閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

Pascal Kirsch, La Princesse Maleine de Maeterllinck

www.festival-avignon.com

 

『マレーヌ姫』は1898年に発表されたメーテルリンクの処女戯曲で、オクタヴ・ミラボーによって激賞されたことで知られている。メーテルリンクの戯曲といえば、2012年から2014年にかけてクロード・レジがSPACの俳優と共に一幕劇『室内』を上演し、その弟子筋にあたるジャンヌトーがやはりSPACで『盲人たち』を上演したが、近年とりあげられるメーテルリンク作品といえばたいていは『青い鳥』であり、それ以外にはドビュッシーのオペラを通して上演される『ペレアスとメリザンド』くらいである。五幕悲劇である『マレーヌ姫』の上演機会は極めて稀であり、アヴィニョン演劇祭の舞台で見られるのを楽しみにしていた。

上演会場はセレスティン修道院回廊中庭(Cloître des Célestins)で、回廊を背景にその内側の庭の巨大な2本のけやきの木のあいだ、15メートルほどが舞台になっていた。f:id:camin:20170713000730j:plain

背景となる回廊にはスクリーンがあり、そこにモノクロを基調とした映像が映し出される。映像は風景などの静止画もあったが、星、木々、川などのゆらぐような動きがあるものが多かった。

こうした映像を使った、抽象的ですっきりしたデザインの美術は珍しくない。床面などは黒が基調とされていて、舞台上の時間はずっと夜のイメージだった。メーテルリンクの原作が描くイメージがほぼそのまま素直に舞台化されている。修道院の回廊の向こう側から満月に近い月が見え隠れしていて、その月や修道院回廊という借景が、作品内容、舞台美術とよく適合していた。

メーテルリンクの作品の上演となると、私としては2012-2014年にクロード・レジが演出した『室内』の公演を指標とせざるをえない。レジの『室内』はあのプロットのシンプルさ、素朴な短い言葉のやりとり、ほとんど停滞しているかのような展開の流れから、いかに豊かで深遠な詩情と思想を作品から汲み取ることができるかという見事な実例だった。あらゆるメーテルリンク作品の上演がレジのテクスト解釈、方法論(レジのそれはメイエルホリドの演出ノートに沿ったものだった)を踏まえなくてはならないというわけでは勿論ない。しかしレジの『室内』公演は、それ以後のメーテルリンク上演においては演出家にとっては重要な参照軸であり、彼の解釈と演出美学を乗り越えた作品を提示するのでなければ、少なくとも現代演劇の文脈ではメーテルリンク作品を上演する意義は乏しいように私は思う。

写真を見る限りまだ30代後半か40代始めに見えるキルシュの演出は、正直、なぜ彼がメーテルリンクのこの作品を今、取り上げたかったのかがわからなかった。舞台空間のセンスは悪くない。借景としての修道院回廊も作品にマッチしている。しかし映像の使い方はごくありきたり以上のものではない。五幕のかなり長い戯曲であるが、これを2時間半休憩なしで上演する。会話のテンポはかなり速く、その口調は現代劇風だ。レジの演出ならおそらくこの倍以上の時間は上演に必要だっただろう。短い言葉のやりとりと表現の反復が特徴的なメーテルリンクの台詞は、リズミカルにたったったと交換される。その平板な速さのなかで、メーテルリンクの台詞の詩的性格は抜け落ちてしまった。連想するのはマンガやBDの吹き出しによる台詞のやりとりだ。人物の動きや動作もマンガ的だ。動きにためや様式性はなく、いわゆるごく普通の写実演劇的な動きをしている。安っぽいプラスチック製品のような上演であり、失われた深遠な詩性の代わりに、ポップで破壊的な要素が機能しているかと言えばそうでもない。安っぽい、味わいの薄い童話のような芝居に、観客の10%ぐらいは上演中に退出していった。

