閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

平原演劇祭2017第6部 ソビエト100年記念「亡命ロシアナイト」

平原演劇祭2017第6部

ソビエト100年記念「亡命ロシア・ナイト」

 

  • 日時:2017年11/7(火)19時〜22時。
  • 会場:目黒区菅刈住区センター調理室にて。
  • 案内人:高野竜、酒井康志、吉植荘一郎、山城秀之

f:id:camin:20171107183648j:plain

 

---------------

 1977年にソ連からアメリカ合衆国に亡命した2名の批評家によって書かれた『亡命ロシア料理』という本がある。

亡命ロシア料理

亡命ロシア料理

 

ロシア料理のレシピが掲載されたエッセイなのだが、単に故国の料理についてて記述するだけでなく、料理を通じた優れたロシア(そして西欧諸国、特に料理文化不毛のアメリカ)文化論となっている。軽妙なユーモアに満ちた切れ味のいい警句が満載されている実に面白い本だ。例えばこの著作には以下のような文句を見つけることができる。 

* いい料理とは、不定形の自然力に対する体系の闘いである。おたま(必ず木製のでなければならない!)を持って鍋の前に立つとき、自分が世界の無秩序と戦う兵士の一人だという考えに熱くなれ。料理はある意味では最前線なのだ……。46頁
* もちろんん、シャルロートカを食べて痩せることはない。そのうえ、パンをたくさん食べるのは体に悪いそうだ。しかし、人生とはそもそも有害なものなのだ─なにしろ人生はいつでも死に通じているのだから。でも、シャルロートカを食べたら、この避けがたい前途ももうそんなに恐い気はしない。53頁
* 美への渇望や性欲があってこそ、人は美術館やベッドの中で幸福を感じることができる。それと同様に、空腹は快楽の源泉である。女性や絵画に対する愛と同じように、空腹だって大事に守ってやらなくてはならない。63頁
* ロシア人とフランス人は、いったいどこが違うのか?
答えは簡単。フランス人はカエルを食べる。だからロシア人の方が明らかに優れているのだ。ロシア人は、食に関しては慎重だから、ぴょんぴょんはねるものなど口にしない。105頁
* 香辛料を好む民族は、生活も派手だ。カーネーションを売ってぼろ儲けはするし、ハイジャックはする、血で血を争う復讐には夢中になる。反対に、薄味の料理を好む民族は、無気力と絶滅の運命にある。ラトビア人やサーミ人がそうだ。116頁
* 食べ物は、人間の最も秘めた部分を明かす。ホラティウスを原書で読むような人でも、黒パンにイクラを塗る姿を見られたら最後─用心深く隠してきた庶民の地が、表面に吹き出してしまう。174頁
* 料理とは、まぎれもなく言語である。それも、この上なく豊かな可能性をもった言語だ。形容語、隠喩、誇張、緩叙法、そして提喩に満ちた言葉。詩人プーシキンは、ロシアの居酒屋の名物「プーシキン風ポテト」の生みの親として、何世代もの人の心に残っているが、それも理由のないことではない。174頁

 

2017年はロシア革命100周年にあたる。平原演劇祭2017第6部は、《ソビエト100年記念「亡命ロシアナイト」》と題し、100年前にソビエト政府政権が確立した11/7の夜に、『亡命ロシア料理』(未知谷、2014)の抜粋を朗読し、そこに記述されている料理を食す、そしてロシア革命周辺の音楽を聴くという企画だった。

ロシア料理の調理は高野竜氏が担当。『亡命ロシア料理』の朗読は、吉植荘一郎、山城秀之の二名が担当した。そして酒井康志がロシア・ソビエト音楽のレクチャーを行った。ロシア・ソビエト美術についてのレクチャーも行われる予定だったのだが、担当の青木祥子が体調不良で欠席となったため、このプログラムは中止となった。

