閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

モントリオールのコリアン

 2023年2月に10年ぶりにケベックに行く。私にとっては2度目のケベックだ。予習もかねて、前から気になっていた韓国ドラマ『トッケビ』をNetflixで見始めた。このドラマの舞台がケベック市なのだ。『トッケビ』を見ていると、10年前にケベックに行ったときに会った韓国人のことを思い出した。以下の文章は2014年に書いたものだ。
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 2013年7月末から8月にかけての3週間、私はケベック州政府が主催するフランス語教授法の研修に参加するため、モントリオールに滞在した。カナダのケベック州の人口は約800万人で、その8割はフランス語話者であり、州の公用語はフランス語である(カナダは州ごとに公用語が定められている)。モントリオールはケベック州最大の都市で、フランス語ではモンレアルと呼ばれる。研修はモントリオール大学で行われ、日本人6名、韓国人3名、ラオス人2名の給費研修生の他、自費参加のケベック人1名、他の州からやってきた英語話者のカナダ人5名が参加していた。研修生はいずれもフランス語教育に携わる人間だったが、教えている対象は大学だけでなく、高校、小学生など様々だった。
 私は韓国映画のファン、とりわけ女優ペ・ドゥナの熱心なファンであり、韓国人指揮者のチョン・ミョンフンを崇拝しているのだけれど、韓国映画やチョン・ミョンフンの音楽を知るはるか前の高校の頃から何となく韓国に興味を持っていて、パリでの留学先でも韓国人と親しくなることが多かった。日本、とりわけネットの世界では、反日や嫌韓がグロテスクに強調されることが多いけれど、私がこれまで知り合った韓国人は、情が厚くて、人なつこい、好奇心旺盛、礼儀正しく、繊細な気遣いがある、はっきり意思表示するといった性質を持っている人が多かった。今回のモントリオール大学の研修で出会った韓国人の先生方も私が持っている韓国人イメージそのままの気持ちのよい人たちばかりで、研修中には数度にわたって一緒に外出し、食事をとった。今回の研修で親しくつきあった韓国人たちのなかでもとりわけ強い印象を残したのは、マリーさんだった。彼女は現在はカナダ国籍なので、正確に言えば韓国系カナダ人ということになる。15年ほど前に夫と子供二人でカナダに移住し、オンタリオ州にあるカナダ最大の都市、トロントに住んでいる。上の子供はもう働いていて、下の子供は高校生だとのこと。マリーさんの年齢はおそらく私と同じくらい、40代半ばかあるいはもうちょっと上ぐらいだと思う。研修ではよく発言し、質問する人だった。教室外で最初に彼女と話したのは、モントリオールの花火大会に出かけたときである。研修の授業中にモントリオールの花火大会の話が出て、そのときに彼女はクラス全員に花火大会へ一緒に出かけないかと提案したのだ。この花火大会には結局、日本人5名(私を含む)、韓国人1名、そしてマリーさんで一緒に行った。花火会場に行く前に、夕食を一緒にとったのだが、そのときの雑談で彼女が15年ほど前に家族でカナダに移住した移民一世であることを知った。
 「カナダへの移住は、大きな決断だったでしょうね?」と尋ねたとき、
 「いいえ。移住を決めたときには、私はそれが大きな決断だとは思っていませんでした」
と彼女はさらりと答えた。夫が移住を決めて、彼女も反対することなくそれに従ったと言う。自分には予想外だったこの返答に私はなぜか感動を覚えた。あとになって平田オリザの『その河をこえて、五月』という演劇作品を思い出した。日韓交流事業の記念公演として2002年に新国立劇場で初演されたこの作品は、ソウルの語学学校を舞台としている。韓国人と在日コリアン、日本人留学生とのコミュニケーションが描かれたこの作品では、当時の韓国の若い世代のカナダ移住について言及されていた。マリーさんがカナダに移住したのはちょうどこの作品が初演された時期と重なっている。
 別の機会にマリーさんに再びカナダ移住について聞いてみた。
 「あなたが移住したころ、韓国の若い世代のあいだでカナダ移住は一種の流行だったのですか?」
 「そう、韓国では不況が続いていたので、カナダへの移住を私たちのように考える人は多かった。私たちは本当はアメリカに行きたかったのだけれど、アメリカはなかなか受け入れてくれそうになかったし」
 「知り合いがカナダにいたのですか?」
 「知り合いは誰一人いませんでした。でも何とかなるだろうと思っていた。実際にはカナダについてからのほうが大変だったけど。とにかく仕事を見つけるまでが本当に大変でした」
 
 失礼な話なのだけれど、実は私は海外移民というと戦前、戦後の日系移民やパリにやってくる中国系、アラブ・アフリカ系移民のイメージが強くて、祖国では恵まれない貧困層の人たちが先進国の大都市に移住して活路を見出すというイメージがあった。もちろん経済的に成功して、裕福な生活を送っていれば、海外移住は考えないと思うのだが、韓国人や香港人のカナダ移住には、私の抱いていたステレオタイプとは異なる背景があるようだ。
 
 マリーさんのフランス語は、他の韓国人とも異なる独特の訛りがあった。英語訛りでもない。ぺたぺたとした独特の響きで、ゆったりとこちらを説得するようなリズムがあって、私はその話し方が好きだった。授業中によく発言する人だったが、その独特の抑揚を持つフランス語を注意して聞いてみると、文法的に非常に正確なフランス語を彼女が話し、かつ語彙も豊かであることに気付いた。彼女はトロントで小学校の低学年の子供にフランス語を教えているというが、そのフランス語には教養が感じられた。
 「あなたのフランス語は私の話すフランス語よりよっぽど正確だし、それに語彙も豊富ですね」
と聞くと、次のような答えが返ってきた。
 「ありがとう。私は大学ではフランス文学を勉強していたのです。大学を出たあとは、日本にもこういった学校はあると思うのだけれど、通訳・翻訳者養成の学校に行っていました」
 「結婚して、子供が生まれてから、フランス語の勉強を10年くらい中断していました。カナダに移住したとき、トロントは英語圏なので、英語を一緒懸命、勉強しましたが、フランス語の勉強も再開しました。私はフランス語のほうが好きなんです。一年ほど前から仕事としてフランス語を教えることができるようになって、本当に嬉しく思っています」
 彼女の夫は経済学の研究者でカナダに移住する前は、大学の非常勤講師だったそうだ。韓国でも大学の常勤ポストを得るのは非常に難しく、それで韓国での研究者としての将来に見切りをつけて、カナダ移住を決意したとのこと。ただカナダでの職探しは想像していた以上に大変で、彼女の夫は現在、郵便局で働いているとのことだった。
 