『マレーヌ姫』の最後では、マレーヌ姫をはじめ、その恋人のヤルマール王子、そしてヤルマール王妃のアンヌなど主要な人物が、シェイクスピア悲劇のように死んでしまう。その次々人が死んでいく場面の記号的な演技に観客のあいだからは失笑がわき上がった。この「笑い」は演出家の意図通りなのだろうか? もし意図通りだとすれば、なぜこの終幕部にナンセンスに思える笑いを入れたかったのかがわからない。

 

演劇集団ア・ラ・プラス『ビザール〜奇妙な午後』

https://theatrecentrewithoutwalls.jimdo.com/

  • 作;ジェーリコ・フバッチ
  • 演出・構成:杉山剛志 
  • 翻訳:高橋ブランカ
  • 美術:加藤ちか
  • 照明:大野道乃
  • 舞台監督:玉城忠幸
  • 音響:牧野宏美
  • 衣裳:杉野明善
  • ヘアメイク:橘房図
  • 宣伝美術:ミツヤスカナ
  • 制作:高橋俊也(THEATRE-THEATER)
  • 出演:蔡チェヘミ(演劇集団 ア・ラ・プラス)、西村清孝(リベルタ)、辻しのぶ 、服部晃大 、松田崇
  • 上演時間:1時間45分
  • 劇場:目白 シアター風姿花伝
  • 評価:☆☆☆☆

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セルビアの作家の戯曲。ベオグラードの16階建のマンションで起こる三つのエピソードのオムニバス劇。最初のエピソードが屋上での出来事、38歳の5人の人物の物語。次が最上階にある警視副総監ミランの部屋での32歳の5人の人物の物語。最後がビル1階のバーの25歳の5人の物語。今村昌平の映画を連想させる重厚な喜劇だった。

男性3人、女性2人の5人の俳優がそれぞれ、各エピソードで年齢も雰囲気も異なる3人の人物を演じる。つまり全部で15役の人物が登場することになる。

舞台奥から客席に向かって傾斜している黄色く塗られた舞台(俳優たちはその傾斜舞台に数カ所ある穴の上げ板から出てくる)、建物の三層構造と各エピソードの人物相関の平行性、各幕で同じ俳優がまったく雰囲気の異なる人物を早替わりのように演じる面白さなど、さまざまな趣向で見せる芝居だ。ユーゴ内戦で国を離れた人たちがまたベオグラードに戻ってきたという設定が三幕で共通している。エキセントリックな人物たちに漂う頽廃と絶望には、ユーゴ内戦後のセルビアの重苦しい状況が反映されているはずだ。しかし会話のリズムがいまひとつ。特に2幕は人間関係の状況がわかりにくくて眠たくなったところがあった。

俳優の芝居は弾けるようなエネルギーに満ちている。リアリズムではなく、戯画的にエキセントリックな人物を思いきり、堂々と演じきっている。身体の動きも面白い。方言の取り入れ方も違和感がない。

美術の面白さ、演出や脚本上の趣向、俳優の演技はいいが、脚本の台詞のやりとりが冗長でわかりにくいところがある。脚本はテーマ的にも日本の今の私の現実からは遠く感じられ、今一つのれないまま三幕目まで見ていたのだが、この作品のすごさがわかるのは最後の最後だった。三つのエピソードをまとめる脚本上の仕掛けがある。その仕掛けのアイディア自体はそんなに独創的ではないのだが、このとっちらかった三つの物語にすっと芯が通り、オムニバスの重喜劇に一気に奥行きがもたらされ、大きな物語が立ち現れる。その終幕の仕掛けが感動的だった。

 