平原演劇祭は10代、20代の若い女性が出演者の中心なのだが、今回は出演者全員が中年男性という平原演劇祭としては異色の催しとなった。

f:id:camin:20171107191348j:plain

(撮影:片山幹生、『亡命ロシア料理』を朗読する山城秀之氏)

高野氏が再現したロシア料理が美味しかっただけでなく、優れた文明批評でもある著作の朗読とロシア・ソビエト音楽の解説も充実したもので、料理、文学、音楽からロシア・ソビエトの偉大さと悲惨を味わうことができる好企画だった。しかし世間はロシア革命に関心がないのか、この面白そうな企画内容にも関わらず、観客は私を含め3名(後に4名)というごく内輪の会になってしまったのはとても残念だった。この革命記念日に、ロシアがらみのイベントをやった演劇人は他にはいなかったのか。マヤコフスキーの革命祝祭劇『ミステリア・ブッフ』を上演するまたとない機会だったのに上演された話は聞かない。twitterでもこの日、ロシア10月革命に言及していたのは共産党志位和夫ぐらいだったか(志位のtweetはロシア革命の全面的礼讃というわけでもなかったが、皮肉、嘲笑、罵倒のコメントを大量に浴びていた)。

さて「亡命ロシア・ナイト」、オープニングは高野、吉植、山城の3名による『不思議惑星キン・ザ・ザ』(1986)の挿入歌、《ママ、どうしよう》の合唱だった。

youtu.be

 

なおこの日の出演者のおっさん4名はみなハンチング帽をかぶっていたが、これは打ち合わせていたわけではなく、偶然そうなったとのことだった。『不思議惑星キン・ザ・ザ』の歌が終わると、吉植、山城の二氏による『革命ロシア料理』の朗読が始まった。

f:id:camin:20171107214333j:plain

(撮影:片山幹生、『亡命ロシア料理』を朗読する山城秀之と吉植荘一郎)

それから高野竜によるソルジェニーツィンの『チューリッヒのレーニン』の一節の朗読に続く。革命運動のためには大量の資金が必要で、革命家になるにはまず資本家となるのが手っ取り早い、といった皮肉なことが書かれていて大笑い。

f:id:camin:20171107192336j:plain

(撮影:片山幹生、『チューリッヒのレーニン』を朗読する高野竜)

この後に確か最初の料理タイムが入ったと思う。最初に食べたのは、『革命ロシア料理』の最初の章、「壺こそは伝統の守り手」にあった壺料理だ。陶器製の壺(鍋?)でぐつぐつと煮込んだ鶏肉の料理。ただし『革命ロシア料理』で推奨されているのは牛ヒレ肉である。竜さん曰く、牛肉は調理の扱いがむずかしかったので、鶏肉にしたとのこと。これにサワークリームと小麦粉で作ったソースをかけて食べる。

youtu.be

f:id:camin:20171107195158j:plain

これは見た目どおり、すこぶる美味い。

酒井康志のロシア・ソビエト音楽講座はこの後だったように思う。このプレゼンテーションも素晴らしかった。革命前のロシア国民学派五人組から、鬼才のスクリャービン、革命直後の輝かしい前衛音楽の数々、そしてスターリン体制後のソビエト音楽まで。ソビエト体制のなかで才能ある作曲家たちが転向し、体制迎合音楽を作ってしまう泣き笑いの状況までを30分ほどで概観した。

1917ロシア・ソヴィエトの革命音楽.pdf - Google ドライブ

f:id:camin:20171107200715j:plain

(撮影:片山幹生、ロシア・ソビエト革命音楽のレクチャーする酒井康志)

モソロフ、ショスタコなど革命が熱かった時代にかっこいい前衛作品を作った天才作曲家は、体制迎合音楽でもやはりそれなりにいい曲を作ってしまうところが悲しくもある。共感覚者でもあったスクリャービンは誇大妄想の神秘主義者で、頽廃音楽の作り手とみなされても仕方ない異端児だったが、ソビエト当局は没後50周年に記念イベントをやったというエピソードを酒井が話したとき、吉植が「政治的には無害だとみなされていたからでしょうかね」とつぶやいたのがおかしかった。   