 研修期間中にモントリオール大学の書店で私は、モントリオール在住の韓国系ケベック人作家であるウーク・チョングの自伝的小説、『コリアン三部作』を偶然手に取った。在日コリアン二世の母を持つ彼は横浜の中華街で生まれたが、2歳のときに家族でカナダのケベック州に移住した。フランス語圏で教育を受けた彼の第一言語はフランス語となり、この小説もフランス語で書かれている。『コリアン三部作』の第二部のタイトルは「キムチ」であり、韓国との繋がりを失った彼が韓国系としてのアイデンティティのよりどころとしているのが家族の食卓に必ず上がっていたキムチであることが記されていた。私はマリーさんに尋ねてみた。
 「キムチはトロントに住む今でも食卓に欠かせないですか?」
 「私と夫にはキムチは不可欠。でも息子たちはそうでもない。なくても平気みたいです」
 「息子さんもフランス語を勉強しているのですか?」
 「上の息子はカナダに来たときには中学生だったので、英語を学ぶのが精一杯でフランス語は全然できない。今、高校生の下の息子はフランス語を勉強しているけれど、あまり熱心には学んでいない。モントリオールにある英語系大学、マギル大学の医学部に入るって言っているけれど、成績から考えると無理だろうな」
 
 韓国からやってきた大学教員に、マリーさんがモントリオールの大学生を指しながら
 「ねえ、韓国の学生たちも今はあんな感じで自由で楽しそうな学生生活を送っているかな? 私たちのころは、受験勉強ばかりで窮屈だった」
と聞いたことがあった。韓国の先生は、
 「韓国は受験も大変だけど、学費も高いから、大学に入っても学生はバイトと勉強で本当に大変よ」
と答えていた。
 
 研修中、韓国人同士は当然韓国語で話をするのだけれど、マリーさんは韓国人に話しかけるときも常にフランス語を使っていた。韓国人の先生もごく自然にフランス語で返す。こうしたやりとりを見ていたので、私は最初のうちはマリーさんが韓国語が不自由な二世ないし三世移民だと思っていた。3週間の研修の全プログラムが終了した日、私は韓国人グループにくっついてモントリオールの町を歩いて名残惜しんだ。マリーさんも一緒にいた。
 マリーさんはそれまで韓国人ともずっとフランス語で話していたのだけれど、最後の夜の食事をベトナム料理屋で取っていたとき、気が抜けたのか韓国人グループは韓国語で雑談をはじめ、マリーさんも韓国語で会話していた。研修の全プログラムが終わった解放感と疲労で私はぼーっとしながら、韓国語の会話の音を聞いていた。マリーさんが後で気を使って
 「ミキオ、ごめん。私たちはカナダのチップの習慣について話していたんだ。私は実はチップについては多く取りすぎだと感じている」
 とフランス語で説明してくれた。

2022/12/25 平原演劇祭2022第23部 #ロシア周辺ナイト

  • 日時:2022年12月25日(日)17時-19時半
  • 場所:目黒区烏森住区センター調理室
  • 演目:「わらのうし」 「天窓の麻」 「酋長の子」 ゼアマ(モルドバ料理)「ねむりながらゆすれ」
  • 出演:高野、ひなた、青木祥子、吉水恭子_____________________________________

平原演劇祭は高野竜個人によって企画・実現される芸能のようなものだ。いや芸能というよりは、前に既に書いたかもしれないが、小学校などで非公式の学校行事としてクラスで行われる「お楽しみ会」を私は想起する。「お楽しみ会」と言うと高野竜はもしかするとあまり愉快ではないかもしれないが。しかし日本の学校文化そのものに芸能的な性質があるのかもしれない。

  • 新型コロナ流行以降、平原演劇祭の開催はそれまでより頻繁になったが、とりわけ昨年末に高野が崖転落事故で脳挫傷の重症を負って以来、この2022年は二週間に一度のペースで公演を行っているのだから尋常ではない。ときに昏倒し、ときに嘔吐しても、高野はこの異常なペースでの公演に固執している。twitterでしばしば高野自身がつぶやいているが、高野は自分の活動期間がもうそれほど長くないことを覚悟しているのだ。2022年にはさらに大晦日に「まつもうで」演劇が予告されている。
  • 今回は水道橋の宝生能楽堂で能「キリストの復活」を見ていたため、平原演劇祭2022第23部の会場に着いたのは17時半だった。今回の上演はすべて一人語りだ。高野は数日前まで入院中だし、入院していないときもへばっていることが多いということで、高野から作品を割り振られた出演者がそれぞれ一人で稽古したものが上演された。高野が朗読したらしい最初の演目「わらのうし」は既に終わっていて、ひなたによる「天窓の麻」が上演中だった。
  • 「天窓の麻」は、『アラル海鳥瞰図』のなかの一エピソードだ。突然家を訪問してきた見知らぬ若い男性に、麻の苗を託された女性の語りだ。2019年11月に寒風にさらされる工場の廃墟のような場所で『アラル海鳥瞰図』が上演されたとき、「天空の麻」を演じていたのは誰だったか、思い出せない。ほぼ野外と言っていい2019年の上演のときと、屋内でひなたが演じるこの作品の雰囲気はまったく異なるものだった。

  • 黄昏時のような薄いオレンジの光に照らされて語るひなたが語る「天空の麻」は柔らかで穏やかに感じられた。「天空の麻」の語りが終わると、青木祥子がそのままシームレスに中央に現れて次の作品「酋長の子」を語り始めた。

  • 「酋長の子」は北海道出身の作家、長見義三(おさみぎぞう)によるアイヌの荒くれ者を主人公とする短編小説だ。この小説の内容はどういうわけか頭に残っていない。アイヌが「ロシア周辺ナイト」のテーマとどう関わっているのかも私にはわからなかった。

  • 「酋長の子」のあとは、食事タイムとなった。モルドヴァ料理のゼアマが振る舞われた。
  • ゼアマは鶏の手羽先と「もみじ」と呼ばれる脚先をぐつぐつと煮込み、そこに大量のレモン汁を注ぐ、というシンプルな料理だ。塩で味付けもしない。臭みは全然なかった。鶏から出るだしとレモン汁だけで、けっこういける。もっとも私はやはりちょっと塩を入れたくなった。そしてディルを散らすと見栄えも香りもよくなる。このゼアマは参席者はみな気に入ったようで、すぐになくなってしまった。
  • ゼアマの食事会のあとは、吉水恭子による「ねむりながらゆすれ」がはじまった。今回上演された戯曲ではこの作品が一番長かった。40分ぐらいあったように思う。モルドヴァで生まれ、その後、モルドヴァとロシアの支援のもとモルドヴァから独立しようとした沿ドニエストル共和国との戦争に巻き込まれ、どういう経緯か日本にたどり着き、その後、ウクライナでの農業事業に携わることになった女性の半世紀だ。四つの場面で構成される。
  • この作品はこれまで何度か私は見ている。最初に見たときは、トランスリトアニア戦争や沿ドニエストル共和国の存在を知らなかったし、各場でいったい何が起こっているのかまったく意味不明だった。今回はようやくすべてのエピソードがつながり、さまざまな苦難を経て、最後に故郷の黒土で幼少期の平安を取り戻す女性の姿が浮かび上がってきた。吉水恭子の語りは、各局面の主人公の年齢や状況、語りのテキストの性格の違いを、丁寧に語り分け、一人の人物を組み立てていた。
  • 観客は7名だったらしい。穏やかで仲間内の親密な空気に満ちたクリスマスの夜のイベントだった。