玉田企画『今が、オールタイムベスト』

  • tamada-kikaku.com
  • 作・演出: 玉田真也
  • 美術:濱崎賢二(青年団
  • 照明:井坂浩(青年団
  • 音響:池田野歩
  • 衣装:根岸浅子(sunui)
  • 出演:宮崎吐夢、浅野千鶴(味わい堂々)、神谷圭介(テニスコート)、菊池真琴、木下崇祥、玉田真也、野田慈伸(桃尻犬)、堀夏子(青年団)、山科圭太
  • 劇場:五反田 アトリエヘリコプター
  • 上演時間:100分
  • 評価:☆☆☆★

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はじまってから三十分間の凝縮力は驚異的だったが、中盤以降失速してしまった。。最初の三十分の密度で全篇が満たされていたら、どんな傑作になっただろう。玉田真也が演じる中学三年生のひねくれぶり、生意気さは、思春期のただなかで屈折しはじめた自分の子供たちに見せてみたかった。会話のディテールのリアリティと確信犯的に強引でむりやりな状況設定のかみ合わせのずれが玉田独自の笑いを生み出すのだけれど、このバランスは実に微妙だ。最初のほうのやりとりは神業を思わせる精妙さで抱腹絶倒の連続だったが、中盤以降、このやりとりの密度が薄まり、間延びした感じになってしまった。結末にもああいう「まとも」なまとめ方はつまらない。最後にまた意地悪くひねって、観客の期待を裏切って欲しかった。

青年団『さよならだけが人生か』

www.seinendan.org

  • 作・演出:平田オリザ
  • 出演:山内健司 小林 智 太田 宏 石橋亜希子 荻野友里 小林亮子 立蔵葉子 森内美由紀 石松太一 伊藤 毅 井上みなみ 小瀧万梨子 佐藤 滋 前原瑞樹 串尾一輝 藤松祥子 大村わたる 寺田 凜
  • 舞台美術:杉山 至
  • 照明:西本 彩
  • 衣裳:正金 彩
  • 舞台監督:小林朝紀 播間愛子
  • 宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
  • 宣伝写真:佐藤孝仁
  • ロケーション・コーディネーター:渡辺一幸(NEGO-TI)
  • 制作:石川景子 金澤 昭 有上麻衣 太田久美子
  • 劇場:吉祥寺シアター
  • 上演時間:2時間
  • 評価:☆☆☆★

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足場に囲まれた工事現場の休憩所が舞台。工事現場で働く鳶職、建設会社社員、休憩所の掃除婦、そしてその工場現場に遺跡が見つかったため、発掘調査にやってきた学生たちが登場人物。彼らのなかの何人かの別れが描かれる。平田の現代口語演劇スタイルの作品の究極とも言えるようなだらだらとした、とりとめのない会話がシーン毎に交わされる。対話ではなく、駄弁というか。そのめりはりのないゆるい会話が退屈で前半は眠ってしまった。観劇前から疲れていて眠気もあった。こんな状態では観劇どころではなかったなと思ったのだが、後半は目が覚めた。

しかし恋人と別れ留学をする女子学生(藤松祥子)と彼女の恋人との別離をめぐる諍い(それもきわめてありきたりのものなのだが)から目が覚める。藤松祥子がとにかく可愛らしい。そしてこのダラダラの会話のリズムに、ゆったりと乗っかれるようになった。

平田の台詞、劇作的仕掛けの技巧性・作為が過剰すぎるように思ったが、それでも終幕部の処理はやはり見事なものだ。ダラダラとした日常を舞台としたファルスなのだが、深い余韻とともに終わる。この終幕で帳尻を合わせた感じ。平田の劇作の職人芸を堪能できた。

Qアナザーライン こq『地底妖精』

scool.jp

  • 劇作:市原佐都子 
  • 美術:高田冬彦 
  • 出演:永山由里恵 (青年団
  • 映像出演:中田麦平
  • 音楽:額田大志
  • 劇場:三鷹 SCOOL
  • 上演時間:90分
  • 評価:☆☆☆☆★

