の詩を堪能できる秀作だった。

ザカリーヤー・ターミル著・柳谷あゆみ訳『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』

この短編小説集は2018ねん2月に白水社から刊行され。
 
ザカリーヤー・ターミル(1931-)は現代シリアを代表する作家だが、1981年以降は英国に拠点を移し作家活動を行っている。『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』は200年に刊行されたターミル9冊目の短編小説集とのこと。長さの異なる59編の短編小説が収録されている。最も長いものでB5版のページで5ページ、短いものはごく数行しかない。
翻訳者の柳谷あゆみさんとは、早稲田大学文学学術院の講師控室で知り合った。彼女はふじのくに⇄せかい演劇祭2016でレバノンの演劇人、サウサン・ブーハーレドの『アリス、ナイトメア』の字幕操作をしていて、終演後に赤いシャツを着た太った中年男がブーハーレドに話しかけているのを見ていたそうだ。その赤シャツ男が、彼女の非常勤先でもある早稲田大学文学学術院の講師控室でパソコンに向かっていたので、思わず声をかけたそうだ。赤シャツを着ているとこんなこともある。
『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』に収録されている作品の多くは、シリアの架空の街区、クワイク街区を舞台としていて、荒廃、暴力、横暴、悲嘆、諦念が支配するこの貧民街で暮らす人々の生活がリアルに描き出されている。しかし言論や表現活動に厳しい制限が加えられているシリアでは、現状を批判する直截的な表現は注意深く避けなくてはならない。したがって『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』の描写は、生々しくリアリズムを感じさせつつも、寓意的・隠喩的な表現に満ちている。
B5版で71頁ほどの冊子ではあるが、稠密で詩的な描写ゆえに、読む終えるのにはかなり時間がかかった。耳慣れない固有名詞やごつごつとした文体に最初戸惑ったが、しばらくのあいだそれを我慢して読み進めると、シュールリアリズム的ともいえるブラックでグロテスクな幻想が立ち現れ、その世界に入り込んでしまう。短いエピソードの連鎖と語り物を思わせるハードボイルドな文体、そして描き出されたグロテスクは、『アラビアン・ナイト』のような説話集、あるいはオウィディウスの『変身物語』を連想させた。実際、この短編小説集の登場人物はいろいろなものへと姿を変える。暴力的で不条理な社会を生き抜くシリアの住民たちのたくましさには、ブラジルの貧民街のアウトローたちの姿を描いたフェルナンド・メイレリスの映画、『シティ・オブ・ゴッド』を連想した。
奇妙な後味をもたらす面白い小説集だった。苛酷な紛争が続くシリア社会で育まれた屈折した知性による現代暗黒寓話集である。

2018年の演劇生活 総括

f:id:camin:20181028190814j:plain

2019年あけましておめでとうございます。
2018年は119本の舞台作品を見ました。見た作品については、満足度を☆の数で評価しています。最高点が5つ星(☆☆☆☆☆)で、0.5点は黒星★。
 
5点(☆☆☆☆☆)が「素晴らしい!完璧!」、4.5点(☆☆☆☆★)「素晴らしい、けれどちょっとひっかったところもあった」、4点(☆☆☆☆)「大満足」、3.5点(☆☆☆★)「満足」、3点(☆☆☆)「まあ悪くない」、といった感じで、見た直後の印象の評価になっています。
 
昨年見た作品のうち5つ星評価は14作品でした。そして4.5点が21作品。おおむね4.5点以上だと、きわめて満足度の高い公演だったと言っていいでしょう。私の場合、その割合は総観劇数の約3割になります。
ただ振り返ってみると、高評価をつけた作品でもどんな作品なのかほとんど忘れているものもかなりあります。また見た直後は低評価でも、印象に強く残っている作品もかなりありました。
 
2018年の片山ベストテンを上げると以下の通りになります。
  1. 平原演劇祭『平原演劇祭2018第2部 奉納ヴィヨンの妻』@鶴見線浅野駅周辺
  2. 赤門塾演劇祭『愛の乞食 他』@赤門塾
  3. 劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』@明治大学14号館演劇Bスタジオ
  4. 劇団ぶどう座『植物医師』@劇団ぶどう座稽古場
  5. ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』@早稲田大学演劇博物館
  6. ゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』@彩の国さいたま芸術劇場
  7. iaku『逢いにいくの、雨だけど』@三鷹芸術文化センター星のホール
  8. ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』@こまばアゴラ劇場
  9. ゴキブリコンビナート『情欲戦士ロボ単于』@小金井公園特設テント
  10. ココカラ『ヤルタ・ゲーム』@アポロカフェワークス
 