2022/1227 ちんどん通信社2022年 年末特別公演@大阪風竜座

名古屋の大須大道町人祭でこれまで三回見て、そのパフォーマンスに魅了されたちんどん通信社の年末特別公演を見に行った。ちんどん通信社の活動拠点は大阪なので、普段見に行く機会がない。ちょうど帰省するタイミングで今回の公演があったのだ。
会場は大阪市南東部の平野区出戸(でと)にある大衆演劇劇場の大阪風竜座。この9月にオープンしたばかりの新しい劇場だ。

最寄り駅の大阪地下鉄谷町線出戸駅の周辺は、薄汚れた小さめのイオンが駅そばにあるだけの特徴の乏しい殺風景な郊外だった。ごはんを食べる場所もイオンのなかにしかない。昼ご飯はイオン地下の閉塞感のあるフードコートにあったたこ焼き屋がランチメニューで出しているからあげ定食を食べた。これが思いのほか素晴らしいからあげ定食で、満足度が高かった。
2個増量150円とあったので、つい増量してしまったのだが、相当のボリュームとなった。
 今回のちんどん通信社公演は大阪風竜座を拠点とする森川劇団座長や通信社のメンバーではないミュージシャンなどとのコラボ公演となあっていた。



洒脱でユーモラスな楽しいアレンジが施された名曲のちんどんによる演奏、ゲストの青木美香子の朗々たる歌唱、大衆演劇舞踊、そして水戸黄門劇で構成された休憩込み二時間半の濃密なバラエティー・ショー。大衆芸能研究の第一人者で、自身大衆演劇役者でもある鵜飼正樹もゲスト出演していた。
客席は100席ほどだったが、ほぼ満席。高齢者多め。関西の観客はひとなっつこく、のりもいい。舞台と客席の相互作用で作る雰囲気も心地良かった。進行も適度にダラダラと緩い。その緩やかさが実にいい感じだ。



ちんどん通信社は1980年代から活動している。座頭の林幸治郎が立命館大学のジャズ研にいたときに始めたとどこかで読んだ古都がある。林幸治郎はもういい感じのおやじ、じじいになっていて、その渋い風貌とすっとぼけた感じが、実にかっこいい。芸人っぽい味わいがある。
こういうちんどんのパフォーマンスは見ていると元気が出る。

夜行バスで寝不足状態で見に行ったのだが、見に行ってよかった。楽しかった。

2022/12/11 平原演劇祭第22部 #分水界演劇 @大島新田関枠

上演作品:「逃(タオ)」「安戸ロゼッタ」(作:高野竜)

出演:栗栖のあ、北條

場所:

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先週に続き平原演劇祭である。先週は屋内公演だったが、今回は野外劇公演だった。

「逃(タオ)」は本来は2023年11月23日に上演されるはずの演目だったが、雨天のため、公演が順延され今日になった。この演目は2021年10月31日に岩槻市の遊水地で上演されたが、このときは私は見に行けなかった。今回は埼玉県東部の杉戸町と幸手(さって)市の境をなす倉松川にある大島新田関枠が公演会場となった。

平原演劇祭主宰の高野の体調がこのところとりわけ思わしくないようで、今回の第22部についてはいつも以上に事前告知が不十分だった。私は出演者の栗栖のあのtwitter告知で、公演前日の夜に集合時刻と場所を確認した。東武動物公園駅東口のバス停を11時半に出発するバスに乗らなくてはならないらしい。

11時20分ごろに東武動物公園駅に到着し、バス停のある東口に降りたが平原演劇祭関係者らしい人は誰もいない。11時25分ごろに高野竜がよろよろと現れた。昨週の#神曲 第二部読み合わせ以降、食事もろくにとれない状態で家に伏せっていたが、なんとか立ち上がって歩けるようになったと前日夜にツィートしていた。バス停に停車していたバスに高野と一緒に乗り込む。「今日は日曜だから10分ぐらいで着いてしまうかもしれない」と高野は言う。バスに乗り込んだ平原演劇祭の観客は私以外にもう一人いた。
櫛ヶ浜やぎ(@kusigahama)氏だ。twitterで私と相互フォローなので、おそらく平原演劇祭で私とつながったのだと思う。

高野からはどのバス停で降りるのか聞いていなかった。バスが出発してから5分ほどたった頃、水田の広がる平地のただなかで高野がゆらりと手を挙げた。Google mapを見ていたのだが、公演場所とされている「大島新田関枠」からはかなり離れた場所だ。こんなところで降りて大島新田関枠まで歩くのだったら、バスに乗らず最初から歩いて大島新田関枠まで行けばよかったではないかとちらっと思った。

 バス停の名前は「沼」だった。文字通り、江戸時代には沼だった場所で治水灌漑事業により新田となったらしい。このバス停で降りたのは竜さんと私と櫛ヶ浜やぎ氏の三名、つまり平原演劇祭関係者だけだ。いきなりバス停にあったベンチにうずくまり、竜さんが吐きはじめた。車酔いなのかと思ったが、そうではないらしい。だいたいバスに乗ったのはほんの5分ほど、しかも平坦な道だ。どんな車に弱い子どもでも車酔いしないだろう。竜さんは3、4回吐いたあと、しばらくぐったりとしていた。

「逆流性食道炎です」と竜さんは説明したが、そもそもここしばらく彼はほとんど食事をしていないとツィートしていたのに。いずれにせよ体調はものすごく悪いのだが、無理してやって来ているのだろう。息絶え絶えというかんじの竜さんから、「これ、今日の芝居」とできたての台本を渡された。漢字がやたらと多い。このあたりの地誌に取材した作品のようだ。今日の公演のために書かれた新作「安戸ロゼッタ」はしかし、結局、この日上演されることはなかった。

 竜さんは10分ほどベンチにへたりこんで、ちょっと元気を取り戻したらしい。立ち上がってかつてかなり大きな沼だったこのあたりの地誌について説明しはじめた。かつて沼だったこのあたりは役所が配布した増水時ハザードマップでは付近一帯が真っ赤になっている。どこに住んでも増水時はアウトという地域らしい。

「沼」を少し南下して、幸手市(さってし)から杉戸町に入り、かつては沼の中心部であったであろう大島新田調整池を左手にみながら、劇の上演会場であるらしい大島新田関枠にぶらぶらと歩いて向かった。真っ平らな田圃が周囲に広がっている。竜さんはやはり弱っているためか、歩いてる最中はあまり話さなかった。竜さんがバテているので、歩く速度がゆっくりになるのが私としてはありがたい。ガイドが夏水だったりすると、デブの親父の歩行速度に対する気づかいなく、「着いてこれる者だけ着いてきな」って感じでとっとことっとこ行軍していくので。