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Qの公演を見ると「市原佐都子はいったいどんな男性と付き合っているのだろう?」と考えたくなる。思春期の女性の性愛への関心をこじらせたまま、執拗に徹底的に追求されつづけると、こんな異様なファンタジーに行き着くことができるのだろうか。劇のモチーフとして用いられた作品は、兄妹愛の物語である少女漫画の傑作(らしい、当パンによると)『ママレード・ボーイ』(吉住渉作)とエミール・シュエラザード『妖精の国へようこそ』である。この2作品の抜粋が上演前にスクリーンに繰り返し映し出される。

永山由里恵のほぼ一人芝居の90分だが、着ぐるみの「もぐら」が何回か舞台に介入する。もぐら役にはセリフがない。舞台上には黒いビニールで覆われた巨大なさつまいもらしきものがいくつもぶらさがっている。タイトル通り、地底に潜む妖精の話なのだ。しかし語りを一人で担当する永山由里恵は、妖精と人間のハーフなのだという。彼女は他の妖精たちに語り続けるのだが、他の妖精たちのすがたは人間、すなわち観客には見えない。

永山由里恵は古ぼけたビルの最上階にあるあまり評判のよくない台湾マッサージ店に向かう疲れ切ったOLでもある。このマッサージ店とサツマイモがぶらさがる地下の世界とは繋がっていて、永山由里恵はその二つの世界と二人の人物を行き来する。

膨大な台詞量だ。しかもその語りのテンションは常に高く、その調子は激しく切り替わる。せわしなく動き続ける必要もある。俳優にかかる負荷は相当なものだ。

若い女性が持つ性に対するいびつな意識のありかたが、客観的に冷静に観察されている。そしてそのいびつなひっかかりが、妄想へと自由に貼ってしていき、コントロール不可能になっていくような感じである。
セックスを含めた性的なあらゆる行いは、客観的に見ると非理性的で滑稽なものであり、そうであるにもかかわらず世の人間の大半が性的なものから逃れられないというのは、恐るべきことだと私は思っている。性には自らは没入するものであり、自らの性のありかたを客観的に批評するのはとんでもなくはずかしい行為だと私は感じていて、性について語ることについては大きな抵抗がある。
彼女は性に没入することはなく、その奇妙で異常で滑稽なありさまを観察し、それがコントロール不能になっていく様も冷静に見ているのだ。性の快楽そのものよりも、性に囚われ、非理性的で妄想的な世界に身を委ねる自分を見つめることに喜びと興奮を見出しているような倒錯的な性のありかたが提示されている。

性的幻想の奇怪な逸脱ぶりが確信犯的に深められていた傑作であり、怪作だった。グロテスクで露悪的な性の開示は不健全である一方、真っ当で誠実でもあるからよけい恐ろしさを感じる。

コトリ会議『あっ、カッコンの竹』

コトリ会議

  • 作・演出:山本正典
  • 出演:牛嶋千佳 要小飴 若旦那家康(以上、コトリ会議)大石丈太郎 野村由貴 藤谷以優 まえかつと 三村るな 本田椋(劇団 短距離男道ミサイル)
  • 舞台美術:柴田隆弘
  • 音響:佐藤武紀
  • 照明:石田光羽
  • 照明オペレーション:木内ひとみ(東京のみ)
  • 舞台監督:柴田頼克(かすがい創造庫)
  • 衣装:山口夏希
  • 小道具:竹腰かなこ
  • 音楽:トクダケージ(spaghetti vabune!
  • 宣伝美術:小泉しゅん(Awesome Balance)
  • 制作:若旦那家康
  • 劇場:こまばアゴラ劇場
  • 上演時間:90分
  • 評価:☆☆☆

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宇宙人二人が地球にやってきて、竹林に不時着。そこには人食いの鬼婆やその鬼婆と暮らす二人の少女、心中のために来た若い夫婦、自殺のために来た先輩とその先輩を愛する後輩などがいた。