この後は料理第二弾が続いたのか、あるいは『亡命ロシア料理』の朗読が再開されたのかは記憶が定かではない。 高野竜による亡命ロシア料理の第二弾は、ロシアの代表的な魚のスープ、ウハーだった。

youtu.be

f:id:camin:20171107212900j:plain

使われた魚はタラと鮭。このスープも実においしかった。ただし『亡命ロシア料理』ではチョウザメが指定されていたとのこと。さすがにチョウザメは日本では手に入らない。『亡命ロシア料理』のレシピの記述はかなり大ざっぱで、材料はロシア国外では入手が難しいものが多いと言う。この本の著者が移住したアメリカでも、故国のロシア料理の再現には苦労したに違いない。高野竜曰く、亡命ロシア料理なので、とりあえずの間に合わせの材料でそれっぽいものを作るのが主旨に合っているだろうとのこと。確かにそうだ。

会のしめは『亡命ロシア料理』の朗読だったが、会場の退室時刻が迫っていたため、食事の後片付けをしながら朗読を聞くという慌ただしいフィナーレになった。

f:id:camin:20171107211803j:plain

(撮影:片山幹生、『亡命ロシア料理』を熱く朗読する吉植荘一郎)

出演者4名、観客4名(うち1名は音楽のプレゼンに関わる)というこじんまりした会だったが、美味しくて、楽しくて、ためになる、実に充実した夕べだった。

 

 

 

 

 

 

 

石神井東中学校演劇部『おこんじょうるり』・『ヒミツキチ 〜Our Secret Base〜』

『おこんじょうるり』(10/28)

  • 作:さねとうあきら
  • 脚色:ふじたあさや
  • 指導:一丁田康貴、田代卓(外部指導員)

『ヒミツキチ〜Our Secret Base〜』(10/29)

  • 作:一丁田やすたか
  • 指導:一丁田康貴、田代卓(外部指導員)
  • 会場:練馬区生涯学習センター

--------------

10/28に上演された『おこんじょうるり』は、さねとうあきらの創作民話をふじたあさやが脚色した民話劇。
 
失敗ばかりで村人の信頼を失った上、腰を悪くして寝込んでしまったこのおばあさんのところに子狐が迷い込んでくる。お腹を空かした子狐におばあさんは惜しげもなく家にあった食べ物をあげた。子狐はお礼に聞くとあらゆる病気を治す魔法の浄瑠璃を歌った。おばあさんの腰痛は治り、すぐに動けるようになった。おばあさんは子狐からその浄瑠璃を習うのだが、うまく歌えるようにはならない。子狐はおばあさんの着物のなかに隠れて、乞われるまま、村の病人の家にいって浄瑠璃を歌い、病気を治していった。
 
メタ演劇構造を作り出すいくつかの工夫が、民話劇のファンタジーを強調する効果をもたらしていた。まず舞台装置および俳優の配置が独特だった。高さ20センチ、幅3メートル、奥行き1.5メートルほどの所作台が舞台中央に設置され、背景には高さ2メートルほどの木製屏風があった。演技は所作台を中心としたエリアで行われるが、その両側には10人ほどの役者たちが向き合って座っている。彼らは自分の出番の前になると舞台袖にひっこみ、衣装を身に着けて現れる。そして自分の出番が終わるとまたもとの衣装に戻り所作台の脇に座り、芝居を横で見守っている。きつねのおこんはぬいぐるみで表現されるが、そのぬいぐるみを動かす黒子姿の役者もおこんにシンクロした演技することで、きつねの感情表現を可視化するという演出も面白かった。
中学生俳優の演技はとつとつとしたリズムでぎごちない。ちょっとテンポが悪いのではないかと思って見ていたら、最後のほうにはっと胸を突かれる悲痛で美しい場面が用意されていた。そのクライマックスへのドラマの集約ぶりが素晴らしい。子供の観客も大人の観客も泣いた。素朴でぎこちない芝居が、劇的な効果をもたらすという台本と演出の逆説にやられてしまった。惜しかったのは場面の切替でならされる拍子木がいまひとつ「カーン」とうまく響かなかったこと。あれがカッターナイフですーっと紙を切り裂くようなシャープさで鳴り響くと、芝居がもっと引き締まってたはずだ。原作とは違うハッピーエンドの結末もよかった。このラストの展開にも小さなサプライズある。中学生俳優ならではの可愛らしさも作品のなかでうまく利用されていた。
 