 衰弱した竜さんがガイドだと、行軍ではなく、ゆらゆらと徘徊という感じである。沼から大島新田関枠までは1.5キロほどだったようだが、ここを30分ぐらいかけてゆっくり歩いた。広々として気持ちはいいが、あまり詩的とはいえない散文的な田舎の風景だ。途中、中年女性が池を見ながら佇んでいた。やはり平原演劇関係者、竜さんの奥さんのMKさんだった。

 大島新田関枠に到着するころには雲が多くなり、薄暗くなった。気温もぐっと下がる。関枠とは「筧かけいの短いもので横が広く、開戸二枚あるもの。用水、分水などの所にかけて、水をはかり引き分けるのに用いる」(日国精選版)とのこと。ここでは倉松川と旧倉松落の分岐点なのだが、その流れ方が逆流しているのが非常に特異らしい、竜さんの説明によると。関枠のそばに大きな石碑があり、そこにいろいろ書かれているらしい。ちなみに分水界とは「地上に降った雨が二つ以上の水系に分かれる境界」(日国精選版)。

 私、竜さん、櫛ヶ浜やぎさん、MKさんが関枠に到着すると、この寒々とした風景の中で私たちを待っていた栗栖のあとほうじょうがおもむろに芝居をはじめた。この分水界を、太平洋岸のカナダとアメリカの国境で、アメリカの飛び地領土であるポイントロバーツに見立てている。高野竜さんは飛び地が好きだ。国境線上にある橋の上のカナダ側とアメリカ側に若い男と女がいる。この二人の会話劇だ。

 上演時間は20分ほどだったと思う。しかし内容がさっぱり頭に入って来ない。荒涼とした場所のインパクトと俳優の存在感はあったのだけれど。竜さんの芝居の上演はたいていそうで、同じ戯曲を3回ぐらいみてようやくどんな物語なのかわかる。ちなみに上演された「逃(タオ)」の脚本はここにアップロードされている。

 台本を読んでみたが、やはりよくわからない。現地で見てわからないのは仕方ないような気がした。公演場所に近づいて、橋の上で佇む栗栖のあが見えたとき、高野さんの奥さんのMKさんが「あ、中森明菜みたいな人がいる!」と言ったのが印象に残っている。確かに中森明菜っぽい。昭和の歌謡曲の歌詞が演劇化されたような上演だった。結末は男女が別れ、川岸を別々のほうに歩いてく。延々と見えなくなるまで歩いて入った。

 上演終了後、関枠のそばにあった石碑の内容について竜さんがレクチャーをはじめたが、寒くてこれもあまり頭に入らなかった。石碑が暖かいというので、みなが石碑の周りに集まって、石碑に触って暖を取った。確かに少し暖かいような気がする。

石碑に群がる人たち。櫛ヶ浜さんが撮った写真。

 ここで竜さんが「15分ほどトイレ休憩しましょう」と言う。新作「安戸ロゼッタ」がそういえばまだ上演されていなかった。歩いて10分ほどところに公園があり、そこに公衆トイレがあった。公園の一部はネコのコミューンになっていて、数匹の猫がいた。トイレをすませたあと、ネコとしばらく遊んで、芝居の再開を待つ。

 しかし竜さんがなかなか姿を見せない。20分ほどたったころだろうか、それまでどこにいたか分からなかった竜さんが現れ、「あの。今日は体調がダメなんで。これで公演は終わりにします」と言う。竜さんが自らこんなことを言うのを聞いたのは初めて聞いた。自分で相当危ない状態だと思ったのだろう。

 もうろうとした感じの竜さんはひとまずその場に残し、MKさんの車で私、櫛ヶ浜さん、のあ、ほうじょうは駅まで送って貰う。竜さんはそのあと、入院したことを、帰宅後、竜さんのツィートで知った。この日はバス停降りた時点で嘔吐していたときから、ずっと体調はひどく悪そうだったが、入院までいってしまうとは。さすがに心配になったが、幸い、竜さんの体調は数日で回復し、家に戻った。

 寂しくぼんやりとした平原演劇祭、トラブルで終わった平原演劇祭であったが、こういう平原演劇祭もまた味わい深いものだ。

 

 

2022/12/25 ホイヴェルス作『復活のキリスト』他@宝生能楽堂

日本全国能楽キャラバン! 宝生流東京公演

  1. 能「隅田川」
  2. 狂言「十字架」
  3. 能「復活のキリスト」

2022年12月25日13時-14時半@宝生能楽堂

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イエズス会の宣教師として1923年に来日して以後、1977年に死ぬまで日本で過ごしたホイヴェルス師(1890-1977)は多数の日本語戯曲を残している。

ホイヴェルス作の新作能「復活のキリスト」はWikipediaによれば1957年に初演され、その後62年と63年に東京で上演されている。63年の上演のあとは、久しく上演が途絶えていたが、2017年6月23−24日にバチカンのカンチェレリア宮殿で上演され、昨年、金沢の石川能楽堂でも上演された。東京での上演は、1963年以来、およそ50年ぶりとなる。

今回の復活上演にあたっての宝生和英のインタビューが以下のリンクにある。

www.nohgaku.or.jp

今回の上演では「復活のキリスト」に併せて、ホイヴェルスの「復活キリスト」の着想を得たと言う能『隅田川』と福音書のエピソードに基づく狂言『十字架』(ホイヴェルスと九世三宅藤九郎作)も上演された。

ホイヴェルスは能『隅田川』を見て深い感銘を受けたそうだ。当日パンフレットにある李聖一神父の文章によると、遠く離れた東国で死んだ息子の塚を訪れる狂女の母と処刑されたイエスの遺体を見舞いに墓所を訪れるマグダラのマリアの姿が重なったのだろう、と言う。『隅田川』では作り物の塚のなかにずっと身を潜めている子供の霊が、最後の最後に母の「南無阿弥陀仏」の声に、その作り物のなかからまず声だけで「南無阿弥陀仏」と応えたのち、短い時間すっと白装束の姿を現す場面がたまらなく美しい。その最後に至るまでが、長くて、しかも何を言っているのかよくわからないので、ひたすら眠くて退屈なのだが。

「復活のキリスト」ではマリア(この戯曲ではヤコブの母マリアとマグダラのマリア)の呼びかけに、復活したイエスが神としてその姿を見せるのだから、それは歓喜の場面となるはずなのだが、『隅田川』の結末の余韻と能の厳かな様式で演じられることで、はじけるような歓喜ではなく、神の出現に立ち会うときに思わずひれ伏してしまうような荘厳な畏れ、圧倒され、突き放されるような緊張感を感じさせた。2017年のバチカンでの公演で、イタリアの観客がこの聖書劇をどのように受け止め、どんな評が出たのか気になるところだ。

能による聖書劇の題材として、ホイヴェルスがイエスの復活のエピソードを選択したことも私にとっては興味深かった。というのも「復活のキリスト」で演じられる場面は、九世紀から一六世紀にかけて西ヨーロッパ各地の教会で聖職者たちによって演じられてきた典礼劇で最もよく取りあげられる場面だからだ。