宇宙人との遭遇の話。脱力系のほんわかしたギャグに何回か笑う。面白いけれど、つまらない作品だ。よくあるSF的設定とその枠組みを超えることがない定型的ファンタジーという感じで。女優がみな妙に可愛らしいのが印象に残った。

FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』

愛死に - FUKAIPRODUCE羽衣 公式サイト

  • 作・演出・作曲:糸井幸之介
  • プロデュース:深井順子
  • 振付:木皮成(DE PAY'S MAN)
  • 照明:松本永(eimasumoto Co.Ltd.)
  • 音響:佐藤こうじ(Sugar Sound)
  • 舞台美術:カミイケタクヤ
  • 出演:深井順子 鯉和鮎美 高橋義和 澤田慎司 キムユス 新部聖子 岡本陽介 浅川千絵 平井寛人(以上、FUKAIPRODUCE羽衣)
  • 伊藤昌子 野上絹代(FAIFAI/三月企画) 山森大輔文学座) 荒木知佳
  • 日髙啓介(FUKAIPRODUCE羽衣)
  • 劇場:東京芸術劇場シアターイース
  • 評価:☆☆☆☆★

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暗闇と沈黙から始まり、暗闇と沈黙で終わる。
糸井幸之介は人生の終着点であり、不可避なものである死から、生を振り返り、見つめる。『愛死に』を見て、死が迫る前に「走馬燈のように」蘇ると言われる回想の時間のために、人は生きているのではないかというようなことを思った。
エロスの愛にこそ生の充実の根源を求め、官能の喜びとみっともなさを執拗に描き出す羽衣の作品は、西洋中世から続く芸術表現の系譜につながるものだ。言葉と歌と身体の表現の構成によって、羽衣はノスタルジックな性的幻想への陶酔にどっぷりと浸らせてくれる。
羽衣の舞台を見ながら、私は孤独でみすぼらしかった自分の過去と再び向き合う。羽衣の舞台は、さえない自分の過去の物語、歴史も、そんなに悪いものではないような気にさせてくれる。そういった優しさに満ちている。
『愛死に』は予想していたより地味な作品だった。しずかで甘美な回想的なシーケンスが続く。見終わったあとにじわじわとさまざまな感情と想い出で満たされるような作品だった。

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お嬢さん(2016)

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パク・チャヌクの暴走を堪能。期待通りの快作だった。悪意をむき出しにしたペニノといった雰囲気の変態的エロスの幻想劇だった。
和洋韓がごちゃまぜになった奇怪な亜日本の風景が面白い。韓国語訛りの日本語をとつとつと俳優に話させ、「日本人」を演じさせることで、その虚構的日本のまがまがしさはさらに強調される。
演じる者が演じているうちに自分が演じていた存在に内面まで侵食されていくいくさまは、マリヴォーやジュネの作品を連想させた。
第二部で種明かしがされてしまうので、第三部で結末がよめてしまう、そして予想した結末通りだったのが残念だった。二部までの展開はスリリングだったので、第三部でもういちどこちらの期待を裏切るような展開を期待していたのだが。
よくこんな映画に出るような女優を見つけてきたものだなと思う。女優のルックスはまさに作品の役柄が要求するものだった。
パク・チャヌクの変態性、暴力性、スピード感は、本当に爽快だ。

『STOP』(2016)

www.stop-movie.com

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こんなひどい作品は滅多に見られるものではない。予告篇を見た段階で、キム・ギドク福島原発を題材にどんな映画を作るのかは予想はついたのだが、その予想を上回る暴走ぶりに唖然とする。ギドクの狂気を私はなめていたのだ。