10/29に上演された『ヒミツキチ〜Our Secret Base〜』は演劇部顧問の一丁田先生による創作劇。三人の仲良しの女の子の放課後の「ミヒツキチ」でのかしましくたわいのない会話が最初、延々と続く。演劇的身振りをそぎ落として、表現をもっと洗練させて完成度を上げると、平田オリザの現代口語演劇の女子中学生版に行き着きそうな感じだった。小林聡美もたいまさこ室井滋の三人の自然なお喋りで展開する三谷幸喜のテレビドラマ『やっぱり猫が好き』も連想した。中学生の恋をめぐる騒動で仲良し三人組の友情は一度揺らぐが、結局は「雨降って地固まる」という結末に。予定調和のありふれた展開だが、ディテイルの表現の数々に、作者の一丁田先生が自分の教え子である中学生たちの様子を愛情をもって丁寧に観察していることを感じとることができる。「悪役」の女の子の演技もよかった。ミュージカル・シーンはもうすこし完成度をあげて欲しかったが、中学生たちが心から楽しんで芝居を演じている様子が舞台から伝わってくる気持ちのいい舞台だった。
 
 
表現技術や解釈という点では中学生は当然、プロの演劇にはかなわない。しかし中学演劇が、いわゆるプロの俳優による演劇と比べて面白くないかといえば、必ずしもそうは言えない。思春期前半の、子供の幼さからまさに抜け出そうとする彼らの身体は、演劇的な魅力と可能性を秘めている。その不安定な身体で演じられるからこそ、説得力を持つことができる表現や物語がある。そうした身体でしか表現できない演劇の面白さというのがある。その面白さは彼らの成長とともに確実に失われるものであり、どんなに上手いプロの俳優でも表現しえないものだ。私が面白いと思う中学演劇の作品では、こうした中学演劇特有の身体性の魅力を引き出すような脚本が選ばれ、演出が行われている。
 

 

ダリオ・フォ作『虎のはなし』@シアターΧ

www.theaterx.jp

  • 原作:ダリオ・フォ
  • 構成・演出・出演:ムベネ・ムワンベネ;IRO(土山裕也)
  • 劇場:シアターΧ
  • 評価:☆☆☆☆
  • 上演時間:2時間

-----


シアターΧで上演されたダリオ・フォの一人芝居『虎のはなし』を見た。作品はフォが中国訪問したときに見たスペクタクルがベースになっていて、1934-36の長征に参加した共産党軍の兵士の一人語りである。天安門事件があったときに、そのエピソードを交えて書き換えがあったという。
二人の演者が『虎のはなし』を上演した。
一人目はアフリカのマラウイという国出身のムベネ・ムワンベネ。彼はフォの戯曲で設定された状況を自分の祖国マラウイで2011年に起こった民衆抗議運動に置き換えた翻案を上演した。
もう一人は日本人演者のIRO(土山裕也)。彼はほぼ原テクストをそのまま再現する。
ムベネは、観客への呼びかけを取り入れた大道芸の語り的な仕掛けを積極的に用いる。祖国マラウイの事件への置きかえもフォの作品の本質に沿ったものだ。フォ自身もこうした置き換えは歓迎しただろう。観客に呼びかけるスタイルの上演も、フォのモノローグ劇の本質から外れたものではない。字幕が不十分で、英語のせりふがわからないところもあったが、観客をうまく引きんだ手慣れた感じのパフォーマンスだった。ムベネは作品の最後で祖国マラウイが政権批判など表現の自由を認めない国家であることを厳しく告発する。
IRO(土山裕也)というパフォーマーを私は知らなかったが、もう50-60代に見える彼は非常に優れたパフォーマーだった。パフォーマンスの技術だけを見ると、ムベネよりも優れている。語りのリズムと明瞭さの工夫に熟練の技を感じる。ポストパフォーマンスでの質問で語り芸に重心がありすぎて、演劇味に乏しいというダメだしがあったが、このフォの作品ではむしろ語り芸的な要素が重要だ。
この作品と公演については実はいろいろ書きたいことがある。フランス語訳が手元にあり、そこにはフォの序文があって、作品執筆の際の状況が書かれていてその内容が非常に興味深い。