現存する典礼劇約600編のうち、400編が「聖墓訪問」Visitatio sepulchri というこの場を演劇化したもので、その大半は復活祭の早朝の朝課の最後に上演されたと考えられている。

典礼劇はラテン語による歌唱劇で、演技者である聖職者たちが行うべき所作はしばしばト書きに詳しく指定されており、形式的に能と共通点がある。

イエスの復活はキリスト教の教義上、最も重要なエピソードなので、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書すべてに「聖墓訪問」は記述されている。ただキリスト教的には最重要であるはずのイエスの復活は、聖書では墓所を訪ねるマリア(聖書では2人ないし3人のマリア)が、安置されているはずのイエスの遺体が墓所に不在であることによってイエスの復活を知るという逆説的な記述なのが面白い。

墓所を訪ねてきたマリア(たち)に、墓守のように墓所に待機していた天使たちが「おまえたちは誰を探しに来たのだ?」Quem quaeritis ? と問いかけるところから、西ヨーロッパにおける演劇の歴史は始まる。福音書によってイエスがマリアたちの前に現れることもあれば、不在のままのときもある。

 

イエスが散々苦しんだ挙げ句、処刑される受難 Passion の場と比べると、復活の描写はドラマとしてはインパクトが弱いのだが、典礼劇の主題として受難の場面が扱われたものはない。残存する典礼劇の半分以上は、復活のエピソードを扱っている。受難の場面は、俗語(フランス語など)で書かれ、町の広場で町の住民たちによって上演された大規模な聖史劇・受難劇で好んで取りあげられた。

一度死んだ人間が、神となって生き返る、姿を現すという超自然的な、そしてキリスト教の教義の根幹に関わるきわめて象徴的な場なので、復活劇はリアリズムではなく、能のような高度に様式化された手法で上演されるのがふさわしい。おそらく聖職者たちが演じた典礼劇の上演も様式的だったはずだ。能の様式性がもたらす荘厳さは、聖書や典礼劇の復活の霊性を表現するのにいかにもふさわしいように感じられた。ホイヴェルス神父が、能による「キリストの復活」を着想するにあたって、中世の典礼劇も参照していた可能性もあるのではないだろうか。

狂言《十字架》も聖書のなかにある信心深い漁師とそうでない漁師のエピソードを劇化したものだが、海上に現れる十字架を役者が演じるという趣向が面白かった。中世フランスのファルスを翻案した狂言としては飯沢匡の《濯ぎ川》があるが、《十字架》にもファルスの味わいがあった。中世フランスのファルスは現代ではフランスでも上演される機会は滅多にないが、狂言《十字架》は、ファルスが狂言の様式によって変換されることで、現代劇として成立しうる可能性を示していた。ダリオ・フォの《滑稽聖史劇》には中世の聖史劇・受難劇に取材したシリアスな場とファルス的な笑いの場が交錯しているが、その中の一篇、「盲人といざりの劇」は狂言形式の上演がおそらくはまるだろう。「盲人と伊いざりのファルス」は以下のような話しである。物乞いで生計をたたてていた盲人といざりは、イエスに出会ってしまうと奇跡がおこって、健常者となり物乞いができなくなるので、イエスから逃げ回る。

能・狂言による翻案によって、典礼劇、ファルスという中世ヨーロッパの演劇の上演形態、その上演可能性を想起させる観劇体験となった。

2022/12/04 平原演劇祭2022第21部 #神曲2022@目黒区駒場住区センター

平原演劇祭2022第21部 #神曲2022

 2022年最初に開催された平原演劇祭が高野竜が20年以上前に書いた大作戯曲『神曲』の第一部の読み合わせ会だった。

otium.hateblo.jp

 今回、平原演劇祭2022第21部(!)では、『神曲』三部作の第二部「テンペルホフ」を読んだ。参加者は13、4名。登場人物が全部で30名近くいるので、全員に役が振り当てられた。開始は17時過ぎで、途中休憩をはさみ読み終えたのは19時半過ぎだった。

 主宰の高野竜が今日も意識はあったものの、ヘロヘロの状態だった。読み合わせ中もうつらうつらしている時間があったようだ。かなり長い戯曲なのでさっさと読み始めなければ、住区センターの退室時間になってしまうのでは、という懸念があったのだが、高野はぼんやりしていて進行を仕切って進められるような感じではない。なので私が強引に役の振り分けを仕切り、読見合わせを始めた。

  昨年末の崖転落による脳挫傷以来、高野竜の状態はすこぶる不安定だ。こんな状態で野外公演を含み、今年21回も公演を行っているのだから常軌を逸している。おそらく高野は自身の健康状態を思うと、今後長きにわたって自分が演劇活動を継続できるとは考えていないのだろう。だからこそ公演がこんな異常なペースで行われているのだ。

 

 平原演劇祭の主な開催告知の手段は、twitter(@heigenfes)だ。高野の調子がいいときには、note(平原演劇祭 heigenfes|note)に開催告知が掲載されることがある。今回の神曲第2部本読みはnoteに告知がなく、twitterでの告知もあまり活発にされていなかったので、いったい何人の観客/参加者が集まるのだろうかとちょっと心配していたのだが、当日は13、4名の思いのほか多くの参加者がいた。しかもみな、初見で戯曲を読んでいるにもかかわらず、「えっ!?」と驚くような読み巧者が集まっていた。

 

[撮影:ぼのぼのさん(@masato009)]

 『神曲』は20年以上前に高野が書いた戯曲ということで、近年の彼の地誌戯曲とは文体や雰囲気がかなり異なる。高野さん特有の壮大な地理感覚、時間感覚を味わうことができる伝奇的ロマンで、そのユーモラスな饒舌体の台詞には、唐十郎、あるいはフェリーニを連想させるような濃厚な詩情が感じられる。言葉のやりとりから風景が思い浮かぶ。今回は私はこの場の主役といっていい重要な役柄を充てらたので、高野の劇詩の楽しさと美しさを演者として堪能することができた。途中、合唱の場面などもあり、参加者全員で盛り上がって、戯曲の世界を楽しむことができたように思う。

 平原演劇祭には、自分が小学生のころ、学校のクラスでやっていたお楽しみ会という行事の雰囲気も連想することがある。演者/観客が対峙するのではなく、作品を通してそこに居る者たちが一時の非日常の時空を共有し、つかのまのユートピア的共同体が形成されるような。ささやかな会合・公演であるが、その時空の充実感・幸福感は独特のものだ。

 今日は終了後、参加者で集合写真を撮影した。高野さんは真ん中で好々爺のようにちょこんと座っている。確かにこの写真が伝えるような、レトロでノスタルジックな時間を楽しむことができた読む会だった。

[撮影:ぼのぼのさん(@masato009)]

togetter.com

 