福島原発災害が起こったとき、そのすぐそばに住んでいた若い夫婦の話である。彼らは避難勧告に従い、東京に避難する。このとき、妻は妊娠十週目だった。国家からミッションを依頼されたらしい謎の男に、放射能によって奇形児が生まれる可能性が高いので、妊娠中絶を強く迫られ、夫婦は大いに動揺する。最初は夫は出産を望み、妻は中絶を希望していたのだが、夫は福島で放射線汚染地域に住み着く女性の出産の現場に立ち合い、彼女が奇形児を産んだのを見てから、考えを変える。逆に妻は福島の汚染地域に戻り出産を決意する。夫は電気使用こそ諸悪の根源と考え、福島の汚染鶏を東京の店に卸すなぞの男と、原発の電気の送電塔を破壊しようとする。

悲劇的状況においてエスカレートしていく激情に身を任せ、破滅まで突っ走るような常軌を逸した人物はキム・ギドクの作品ではおなじみだが、この作品では福島原発災害に関わる妄想に取り憑かれたギドクの想像力が暴走するままに、地理も時間も登場人物設定も、あらゆるリアリティがグロテスクに歪めらていく。

最初は反原発運動の一部が強調した奇形児出産というデリカシーない扇情的な情報に、キム・ギドクが乗っかり、放射能-奇形児という配慮のない悪質なデマ(と言ってもいいだろう)を中心に物語を作ったことに、嫌悪感を覚え、すぐに映画館を出たくなった。しかし、妊娠中絶を強引に迫り、国家の危機を語る謎の男とか、暴れる妻をガムテープでぐるぐる巻きにして東京のマンションに転がしたまま、福島に動物の写真を取りに行く夫とか、福島の汚染地域の廃屋に一人で暮らす妊娠中の狂女とか、福島の汚染地域の山林のなかで斧で鶏肉をさばき、焼鶏串に刺して、それを東京の焼き鳥に卸しに行く謎の男とか、またこの焼き鳥男がなぜか東京の送電事情にやたら詳しいとか、荒唐無稽な設定、人物が続々出てきて、妄想が暴走していくのに、不愉快と怒りを超え、唖然とするしかない。もう馬鹿馬鹿しくて笑うしかない。

ギドクの頭のおかしさは、こちらの想定をはるかに超えるものだったのだ。彼はおそらく真面目にこの映画を作ったはずだ。自分で製作し、配給先まで探している。そして入場料収入は熊本県震災被害者にすべて送るという。恐るべき狂気の情熱の映画だ。

ひどい作品ではあったが、こんな怪作を見られる機会はそうあるものではない。だからわざわざ観に行く価値はあったと言える。

平原演劇祭2017第4部 演劇前夜音読会&うどん会「や喪めぐらし」

平原演劇祭2017第4部 文芸案内朗読会演劇前夜&うどん会
「や喪めぐらし」(堀江敏幸「めぐらし屋」より)

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4時間半、一つの物語を聞き続けることはできるだろうか? 平原演劇祭で実際に経験したわけだが、これが案外できるものだなと。

平原演劇祭ではこれまでも「演劇前夜」と題され朗読形式の公演が行われたことは度々あった。しかし今回の平原演劇祭で異色だったのは、リーディング形式の公演でかつ公演演目が一作だけという点である。しかも上演時間は5時間と予告されていて、「うへ、本当に聞いていられるかな」とちょっと不安ではあった。

平原演劇祭では、途中の軽食時間も含め、再構成された数作品がシームレスに連続してされるのが通常の形だ。出演俳優4名が全員30代女性というのも、これまでの平原演劇祭とは異なる。だいたい平原演劇祭には10-20代の若い女優が多かった。場所は駒場東大前から歩いて十分ほどの区立集会所での屋内公演だ。

うどん込みとはいえ1000円(+投げ銭)の有料公演(これも無料公演、カンパのみが通常の平原演劇祭としては例外的と言える)、集会所に5時間こもって、朗読を聞く。こんな地味な企画で果たして観客はやって来るのだろうか、と思いながら会場に向かう。開演予定時刻の五分ほど前に会場の区立集会所前に到着したが、竜さんがひとりでその集会所の入口付近をうろうろしていた。開演間近なのに、主催者・演出家がいったい何をしていたのか。