IRO(土山裕也)はもちろん日本語訳で演じた。この日本語訳がかなりいいものだと思ったのだが、当日パンフレットにはなぜか翻訳者のクレジットがない。これは奇妙だ。誰かが訳しているのに。それも相当な手間をかけて。参照した原テクストのバージョンも記されていない。イタリア語から訳したのか、英訳から訳したのかもわからない。
また当日パンフレットのダリオ・フォの紹介で、「『虎のはなし』は『ミステーロ・ブッフォ(奇妙な物語)』と呼ばれる短編一人芝居の連作の中の一編」とあるがこれは事実ではない。『ミステーロ・ブッフォ』(これを「奇妙な物語」と訳すのも誤訳だ)は中世劇のフォ流翻案であり、『虎のはなし』はまったく別の作品だ。
こんな適当な当パンを作るのなら、私に執筆依頼すればいいのにと思う。もちろんイタリア語関係でもっと適任な人はいくらでもいるのだが。
意義深い公演だが、こうした詰めの甘さ、いい加減さが気になる。
時間を見つけて、この上演についてはちゃんとした評を書きたいのだけれど。書けるかな。
フォの一人芝居は数多い。『虎のはなし』フランス語訳版に入っている他の一人芝居も面白そうだ。
これをイタリア語原典でなく、フランス語訳でしか読めないのが歯がゆくてならない。こんなに面白く偉大な劇作家が日本ではまだちゃんと紹介されてないのに、手を出せない。フランスの二十世紀の戯曲作家で、フォ以上に私の関心を引く作家は存在しない。

前進座『柳橋物語』@三越劇場

2017年 『柳橋物語』

 

三越劇場前進座柳橋物語』を見に行った。江戸を舞台に貧困や天災に翻弄されながら健気に生きる女性、おせんの姿を描く「女の一生」もの。

タイトルを主人公の名前でなく「柳橋」という地名にしたことが劇が進むにつれじわじわと効いてくる。おせんの悲劇は、彼女個人の悲劇ではなく、柳橋界隈に住む下町の庶民が生きていくなか抱えざるを得ない愚かさと悲しさを象徴するものなのだ。自分が生きたいようには必ずしも生きられない人生を私たちはどう引き受けていくのか。いかにも山本周五郎らしい問いかけがこの作品にはある。

脚色の田島栄がプログラムの文章なかで「人間には意地というものがある。貧しい者ほどそいつが強いものだ」という山本周五郎の小説のなかのセリフを引用している。このセリフはこの作品の核心になっている。おせんも自分の意地を通し、自らの運命を決然と引き受ける。その覚悟を示した最後の場面の、彼女の毅然とした様子とその美しさに心打たれ、ボロボロと泣いてしまった。

私も貧しき者、弱き者としてその意地を貫き通したい、と愚直に感化されてしまうような芝居だった。
前進座の俳優の演技は、よい意味でスタニスラフスキー・システムを具現しているように私には思える。登場人物の内面をしっかり俳優がとらえ、人物の人生を生きようとしているように見える。一幕二幕と出ずっぱりだった主人公おせんを演じる今村文美の気迫が舞台から伝わってきて、そのエネルギーに圧倒されてしまった。この芝居は徹底的におせん中心の構造になっていて、おせんを核に世界が形成されている。俳優陣のアンサンブルの緊密さはいつもどおり素晴らしい。