埼玉県宮代町在住の演劇人、高野竜氏が主宰する平原演劇祭はいわゆる演劇という枠組みを超越したきわめてユニークな芸術表現ですが、昨年6月に横浜市鶴見線浅野駅周辺で行われたオールナイト公演はまさに類例のない演劇体験でした。鶴見線海浜工業地帯への通勤者のための支線で、そのただなかにある無人駅、浅野駅周辺は深夜にはほぼ無人地帯となります。『平原演劇祭2018第2部 奉納ヴィヨンの妻』は午前1時開演で、午前5時過ぎに終演。浅野駅周辺で移動しながら行われるいくつかのパフォーマンスを、20名ほどの観客が懐中電灯を片手にぞろぞろ追いかけながら見るというものでした。この公演のレポートは、http://otium.hateblo.jp/entry/2018/06/10/000000にあります。
 
赤門塾は在野の哲学者、長谷川宏氏が埼玉県所沢に1970年に開業した小中学生対象の学習塾です。現在は長谷川宏氏の息子の優氏が塾の経営と演劇祭などの塾行事を取り仕切っています。赤門塾では40年以上前から3月末に塾生や塾生OBたちによる演劇祭を行っています。小学生の部、中学生の部、高校生以上OBの部の三部に分かれた公演は、アマチュア演劇ながら演者の本気が舞台からほとばしる見ごたえのあるものでした。この演劇祭のレポートはhttp://theatrum-wl.tumblr.com/post/173166619826/にあります。
 
劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』は明治大学の学生演劇サークルの公演でした。日本ではほとんど知られていないカナダのケベックの劇作家、ミシェル・マルク=ブシャールの傑作を、日本の大学生である自分たちの演劇として演じるためのさまざまな工夫がありました。原作の丁寧な読み込みを感じさせる優れた翻案劇になっていました。この公演についてはhttp://theatrum-wl.tumblr.com/post/171978186001/に劇評を掲載しています。
 
劇団ぶどう座は、岩手県西和賀町で半世紀以上にわたって活動している劇団です。『植物医師』は宮沢賢治作の短い作品ですが、この作品をこの劇団の稽古場で、 岩手の演劇人によって演じられるのを見ることで、いっそう味わい深い演劇体験を得ることができたように思いました。この公演は、西和賀の劇場、銀河ホールが毎年開催している演劇祭のなかで上演されました。演劇祭のレポートおよびこの公演の劇評は、http://theatrum-wl.tumblr.com/post/178069818651/に掲載されています。
 
ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』は早稲田大学演劇博物館の空間の特性が十全に生かされた優れた演出でした。リンドバークを演じた女優、河原舞のありかたも印象的でした。
 
ノゾエ征爾が演出したゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』は、数百人の素人老人俳優を舞台に上げるという画期的で独創的なアイディアの公演でした。大群衆老人俳優のパワーとカオスが作り出すエネルギーが圧巻でした。
 
昨年はiaku / 横山拓也の作品が数多く東京で上演され、この優れたストレートプレイの書き手が東京でも広く認知されるようになったように思います。横山戯曲はアクロバティックでスリリングな対話が、人間の心理の微妙な動きを丁寧に伝えるドラマティックな討論劇です。彼の作品には一つとしてつまらない作品はありませんが、今年上演された作品のなかで私が一本を選ぶとなると12月に三鷹で上演されたiaku『逢いにいくの、雨だけど』になります。
 
青年団所属の俳優の河村竜也と劇作家・俳優の山田百次によるホエイ『郷愁の丘ロマントピア』は、湖に沈んだ北海道の炭鉱町を舞台に地方の現代史を悲劇をしっかりと描き出す傑作でした。
 
ゴキブリコンビナートの公演は常に期待以上の過激さを見せてくれます。昨年に引き続き、小金井公園に設置された特設テント劇場での公演は、演者のみならず観客も身の危険を感じるスリル満点のスペクタクルでした。その破格にばかばかしく、壮絶な表現には、圧倒的な感動もあります。
 