「竜さん」と声をかけると

「ああ、二階だから」と虚ろな声で返事があった。

二階に上っていくと、会場入口に案内があった。

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和室の会議室だ。観客の数は15人ほど。和室に座布団で5時間、と思うと始まる前からちょっとだけげんなりした気分になる。ずっと集中して聞いているのはたぶん難しいだろうから、だらだら手元の手帖にメモや落書きをしながら聞いておくことにしようと思う。

正面に横長の座卓が並んでいて、スタンドが三台設置してある。中央にはなぜか秤が。ここが朗読エリアとなる。観客はその正面に座る。左側の窓は開け放たれていて、そこから風と外の物音が聞こえてくる。

平原演劇祭は予定より遅れて始まることが多いのだが、今日は朗読時間の正味で4時間20分かかるということで(これにうどんタイムが加わる)、17時に終えるために予定通り正午に始めると竜さんから説明があった。そして実際に正午にはじまった。

まず朗読者が一人だけ、座卓にやってきて読み始める。最初の朗読者は最中だ。朗読がはじまってから到着した客が数名いて、観客総数はおそらく20名ぐらいになったようだ。

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堀江敏幸の小説、『めぐらし屋』を最初から最後まで読み切るという公演だった。読み方自体には演出はごく控え目にしか入っていない。

最初に最中さんが一人で読み始める。彼女は読み始める前に、持っていたボールペンを永机の中央においてある秤にそっと乗せた。最中が朗読している途中で、二人目の朗読者の青木祥子が机の右端に座る。最中が25分ほど読んだところで、青木に朗読がバトンタッチされる。青木もボールペンを秤の上に置いてから、朗読を始める。秤にボールペンを乗せるというのが朗読を始める前の儀式のようだ。青木が読み始めると、最中は退場する。あとはほぼ20分ごとに朗読者が、大倉マヤ、石黒麻衣とリレーされる。

女優たちはそれぞれはっきりした、落ち着いた発声で、自然な調子でテクストを読む。セリフでの人物の演じ分けもごく軽いニュアンスを加えるぐらいで、演劇的な誇張を加えたりしない。まさに「音読」である。ただそのフラットな読み方のなかで、主人公の蕗子(語りは三人称体だが、彼女の視点に寄り添ったものになっている)が驚いたときの口癖だけが強調される。最初のうちこそ左側の開け放たれた窓から入ってくる風や周囲の物音(自動車の通過音や飛行機の音、たまに人の話声など)に気を取られることはあったが、作為を意識させない柔らかでニュートラルな口調に、気がつくと私は自然と語りのなかに入っていってしまった。私がこんなに辛抱強いとは。

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『めぐらし屋』の主人公の蕗子は40間近の独身女性だ。大学卒業後に友人のつてで倉庫管理会社に就職し、その会社でずっと働いている。蕗子は極度の低血圧でぼんやりとした人のようだ。回りの人間よりちょっとずれた感じのゆったりしたリズムで生きている女性だ。恋の雰囲気もない。母はすでに亡くなっている。母とだいぶ前に離婚した父が最近死んだ。蕗子は父との別居が長く、疎遠になっていたが、ただ一人の肉親ということで父が一人暮らしをしていたアパートの整理に向かう。遺品整理の折りに出てきたノートには「めぐらし屋」と書かれていた。そしてアパートに「めぐらし屋」の仕事依頼の電話がかかってくる。蕗子は謎に包まれた父の人生の秘密の調査をはじめる。緩やかな探偵小説のような物語だ。蕗子の回想や見聞きする人やものの描写がとても丁寧で柔らかい。孤独な父の人生をその娘である孤独な40女性がとつとつと追いかけていく。明らかになる事実はドラマチックな華やかさはない。ただ父の人生を押し開き、それとともに蕗子さん自身の過去の想い出が展開するなかで、平凡で退屈そうな彼女の人生が穏やかな光で照らされていくように感じられるようになる。