火事で家族を失い、娼婦へと零落し、労咳で死ぬ、おせんの友人、おもんという人物も印象に残る。彼女の貧苦は悲惨ではあるが、彼女の人生は果たして不幸だっただろうかなどと考えてしまう。おせんを愛し抜きつつ報われることのなかった幸太、おせんを信じ切ることができなかった庄吉、おせんを助けた藁屋の夫婦、そして無責任な噂話を広めることでおせんを苦しめた悪役の飛脚まで、あらゆる人物に共感できるのは山本周五郎の世界ならではだ。そしてその世界を立体化するのに前進座の俳優ほどふさわしい人たちはいないだろう。

 

わたしが悲しくないのはあなたが遠いから

『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』(イースト) 東京芸術劇場

www.ft-wkat.com

作・演出:柴 幸男
出演:大石将弘 (ままごと|ナイロン100℃)、岡田智代、串尾一輝 (青年団)、椿真由美 (青年座)、野上絹代 (FAIFAI|三月企画)、端田新菜 (ままごと|青年団)、藤谷理子、森岡 光 (不思議少年)

評価:☆☆☆☆★

----

演劇や映画を観に行って、否応なしにその世界に引き込まれ、その世界にこちらの内面が侵食され、魂を揺さぶられてしまうような経験することは、そんなに頻繁にあることではない。柴幸男『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』で私は久々にこういう感動を味わった。
この作品は東京芸術劇場のシアターイーストとウエストという地下一階で隣り合った劇場で同時に上演される。
観客は同時に二つの劇場の舞台を見ることはできない。イーストかウエストのどちらかで見ることになる。この趣向自体が作品の主題そのものの優れた表象であることは作品を見ればすぐにわかる。というのも物語はすぐ隣にいながら、会うことができない他者に関わる話なのだ。私はイーストで見た。
イーストとウエストと二つの舞台の出演者同士のやりとりも劇中である。私たちは隣の存在を意識しつつ、隣の様子をうかがい知ることはできない。そしてすぐ傍らにいたはずの人が気がつくと、ずっと遠くに離れてしまっている。追いかけても追いかけても離れてしまった隣人にたどりつことはできない。でもその隣人はすぐそばにいる。自分が生きているなかで本質的に抱える孤独に向かいあうときに、ふと気がつく他者の声。その他者の声にそっと耳を傾けてみたくなるよう時がある。そんな時間について考たくなるような作品だった。
いくつかのシーケンスが音楽のリフレインのように、かなり複雑なやりかたで何回か反復される。反復され、場面が重なるにしたがって気づかなかった感情が浮かび上がり、その強度を増していく。私は後半は泣きながら見た。周りの観客の多くも泣いていた。
赤ん坊はなぜ生まれ出たときに大声で泣くのだろうか? あの泣き声にはどういう意味があるのだろうか? この作品はこの問いに、情緒的な演劇的リフレインによって答える音楽詩劇だ。作品全体が美しい詩となっている。
シアターイーストには東子(とうこ)がいて、彼女のすぐそばにいながら、彼女からどんどん離れていくのが西子(せいこ)である。この二人を演じた女優の美しさのあまりの清々しさにも心打たれた。