←ココカラは小さなカフェを会場に、まだ日本に紹介されていない英語圏の現代作家の戯曲をリーディングのかたちで上演するユニットです。今回はアイルランドの劇作家、ブライアン・フリーるによるチェーホフ『犬を連れた奥さん』の翻案劇の上演でした。観客の想像力に訴えかけるリーディング公演ならでは醍醐味を味わうことのできる優れた演出でした。この公演のレビューはhttp://otium.hateblo.jp/entry/2018/07/13/000000にあります。
 
ベスト10に上げた作品以外にも言及しておきたい公演はいくつもあります。
SPACの公演では、SPAC俳優の牧山祐大演出による個人企画、『犬を連れた奥さん』(榊原有美、大高浩一出演)が印象に残りました。音楽の生演奏付きのチェーホフの短編小説の翻案でした。こうした小さい企画公演は今後もやって欲しいと思います。
 
東京外国語大学の学生劇団、劇団ダダンによる『つつじの乙女』も素晴らしい公演でした。信州の民話を取材した松谷みよ子の作品の翻案劇。恋の情念と狂気の物語でした。原作にはない外枠の設定もうまく機能していました。
 
島根県松江市で半世紀以上にわたって活動を続ける劇団あしぶえの代表作、『セロ弾きのゴーシュ』をこの劇団の本拠地であるしいの実シアターで見ることができたのも、忘れがたい演劇体験となりました。最小限の要素で構成された舞台美術、切り詰められた台詞のやりとりによって物語の本質を伝える緊張感に満ちた美しい舞台でした。
 
年末に行われたチンドンのまど舎の『中野チンドン劇場〜のまど舎創業五周年記念興行〜』はいわゆる演劇公演ではありませんが、ちんどんをベースにしたユニークでアットホームな和風レビューショーでしたた。観客がこれほど楽しそうな笑顔の公演はめったにあるものではありません。チンドンのまど舎のサービス精神にエンターテナーの魂を感じることができました。
 

5つ星評価:14作品

  1. 1/16 ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』@こまばアゴラ劇場
  2. 2/10 劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』@明治大学14号館演劇Bスタジオ
  3. 2/12 ハンブルク・バレエ団『ニジンスキー』@東京文化会館
  4. 3/24 赤門塾演劇祭『愛の乞食 他』@赤門塾
  5. 5/19 iaku『あたしら葉桜、葉桜』@こまばアゴラ劇場
  6. 5/27 ゴキブリコンビナート『情欲戦士ロボ単于』@小金井公園特設テント
  7. 6/7 日本のラジオ『ツヤマジケン』@こまばアゴラ劇場
  8. 6/9 平原演劇祭『平原演劇祭2018第2部 奉納ヴィヨンの妻』@鶴見線浅野駅周辺
  9. 7/14 ←ココカラ『ヤルタ・ゲーム』@アポロカフェワークス
  10. 7/24 Ensemble Pygmalion魔笛』@Grand Théâtre de Provence@Aix-en-Provence
  11. 9/2 劇団ぶどう座『植物医師』@劇団ぶどう座稽古場
  12. 9/28 ゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』@彩の国さいたま芸術劇場
  13. 10/17 ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』@早稲田大学演劇博物館
  14. 12/8 iaku『逢いにいくの、雨だけど』@三鷹芸術文化センター星のホール
 

4.5星評価:21作品

  1. 1/1 地点『どん底』@アンダースロー
  2. 1/14 SPAC『しんしゃく源氏物語』@静岡劇術劇場
  3. 3/11 榊原有美、大高浩一『犬を連れた奥さん』@静岡芸術劇場一階ロビー特設ステージ
  4. 4/8 ITOプロジェクト 糸あやつり『高丘親王航海記』@ザ・スズナリ
  5. 4/28 たきいみき、奥野晃士、春日井一平『寿歌』@野外劇場「有度」
  6. 5/24 iaku『粛々と運針』@こまばアゴラ劇場
  7. 5/25 iaku『梨の礫の梨』@こまばアゴラ劇場
  8. 5/26 iaku『人の気も知らないで』@こまばアゴラ劇場
  9. 5/31 田上パル『Q学』@アトリエ春風舎
  10. 6/19 劇団ダダン『つつじの乙女』@東京外国語大学
  11. 6/29 モメラス『青い鳥 完全版』@STスポット
  12. 7/6 Kawai Project『ウィルを待ちながら』@こまばアゴラ劇場
  13. 7/20 Anne-Cécile Vandalem『Arctique』@La Fabrica@Avignon
  14. 7/22 Les Bâtards Dorés『Méduse』@Gymnase du Lycée Saint-Joséph@Avignon
  15. 9/1 劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』@Uホール
  16. 9/8 平原演劇祭『嵐が丘』@BUoY
  17. 9/23 劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』@しいの実シアター
  18. 9/24 モメラス『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』@BUoY
  19. 11/18 さいたまネクスト・シアター『第三世代』@彩の国さいたま芸術劇場 NINAGAWA STUDIO
  20. 12/2 新生 若獅子『上州土産百両首/蛍―お登勢と龍馬―』@シアターΧ
  21. 12/14 チンドンのまど舎『中野チンドン劇場〜のまど舎創業五周年記念興行〜』@なかの芸能小劇場
 