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地味な小説をただ読み聞かせるという地味な企画。単調さに変化を与えるためのささやかだが、効果的な仕掛けだが、長机の中央に置かれた秤である。うどんタイムの前の前半は、女優たちは自分が読み始める前に小さな秤にボールペンを置くという儀式を行った。後半は大型の秤のカゴのなかに上着を放り込んでいた。この秤がいったい何を意味しているのか私にはわからない。しかしその不可解さゆえに、そのひっそりとした存在感にもかかわらず、朗読を聞いているさなかでも秤を気にせずにはいられない。

朗読のしかたもいくつかのバリエーションがあった。最初のうちは一人ずつ読んでいたが、二人あるいは三人で読んでそれぞれが異なる人物を担当する場合や、四人全員がずらりと一列に並んで読むところもあった。

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開始2時間半後、午後2時半にうどんタイムが入った。開始が正午だったし、うどんが出ることは予告されていたので私は昼ご飯抜きで来た。だからかなりお腹が減っていた。カセットコンロ二台が出され、そのうち一台で竜さんがうどんを茹で、もう一台ではキノコと薄揚げのタレを温めた。もう一つ冷たいタレが用意されていて、そちらは赤いタデとみそ仕立てだった。「蓼食う虫も好き好き」のタデである。こちらはちょっと酸味がある。タデは鮎の塩焼きに添えられるタデ酢の原料でもある。

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こんな落ち着かない場所で飯を食べるのは、実は私は苦手なのだが、なぜか平原演劇祭では食が進む。タデ味噌冷タレは初めての味だったが、慣れるとなかなか行ける。キノコ・薄揚げは和風出汁ではなく中華仕立てのようだ。こちらのタレで食べるうどんも美味しい。結局四杯食べてお腹いっぱいになってしまった。

午後3時10分過ぎに後半開始。文庫版で約190頁の『めぐらし屋』を読み終えたのは、午後5時10分ぐらいだった。文庫版200頁の小説を、最初から最後まで無理のないスピードで音読すると、およそ4時間半ぐらいかかるということだ。足は崩してあぐら座りだっったとはいえ、座布団、背もたれなしで5時間近く座っているのは、やはりちょっとしんどいことではあった。終わったときには、マラソンを完走したかのような(したことは実際にはないが)達成感、爽快感がある。そして5時間のあいだ、同じ物語で時空を共有した人たちとのあいだにもゆるやかな共同体意識のようなものが。飯も一緒に食べたのでなおさらだ。でもそれはあくまで静かな余韻のなかでの穏やかな感動だった。

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朗読だけというストイシズムにもかかわらず、私は退屈することなく、物語に聞き入ることができた。こんな長時間、ひとつのお話を聞き続けるというのは私には初めての経験である。

私の研究対象のひとつである中世フランスの韻文物語詩には4000から5000行の作品が多い。中世、当時はジョングルールと呼ばれる芸人が、貴族の館や町辻などで、人びとに語って聞かせるものだった。そうやって語り継がれたもののごく一部が、だいぶ後になって手写本にテクストとして記録されたのだ。

17世紀のフランス古典主義時代の戯曲は、12音節詩行で1500-2000行、普通に上演して2-3時間かかる。中世の韻文物語詩はこの2-3倍の長さだが、果たして声を出して読まれたといっても、人びとはどういう具合に作品を受容していたのだろうと思っていた。今日の演劇前夜音読会で4-5時間、語り続ける、聞き続けるということは、それほど特殊なことでないことがわかった。特に変わった演劇的技巧を用いなくても、ちょっとした工夫があれば人は物語を聞き続けることができる。

秤の仕掛けの意味、企画と作品選択の動機、うどんの選択の理由など、主宰の高野竜に訊ねたいことはいくつもあったのだけれど、あえて何も聞かずにそのまま帰った。