2022/10/10 五百旗頭幸男監督『裸のムラ』@ポレポレ東中野

5月に石川県小松市の曳山子供歌舞伎と大衆演劇劇場、金沢おぐら座での森本商店街一座を見に行ったのだが、この両方に石川県知事の馳浩が来て、挨拶をしていた。小松の子供歌舞伎はともかく、金沢おぐら座の商店街素人演劇は内輪の公演に思えたのだが、こうした小さなイベントにまで県知事が来るのに驚いた。保守王国である石川県における保守系政治家と地域社会および地域芸能の関わりについて知っておいたほうがいいように思い、『裸のムラ』を見に行くことした。実際には思っていたのとはかなり異なった内容のドキュメンタリーだった。
 
主に三つの対象が追いかけられている。一つ目は7期にわたって知事を務めた前石川県知事の谷本正憲から現知事の馳浩の当選に至る石川県知事選の流れ。選挙にあたって支持を固めるにあたっての二人の政治家、とりわけ前谷本知事のなりふり構わない精力的な動きと振る舞いを追いかけていく。選挙におけるストレスフルな政治的駆け引きの様子が記録されている。
 
あとの二つは石川県に在住する市民を追いかけているが、この二つの対象は市民としてはかなり例外的なマイノリティである。ひとつはインドネシア人の妻と日本人夫、子供三人の敬虔なムスリムの家族。一日五回の礼拝や女性のヒジャブ着用など、生活様式と深くむすびついた日本、それも地方に居住するイスラム家族が、マイノリティゆえに向き合わなくてはならない面倒くささ、やっかいごとが映し出される。
 
もう一つの対象は、定住所を持たず車での移動生活を続ける二組のバンライファー家族である。そのうち一組は定職を辞し、貯金を食い潰しながら無職のまま、夫婦でバンライファー生活を続けるアファフィフの夫婦。もう一組は夫婦と小学生の娘、そして映画の最後のほうで女の子の子供をが生まれ、4人家族となるバンライファー世帯である。この世帯の夫は、脱サラし、フリーランスでさまざまな社の広報を担当して生計を立てている。
 
マイノリティでかなり規格外の生き方を選択した「市民」たちと選挙活動を意識した政治家の勢力的な動きは、バラバラのテーマに思えるのだが、見ているうちに、この非正規的家族の生活の背景として石川県知事の政治運動がつながっていくように思えてきた。
 
監督がこの三つの対象で浮かび上がらせようとしているテーマは、日本社会、石川の保守的社会における男性中心主義への批判であるように思えた。ところで選挙活動といえば、特に保守系議員の選挙活動では、家族の絆を強調し、内助の功たる妻の存在を強調し、選挙運動に利用することが多いように思うのだが、谷本正憲も馳浩のいずれもその選挙運動のなかで配偶者が登場していないことが意外だ(馳浩の選挙運動には娘が、無理矢理といった感じで登場させられえていたが)。馳浩の妻は、タレントの高見恭子なので、彼女が選挙運動に協力すればかなり強力のはずだが。
 
三種類の対象のいずれにも、監督の態度は共感的とはいえない。どこか突き放して、カメラを向けているような感じがある。この三者の不全ぶりをむしろカメラのまえにさらし、提示しようとしているように思えた。監督がおそらく肯定的に捉えている人物は、イスラム教一家のインドネシア人の妻だろう。明晰さと高い日本語能力、そして異邦人として生きるのに必要な強かさを持つ彼女の言葉は、日本社会のみならず、敬虔なイスラム教徒となった自分の夫に対してもどこか辛辣な批判が含まれているように感じる。
 
リベラルに見えて、実は父権主義的なバイライファーの父親に対して、特にこの父親が溺愛する娘に対する姿勢について、監督は批判的なのだが、私としては能力は高いものの、その生き方の不器用さゆえに、世間に対しても、家族に対しても、スマートに振る舞うことができないこの若い父親には同情してしまうところがあった。彼は彼なりに一所懸命に生きているし、努力もしている。妻と娘のことも大切に思っている。でも必ずしもしっくりいっていない。この父親のもがきぶりをカメラは冷徹に映し出していた。
 
石川県という場所を除いては、直接的なつながりはなさそうな三つのテーマが雑然と並んでいるかのようなとらえどころのないドキュメンタリー映画だったであり、そこで監督が伝える「男性中心主義」というメッセージも後からとってつけたようなラベルにすぎないような気がしたのだが、振り返ってみるとそのちぐはぐさのなかに、やはりなにかつながりが感じられる。上映中はどちらに向かっていくのかわからないまま見ていたが、退屈を感じることはなかった。

2022/09/18 のあんじー 移動劇『夜を旅した女』@路地裏の舞台にようこそ2022

のあんじー – 路地裏の舞台にようこそ 2022

#股旅KO演劇

 20代前半女性二人の演劇ユニット、のあんじーによる野外移動劇『夜を旅した女』は、今年私がこれまでに見た演劇公演のなかでもっとも強烈な演劇体験だった。大阪府西成区あいりん地区、昭和の時代に取り残されたようなレトロな下町をのあんじーが切り裂いていく。数十名の観客を引き連れて、異装の二人組の女子が、規格外の発想で、釜ヶ崎の風景を情念の物語の舞台に塗り替えていった。

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2022/09/10, 24 劇団サム『楽屋』『スモーキーな放課後』@練馬区生涯学習センター

劇団サム第7回公演復活公演

『スモーキーな放課後』

  • 作:北村美玖
  • 出演:尾又光俊、小澤翔太

 『楽屋─流れ去るものはやがてなつかしき─』

  • 作:清水邦夫
  • 出演:今泉古乃美、石附優香、岩崎かのん、清水舞花
  • 演出・主宰:田代卓
  • 会場:練馬区生涯学習センター
  • 日時:2022年9月10日(土)/24日(土)

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 石神井東中学校演劇部OB・OGたちによる劇団、劇団サムの第7回の「復活公演」である。清水邦夫『楽屋』をメイン演目とする第7回公演は7月29・30日に行われるはずだった。現役の石神井東中学校演劇部の公演と合わせて、7月29・30日に公演は行われたのだったが、『楽屋』の出演者に新型コロナ感染者が出てしまったため、メイン演目の『楽屋』だけがこの両日の公演では上演されなかったのだ。なお7月29日の公演についてはこのブログにレポートを残している。

otium.hateblo.jp

 この7月8月の新型コロナ第7波ではこれまで以上に感染者が多かったため、多くの公演が中止に追い込まれた。プロにせよ、アマチュアにせよ、公演のためには多大な時間と労力(そしてお金も)を投入しているはずなので、公演中止のダメージの大きさは想像するに余りある。新型コロナ禍のなかで公演のモチベーションを維持することができなくて、活動休止状態に追い込まれた団体も多いはずだ。