スタッフド・パペット・シアター『マチルダ』

作・演出・美術:ネビル・トランター Neville Tranter

出演:ネビル・トランター、ウィム・シトヴァスト Wim Sitvast

劇場:プーク人形劇場

上演時間:55分

f:id:camin:20170809014034j:plain

------

とにかく脚本が素晴らしい。こんなリアルで美しい脚本はそう書くことができるものでない。人形劇の特性が生かされた素晴らしい脚本だった。これまで見てきた大人向けの人形劇の多くは脚本に不満を感じていた。日本では大人向け人形劇の観客はきわめて限定されていて、そのほとんどが人形劇の創作に関わっている方でないだろうか。そのためか人形造形の美しさや操演の洗練ぶりなど技術的なところに重点が置かれ、台本は人形を動かす口実、枠組みにしか感じられない空虚で貧弱な内容のものが多いように思っていた。大人のための人形劇はそのあまりに限定されあ観客層ゆえに、操演や人形をいかに見せるかが重視され、人形によるドラマよりもむしろ人形そのものを見るための芝居になっているものが多いように思った。

 人形劇の人形は、その空洞性、受動性ゆえに、人間の俳優以上に、観客の感情や願望の受容体となる。生命のない人形はその思いをじっと受けとめることで、各々の観客のもとで生命を持つ自律的な存在となる。私たちは人形に私たち自身の姿を見ている。

生身の俳優によって現実を表象するのではなく、あえて人形が使われる意味はなんだろうか。人形劇を見るたびにこの問は繰り返される。人形は生身の俳優の代理なのであろうか。代理であるなら、どこに人形に俳優を代理させる意味があるのだろうか。人形劇は人間の俳優の演じる演劇の代替ではなく、人形劇固有の世界があるはずだ。それではいわゆる演劇にはない、人形劇固有の表現とはどんなものだろう。

あの残酷さと優しさは、人形という媒介を通してこそ、直視できるものとなる。人形劇は、世界の本質を抽出したうえで、それに具体的なかたちを与えることができる。人形は本質的に象徴的で寓意的な存在だ。本当に必要な要素だけを伝えるそのストイシズムゆえに、人形は私たち観客の様々な思いを受けとめる容器となりうる。

チルダは介護付き老人ホーム《カーサ・ヴェルデ》で暮らす102歳の老女の名前である。暗い舞台上の中心で彼女は開演前から鉄棒にじっとぶら下がったまま、前方を眺めている。眺めているというはその表情はにらみつけてるというほうが近いかもしれない。55分の上演時間のうちの最初の40分間、彼女は同じ姿勢を保ったまま、動きもしないし、話もしない。不動の彼女の前で、《カーサ・ヴェルデ》の経営陣の二人はどうやって老人たちを食い物にして、さらに大きな利益を得るかという話ばかりしている。老人たちの介護をする男の看護士はいつも不機嫌・無愛想で、老人たちの扱いもぞんざいだ。入居者の一人マリーは看護士の目を盗み、新聞社に電話して《カーサ・ヴェルデ》の劣悪な環境を告発するマリー、ダウン症の老婆ルーシーと彼女にずっと付き添ってきた心優しき兄のヘンリー、ライオンのぬいぐるみを唯一の友とし、狂気と絶望のなかに生きるミスター・ロスト。102歳のマリーは鉄棒にぶら下がったまま、《カーサ・ヴェルデ》の人々の様子を見守っている。

チルダはこのままずっと最後まで動かないままなのではないかと思っていたら、開園して40分たったころにようやく彼女は動き出す。最初は意味のわからないうめき声をあげて、それが徐々に意味のある言葉になっていく。動けるといっても彼女は鉄棒にぶら下がった状態であり、鉄棒を離れて移動することはできないようだ。彼女が大事にしていた赤毛の女の子の人形が見当たらないとマチルダは当り散らしている。その人形は実は彼女の前においてあるテーブルにぶら下がっているのだが、彼女の位置からはそれを見ることができない。黒いシャツを着た操演者(ネヴィル・トランター)の姿を彼女のは見ることができるのだが、それが誰なのかはわからない。観客にもこの操演者が劇のなかの人物としてどういう役割を果たしているのかわからない。彼女は話し始めたのは、戦争が引き離した彼女の若いころの恋人ジャン・ミシェルのことだ。赤毛の人形はジャン・ミシェルが彼女に贈ったプレゼントだった。しかし彼女が誰に向かってジャン・ミシェルの思い出を話しているのか。マチルダはこの黒シャツの人間に話しかけるのか、独り言を言っている、自分に言い聞かせているのか。

若いときの恋の思い出、これだけが102歳となった彼女の生を支えているように見えた。ジャン・ミシェルのことを語る彼女は、その語りともがくような動きによって、彼女がまさに「生きている」ことを私たちに力強く伝えている。

死の間際の老女が若いころの恋の記憶を再現するという作品などいくらでもあるではないか。確かにそのとおりだ。しかしここで人形劇の特質に立ち返ってみよう。

 

濱口竜介『寝ても覚めても』(2018)

netemosametemo.jp

----

濱口竜介監督の『ハッピアワー』は5時間17分の大作だが、神戸を舞台にしたこの作品は私にとっては特別に愛着がある作品で、4-5回見ているはずだ。ここ2年は年末に神戸の元町映画館で『ハッピーアワー』の上映を見るのを帰省の楽しみにしている。

寝ても覚めても』は濱口竜介の初の商業映画で、純然たる恋愛映画だ。運命的な愛に固執する主人公の女性の姿は、ロメールの『冬物語』(ロメールの作品のなかでも最も好きな作品の一つだ)を連想させた。今、書いて気づいたことだが、心理のゆれの繊細な描写という点で、濱口の作品にはロメールを想起させるところがある。ただロメール諧謔、優雅さ、軽やかさは濱口には乏しい。濱口の映画の人物は不器用で内省的だ。

濱口の映画で何が感動的かと言えば、彼の映画の人物たちが真実を生きようとするところ、そして彼らの行動に真実を引き受けようとする真摯な覚悟が感じられるところだ。
寝ても覚めても』の展開や人物の行動には不自然で強引なところはあるし、その台詞はときに過剰に説明的だったり、文学的だったりする。しかしこうしたリアリティからの逸脱は、彼らの真実を映画の物語のなかで引き出すための仕掛けだ。嘘に嘘を重ねることで、はじめて表現可能になる真実というのがある。

真実は他者を傷つけ、自らを傷つける。傷つけ、傷つけられることをまっすぐ受けとめ、自らの責任において引き受ける覚悟をする濱口の映画の人物たちの行動は美しい。
私たちの日常は欺瞞に満ちている。私たちの多くは欺瞞のない世の中の苛酷さにはおそらく耐えることができないだろう。
できる限り正直に生きたいと思っている私は、自分の周りの欺瞞を呪いつつ、それをある種の必要悪として受け入れて生きている。

だからこそ、たとえフィクションのなかであっても、そこで真実が語られていることに激しく心動かされてしまうのだ。

ゆりの木団地夏祭り2018

https://www.instagram.com/p/Bm7-PvdhVBR/

板橋区のゆりの木団地、夏祭り2018。これが毎年、夏の締めくくり。ベーシスト、西村直樹が率いるワイルドグリーンズのライブ。

--

東京都板橋区赤塚新町にある光が丘パークタウンゆりの木通北団地の夏祭りに行ってきた。毎年8月の最終週の土日に行われる。板橋区練馬区の区境にあるゆり北団地は賃貸と分譲が混在する700戸ほどの規模の団地だ。築35年で住民の高齢化はかなり進んでいる。

この団地の夏祭りは団地の自治会の主催になる。団地ができた当初から行われているのだが、櫓を組んでの盆踊りではなく、仮設ステージでの音楽ライブが行われるのが特徴だ。12年ほど前からだと思うが、団地住民ではないが地元在住のベーシスト、西やんこと西村直樹が、彼のバンド、ワイルドグリーンズとともにこの夏祭りに出演するようになった。以後、西やんを中心に夏祭りのライブが年々進化していったのだ。f:id:camin:20180826182253j:plain