 劇団サムもまたこの二年間、新型コロナに翻弄された。2021年1月に行われる予定だった第6回公演は上演日直前に緊急事態宣言が発令され上演中止となり、映像配信だけになった。21年4月にはその代替公演として少人数キャストの特別公演が行われた。

otium.hateblo.jp

 先月末の公演は久々の本公演のはずだったのだけれど、メイン演目の『楽屋』のキャストに新型コロナ感染者が出たため、この演目だけ上演されなかった。一ヶ月ちょっとで幻となった公演が復活できたのは何よりだった。あまり長い期間が空くと、公演準備に必要なモチベーションの回復が難しかったかもしれない。復活公演は9/10(土)と9/24(土)の二日間行われた。公演日の間隔があいてしまったのは、会場が確保出来なかったからのようだ。9/10(土)だけを見るつもりだったが、客席にめがねを置き忘れてしまい、そのめがねの受け取りも兼ねて、9/24(土)の公演も見ることにした。私の体調の問題もあったかもしれないが、二回目の公演のほうが両演目とも出来がよかったように思う。二回見てよかった。

 最初に上演されたのは北村美玖作『スモーキーな放課後』だった。7/29に劇団サムが上演したコント『ひがいしゃのかい』と同じ作者の作品だ。上演時間は30分ほど。登場人物は高校生の男の子が二人。めがねをかけたクールな雰囲気の男の子はは喫煙がばれてしまったため、放課後居残りを命じられ、反省文を書かされている。もう一人の男の子は、甘えん坊の話し方でおどおどした感じだ。彼がなぜ放課後居残りしているのかはよくわからない。二人は最初は互いの名前も知らず、面識がなかったようなのだが、なぜか片方の男の子がもう片方の男の子にいきなり愛の告白をする場面からはじまる。唐突なはじまりかたとかみ合わない二人の会話から、最初のうちは別役実風の不条理コントかなと思った。しかしおどおどした男の子は高校生活になじめない不登校学生だったことが明らかになる。退学・転校を考え、放課後の学校にやってきたときに、偶然、喫煙で放課後居残りを命じられためがねの男の子と同じ教室で待機することになったのだ。そしてこの不登校の男の子は、以前からひそかにめがねの男の子のことが好きだったらしい。放課後居残りの時間のぎごちない会話を経て、二人は仲良くなっていく。切なく、繊細な男の子同士の恋を描いた好編だった。展開は不自然なところがあるが、めがね高校生のクールな態度と不登校高校生のおどおどした人のよさげな雰囲気の対比がうまく表現できていた。10日の上演では台詞が飛んだところがあり芝居のリズムが乱れたが、24日の公演はきっちり修正され、台詞のタイミングとリズムがよくなっていた。

 清水邦夫の『楽屋』は、日本のバックステージものの傑作であり、上演される機会が非常に多い作品だが、中学演劇部を母胎とするアマチュア演劇の劇団であり、俳優の年齢層も20代半ばまでに固まっている劇団サムが『楽屋』をとりあげるというのはかなり思い切った挑戦に私には思えた。『楽屋』はいわゆる学校劇的な作品ではない。『楽屋』が上演演目として選ばれたのには、登場人物が4名だからというのもあったらしい。新型コロナ流行のせいで、大人数が集まる芝居では感染のリスクが大きいため、7月の上演演目も含め、今回は少人数キャストの作品が選択されている。

 これまで劇団サムで上演される作品は、中学・高校演劇で上演されてきた作品がが多く、そうした「学校演劇」を学校劇活動でないところで敢えて上演し続けているところに劇団サムの特長がある。主宰の田代卓がもともと石神井東中学校演劇部の顧問だったこともあり、劇団サムは延長・拡大された「中学」演劇の雰囲気があったのだ。もちろん卒業後も演劇を続けていきたいというOBOGが集っているわけだし、公演が重ねられるにつれ、メンバーの成長とともに、芝居の精度は上がり、演技は洗練されたものにはなってきていたが。これまで上演してきた「学校劇」的作品とはテイストが異なる『楽屋』の上演ということで、劇団サムの女優4名がどのようにこの作品に挑戦していくのか楽しみにしていた。

 まず本編の芝居が始まるまえに幕前の前説で二人の俳優が、劇中で何回も言及され、部分的に上演されるチェーホフ『かもめ』の内容の説明を行った。俳優たちのみならず、劇団サムの観客もこうした種の芝居に慣れていないので、親しみやすく、明るい雰囲気でこうした前説を導入に入れる工夫は効果的だったはずだ。いきなり『楽屋』が始まってしまうと、多くの観客は芝居に入っていくのに戸惑いがあったかもしれない。幕が開くと、下手に化粧机が一台、その横に大鏡(ただし鏡の本体は入っていなくて、木製の外枠のみ)、上手側に化粧机二台が、舞台前方に横一列に並んでいた。舞台奥は下手側の一段高くなったところに衣装掛け、中央部にはソファと小机があり、小机の上には可愛らしいかもめのぬいぐるみが置いてあった。

 舞台上手の二台の化粧台では、上手側から和装で額に大きなあざがある女優と血の付いた包帯を首に巻いている女優がずっとメイクをしている。実際の舞台では主要な役を演じることがなかったこの二人の女優は、死後は亡霊となってこの楽屋にあらわれ、メイクをしながら、この楽屋で出演に備える『かもめ』のニーナを演じる女優を毒づき、呪っている。

 どちらかというと『楽屋』は演技力に覚えのある新劇女優が演じるというイメージがある。劇団サムの俳優4名の芝居には、丁寧に戯曲を読み込み、それぞれが自分の役柄のキャラクターをどう表現するのか考え抜かれた様子をうかがうことができた。

 まずニーナの役柄を舞台で演じることになった女優Cを演じた岩崎かのんの芝居に冒頭から引き込まれる。思わず「おおっ、やるじゃん」と心のなかで声が出た。岩崎はふわっとした手の動きと柔軟な身体の表現が優雅で美しい。台詞の発声も明瞭でよく通った。主要な役柄を演じる女優の高慢な性格の悪さの表現の巧みさにも感心した。

 亡霊女優の今泉古乃美と石附優花も、実際には二人ともまだ若いのにもかかわらず、ベテラン女優っぽい風格が感じられた。生前には端役かプロンプターだった二人の女優の屈折ぶりや演技力が問われる劇中劇での『かもめ』、『三人姉妹』『マクベス』、『斬られの仙太』など有名な劇の引用場面の見せ場もきっちり作られていた。

 入院先の精神病院から枕を抱いて登場し、ニーナ役の交代を迫る女優Dを演じた清水舞花は、女優本人が持っている雰囲気と役柄がマッチしていた。可愛らしい天然系だけど、しっかり病んでいる。

 すべての登場人物が女優という職に魅了されつつ、その業の深さゆえに歪んでしまっている。戯曲が伝える内容を丁寧に読み取り、忠実に再現しようとしていた舞台だった。女優たちの怨念がこもる楽屋が、ある種の地獄であることが、最後の場面で示されていた。

 『楽屋』も9/10(土)、24(土)の二回を見たが、二回目のほうが出来がよかったように思った。この完成度まで芝居を作るのは大変だっただろうし、上演中は緊張もしていただろうが、演じることの喜びと充実も彼女たちから感じ取ることができたように思った。『楽屋』は暗い話なのでもしかすると劇団サムの観客にはしんどい人もいたかもしれないが。次の公演は2月とのこと。新型コロナの状況次第ではあるが、今度は大人数キャストの芝居を久々にやりたいと聞いた。