最初はワイルドグリーンズのライブだけだったのが、西やんが知り合いのミュージシャンに声をかけ、ライブが拡大していった。シャンソン歌手のソワレさんがこの夏祭りに参加するようになったのは、7−8年前からだと思う。そのあと地元のオーケストラが出演するようになり、そのオケが西やんのバンドと部分的に一緒に演奏するようになった。地元のバレエ教室の子供たちをステージにあげ、音楽に合わせて踊らせたときもあった。団地と団地周辺の老若男女たちはこの破天荒で自由なライブに熱狂し、夏祭りは年々盛り上がっていった。

このようにしてゆりの木夏祭りは、団地の夏祭りとしては異色の老若男女を巻きこんでの地域住民熱狂ライブ祭りになっていった。

昨年からは団地住民に夏祭りのためのアマチュア合唱団の結成が呼びかけられれ、オケの指揮者の池田開渡さんが合唱団を指導して、夏祭りでゆりの木スペシャルオーケストラ+西村直樹とワイルドグリーンズ+地元バンド+ゆりの木合唱団の合同演奏で、第九の演奏を夏祭りのフィナーレでやるようになった。これが実に感動的だった。夏祭りの会場は団地の二つの棟の狭間の細長い空間である。そこに押し寄せた聴衆たちの盛り上がりようと言ったら。

今年のフィナーレはこのゆりの木夏祭り第九の第二回となった。昨年より合唱団員の数は増えている。天候にも恵まれ、トリ前の西やんのワイルドグリーンズのライブのころから祭り会場は人でいっぱいになった。

野外、それも団地の建物の間の路上で、フルサイズオーケストラの演奏が行われるなんてそうそうないだろう。聴衆は地域の住民。酒が入った人も多く、はじまる前からかなり盛り上がっている。このゆりの木スペシャルオケに参加する正装の演奏者の顔もなんか嬉しそうだ。こんな環境で演奏する機会は彼らにとってもそうそうない。

オケの準備が整い、指揮者の池田開渡さんが現れると、既に彼はこの夏祭りのスターなわけで、聴衆たちは大喝采を送る。最後の第九演奏の前に、まずオケだけでエルガーの《威風堂々》、ボロディン《韃靼人の踊り》。それから地元のギタリストとトランペット奏者をソリストとして迎えて《アランフェス交響曲》の第二楽章。これはかなり大胆なアレンジが加えられたものだった。

それからワイルドグリーンズ、地元バンドのマヤン&シモベーズ、そしてゆりの木合唱団とゆりの木スペシャルオーケストラによる《ゆり北第9》が始まった。

f:id:camin:20180826200014j:plain

始まる前からその素晴らしさを予感してどきどきする。写真に写っているビニール傘は、手作りの集音マイク。野外の祭りでの演奏なので、マイクがないと音が聞こえにくいのだ。音響も地元の人間がやる。
合唱隊が登場すると会場は大いに盛り上がる。そして終演時の一体感、盛り上がりと言ったら!こんな親密な雰囲気の演奏会なんてそうそうあるものではない。本当に乳児から老人まで、様々な年齢層の住民がこのライブを心から楽しんでいるのが伝わってくる。

今年はアンコールがあった。エルガーの《威風堂々》のさびの部分がもう一度演奏される。聴衆もハミングで演奏に加わるように指揮の池田さんからうながされる。驚異的なもりあがりと高揚感のなか、祭りは終了。

ゆりの木団地夏祭り2018、フィナーレは《威風堂々》のサビをオケの演奏に合わせて聴衆も合唱。しびれるわ。最高。

私のとなりで立っていたひとが「あー、楽しかった」とつぶやいていた。

東京の端っこにある小さな団地の夏祭り、でもこの夏祭りは本当にすばらしいものだ。最高。

ゆきゆきて、神軍(1987)

ゆきゆきて、神軍(1987)

  • 上映時間:122分
  • 製作国:日本
  • 初公開年月:1987/08/01
  • 監督: 原一男 
  • 製作: 小林佐智子 
  • 企画: 今村昌平 
  • 撮影: 原一男 
  • 編集: 鍋島惇 
  • 助監督: 安岡卓治 
  • 出演: 奥崎謙三
  • 映画館:渋谷 アップリンク
  • 評価:☆☆☆☆☆

www.uplink.co.jp

----

1987年にこの作品が渋谷ユーロスペース(当時は今とは別の場所にあった)で上映されたとき、私は大学一年だった。私より前にこの映画を見た同じサークルの友人が憤りながら次のように言っていたことを覚えている。

「あんなとんでもないおっさん初めて見たわ。病気の人間を殴りつけているんやで。もう無茶苦茶な奴だよ」

この特異すぎるドキュメンタリーは公開当時おおいに話題になり、渋谷ユーロスペースは連日超満員だったようだ。

この映画の公開前から、神戸出身の私は奥崎謙三のことは知っていた。衆議院の兵庫一区から奥崎は立候補していて、その選挙活動中に殺人未遂事件を起こしたことは大きく報道されていたからだ。兵庫一区は私が居住している選挙区だった。高校生だった私には投票権はなかったが、選挙報道が好きだった私は、奥崎の奇矯な政治的主張も印象に残っていた。「けったいなおっさんがおるもんやなあ」と思っていたのだ。この殺人未遂事件が、終戦後にニューギニアで部下の処刑を先導した下士官、古清水への奥崎の制裁行為だと知ったのは、この映画を見たときだったが。

ロードショー公開で見て以来、3、4回は『ゆきゆきて、神軍』を見ているように思う。今回はたぶん十年ぶりぐらいでこの作品を見た。すでに何度も見ている作品にもかからず、やはりずんと重量のある鈍器で胸を強打されたような衝撃を受ける。奇跡的な傑作だ。

奥崎のエキセントリックな言動、過剰でえげつない自己演出には辟易としつつも、それでも私は奥崎の戦争に対する責任の取り方、取らせ方、その思想と行動の一貫性、欺瞞の追求態度には、共感するところがある、そして自分がこの映画における彼のふるまいに影響を受けたところがあることを確認し、居心地の悪さを感じた。

私がこれまで見た戦争についてのフィクションやノンフィクションで、『ゆきゆきて、神軍』ほど戦争が人間にもたらす恐怖と無残さとおぞましさをリアルに生々しく感じさせる作品はない。

神戸の下町、板宿の商店街の小料理屋のおやじの告白場面がある。人のよさそうなごく普通の雰囲気のおじいさんだ。彼は奥崎に促されるままに、戦地で飢えた兵士たちが「白豚」、「黒豚」という符号を使って人肉を食べていたことを淡々と語る。南方の戦地で飢えに苦しんだ兵士たちが人肉を食べていたという事実は、大岡昇平の『野火』などのテクストを通しては知っていた。しかしその人肉を食べる壮絶な戦争体験を当事者が自分のこととして語るのを映像で見るインパクトは強烈なものだった。それを語るおやじは、板宿の商店街の小さな店の好々爺といった感じの人物なのだからなおさらだ。

奥崎が追い詰めた元兵士のなかで、もっとも良心的で常識的に思える埼玉在住の山田吉太郎から引き出した告白は、実はもっとも陰惨なものだった。連隊の唯一の生き残りとして日本に帰還した彼は、飢えを満たすために仲間の兵士のなかで「利己的なふるまいをするもの、役に立たないもの」を共謀して一人ずつ殺し、食していた事実を語るのだ。
奥崎の暴力と恫喝を通して、かつての兵士たちは部下の非合法的処刑(戦時の法にあっても)、人肉食といった事件に口を開き、自己弁明を行うが、その様子は、そのような苛烈な追求のなかでもなお語られなかった陰惨な事実を想像させるものだった。自己保身のために過去に自分が関わった行為のおぞましさを、「私だけでない、他の人も傷つけるから」と口のきけない死者たちの名誉を守ることを口実に、封印する行為は、人間的と言えるかもしれないが、卑劣な態度だ。

奥崎は敢えて暴力的な手段を使って、かつての兵士たちの傷をむりやり押し開き、大量出血させる。奥崎に果たしてそういう権利はあるのか。奥崎の言っていることはある意味、正論なのだ。戦場から生き残った者たちは過去のおぞましい行いを明らかにすることで自らを裁き、そのことが今後の戦争抑止につながるであろうという主張である。しかし奥崎独自の正義を掲げつつ行われるカメラという武器を使っての追求は、彼のグロテスクな自己顕示と自己陶酔と表裏一体であることがあからさまであるだけに、見ている私の心はぐらぐらと激しく揺さぶられてしまう。