 今回『楽屋』に出演した4人の俳優はみな見覚えがある。劇団サムの公演には7年前の第1回公演から私は通っているので、何人かの印象深い俳優たちは頭に残っているのだ。私の娘は劇団サムには参加していないが、石神井東中学校演劇部部員だったので、その頃から見ている劇団員も何人かいるはずだ。私は石神井東中学校演劇部の公演で中学演劇の魅力を知ったのだけれど、あの子供たちが激動の思春期後期を経て、七年後に『楽屋』を堂々と演じる「大人」になっていること、その変化・成長を舞台で確認できたことに感動(とはちょっと違うかもしれないけれど)を覚えた。「おおおおぉ」と心の中でうなってしまうような衝動というか。劇団サムを継続的に見るということは、こうした喜びも味合わせてくれる体験でもあるのである。

 

 

 

 

 

 

小倉博行さん追悼

25年ぐらい前の小倉さん。大学院の研究室で。

 『ラテン語のしくみ』(白水社、2014年)、『ギリシア語とラテン語を同時に学ぶ』(白水社、2015年)などの著者で、早稲田大学、獨協大学などでラテン語やフランス語の教鞭を執っておられた小倉博行さんが2022年8月30日に亡くなりました。55歳の若さでの逝去でした。9/4の朝に早稲田大学文学学術院の先生からのメールで、早稲田の学内ポータルサイトに小倉さんの訃報が載っていることを知りました。

 小倉さんとは私の大学院修士時代から30年以上の付き合いでした。年齢は私より一歳上ですが、私が浪人したり、留年したりしていたため、私が修士課程に進んだときは、小倉さんは博士後期課程の院生だったはずです。小倉さんはラテン語学・フランス語学が専門でしたが、指導教員は私と同じ中世ラテン・フランス文学が専門の鷲田哲夫先生でした。大学院修了後は、私も小倉さんも早稲田大学で非常勤講師として授業を持ち、教育学部の一年フランスのクラスでは10年以上にわたってペアで授業を担当していていました。

 ペアで同じクラスの授業をリレー形式で担当していたので週に一度は授業の進行状況を伝えるためメールで連絡を取っていたし、文学部・文化構想学部での授業日・時間は重なっていたので、戸山キャンパスの教員ロビーで授業の合間にいつも雑談していました。

 小倉さんはおだやかで優しい先輩でした。おしゃれでした。料理も上手でした。小倉さんのInstagramアカウントでは、小倉さんが作った料理の写真が日本語・英語・フランス語の三言語の解説付きで掲載されています。私は一度小倉さんの家に行き、小倉さんの手料理をごちそうになったことがありますが、見た目も味もプロ顔負けの素晴らしい料理でした。私のラテン語の先生でもあり、ラテン語を読んでいてわからないところがあれば、小倉さんに聞いていました。いつも丁寧な返事をくれました。学生への対応や授業でも、そういった温厚で親切な態度は変わらなかったようです。

 小倉さんの死は突然でした。8月24日に文学部・文化構想学部でラテン語・ギリシア語など古典語関係の科目をとりしきっている先生から「小倉さんが体調を崩して、今年度後期の授業をキャンセルすることになったと連絡があったのだけれど、なにか聞いている?」と問い合わせがありました。もしそうならば教育学部で小倉さんとペアで授業を行っている私にも連絡がありそうなものですが、何の連絡も受け取っていませんでした。8月の終わりの時点で後期授業を全部キャンセルするとなるとただごとではないなと思い、私は小倉さんに連絡を取ることにしました。いつもはFBのメッセンジャーで連絡を取り合っているのですが、夏休み中は小倉さんがFBのメッセンジャーをチェックしている気配はなかったので、メールを出しました。長期にわたる休暇ということで、私はもしかするとひどい鬱病なのかもしれない、そうであれば返事が来ないかもしれないな、と思っていました。

 翌8月25日の午前8時過ぎ、私のiPhoneが鳴りました。私は目覚ましにiPhoneを使っているのですが、この日は目覚ましを設定せず朝寝をするつもりでいました。しばらく呼び出し音を聞いた後、iPhoneを取ってみたら、目覚ましではなく、FBのメッセンジャーの音声通話の呼び出しでした。最初は眠たくて無造作に切ってしまったのですが、iPhoneの画面を見ると小倉さんからの通話であることがわかり、とび起きてかけ直しました。二回かけ直したところで小倉さんとつながりました。小倉さんは病院からの通話でした。その声からも衰弱していることは感じ取ることができました。7月の中旬、前期の授業が終わるころに急に身体の調子がおかしくなり、歩くこともままならぬようになった。何とか前期の成績付けを終えて、病院に行くとすぐに入院ということになり、8月のはじめから入院しているという話しでした。

 「何の病気で入院しているんですか?」と聞くと、「肝機能障害だよ」という返事でした。病気についてはそれ以上突っ込んで聞くのがはばかられました。起き上がることもできないし、話しをするのも一仕事という感じ。新型コロナ流行のため、家族のかたも面会が難しいという話しをしてくれました。小倉さんはもしかするともっと話したかったのかもしれないなという気もしました。しかし思っていた以上に重篤な状態に思え、長話しするのもつらいのではないかと思い、10分ほどで電話を切りました。

 小倉さんの訃報に接したとき、私はなぜか小倉さんと電話で話したのが一ヶ月以上前のように錯覚していました。ご逝去されたのが8/30ですので、私はその5日前に小倉さんと話しをしたことなります。亡くなる前に小倉さんと話しができてよかったと今は思っています。もしかすると小倉さんとしては弱り切った身体に残った力をふりしぼって、朝方、私に電話してくれたのかもしれません。小倉さんからの電話の最初のコールは寝ぼけていて取れなかったけれど、そのあと起きて、すぐにかけ直して本当によかったと思いました。

 小倉さんとは30年以上にわたって継続的な付き合いがありました。濃厚な付き合い方をしていたわけではありませんが、これほど長い期間、良好な関係を築くことのできた人は私にはごく数人しかいません。小倉さんは穏やかで親切なお兄さんでした。人付き合いについては内気で不器用なところがあり、そんなところにも私は好感を持っていました。早稲田大学戸山キャンパスの教員ロビーでは、この20年くらいは毎週小倉さんと顔を合わせ、雑談をしていました。ここ10年くらいは私が4限の授業で小倉さんが5限の授業だったので、私が授業を終えて教員ロビーに戻ると、小倉さんは教員ロビーのソファにいつもいて、私に気づくと手をあげて「お、片山君」と声をかけてくれたものです。

 小倉さんが亡くなってしまい、悲しいし、寂しいですが、それだけでは言い表せない複雑な思いが渦巻いています。激しい感情ではありませんが、ずーんと心が沈み込むような。今後も私は戸山キャンパスの教員ロビーに入るたびに小倉さんのことを思わずにはいられないでしょう。