片岡仁左衛門『霊験亀山鉾』@国立劇場

f:id:camin:20170726165411j:plain

10月歌舞伎公演「通し狂言 霊験亀山鉾(れいげんかめやまほこ)」

敵役二役を演じた仁左衛門の美しさ、かっこよさは筆舌に尽くしがたい。その視線、表情、呼吸、声、動きの一つ一つに感嘆の声が漏れそうになる。いや実際に漏れてしまう。
歌舞伎ならではの趣向の数々と役者の魅力、そして濃厚で過剰な演劇的な美を堪堪能した。奔放で荒唐無稽な設定と展開に、はみ出しそうな多彩な具を無理矢理つめこんだ幕の内弁当を連想する。
とにかく歌舞伎の魅力がぎゅっと凝縮されたすばらしいスペクタクルだった。子役の芝居とその使い方もすごいとしか言いようがない。
こういう体験がたまにできるから、歌舞伎はたまらない。国立劇場は通し狂言ではじめとおわりがある歌舞伎の演劇作品としての面白さも楽しむことができるのがいいところだ。しかも5000円以下のチケット代で舞台のすぐ近くの席で役者の姿を見ることができるのだから。

SPAC『病は気から』

spac.or.jp

f:id:camin:20171014224728j:plain

ノゾエ征爾の翻案、演出が秀逸。17世紀フランスの古典喜劇を現代の喜劇とするための様々な細かい工夫がありました。踏み込みの深い大胆な潤色ですが、モリエール喜劇の骨格は揺らいではいません。原作の美点は損なわれていません。
俳優の台詞のやりとりのリズムのよさ、弾けるよ うな動きも楽しい。ドタバタ喜劇だが、メタ演劇構造の仕掛けが効いていて、結末には感動して泣いてしまった。劇中人物であるアルガンと作者のモリエール、そしてそれを演じる阿部さんの姿が三重に重なる。
演出・潤色のアイディアに感嘆したが、俳優たちの演技も素晴らしい。喜劇的な誇張が全然気にならない。痛快。ヒロインのアンジ役の榊原さん、可愛い過ぎて 、登場場面で見ているこっちの身体が痺れる。ケロッグの山口航太との劇中劇中劇のパストラル場面、私はとても好きだ。
役者はほんと、みんなよかった。
もえみちゃんは、映画監督がアフタートークでダメ出ししてたけど、たしかにまだできることがあるように思う。
フランスではモリエールの喜劇は、シェイクスピア劇のように、現代現役の演劇で、あらゆる演出上の試みが行われている。このノゾエ征爾版もフランスでの上演を見てみたい気がする。
とてもいいプロダクションなので、今後再演を期待する。学生にも推薦したいので東京でもまたいつかやって欲しい。

地点『かもめ』

地点 CHITEN

  • 原作:アントン・チェーホフ
  • 翻訳:神西清
  • 演出:三浦基
  • 美術:杉山至
  • 特殊装置:石黒猛
  • 衣装:堂本教子
  • 音響:堂岡俊弘
  • 証明:藤原康弘
  • 舞台監督:大鹿展明
  • 制作:田嶋結葉
  • 出演;窪田史恵、小林洋平、安部聡子、河野早紀、石田大、小河原康二
  • 劇場:京都 アンダースロー
  • 評価:☆☆☆☆☆

---------

地点の本拠地、アンダースローで『かもめ』を観た。左は開演前。写真撮影可とのことだったので。開場時から安部聡子が観客に紅茶とお菓子を振舞って、ちょっとした芝居を続ける。一見リアリズム演劇っぽい空間だが、地点の演劇なので当然そうはならない。『かもめ』冒頭のトレープレフの前衛劇が主要なモチーフとして、分解され、強烈に変形され、反復的に参照されつつ、ゆっくりじわじわと『かもめ』の物語が進んでいく。解体された台詞の連なりは、首尾一貫性を喪失し、ほとんど意味不明なものになっている。この意味不明な台詞を聴き続けることは、苦痛で忍耐を強いられる。意味を繋ごうとしても、それをあざ笑うかのように、エキセントリックな芝居で論理性は分断され、引きちぎられる。
しかし後半になって断片化された言葉が再結晶化していく様は圧巻としか言いようがない。
こんな虚仮威しの前衛はやはり私の好みではないなと最初のうちは引いて見ていたのだが、その表現の多彩で奇抜なアイデアの数々、そしてその恐るべき強度に引き込まれてしまった。わけわからないのだけど、凄い。
そしてアンダースローという空間の空気が、作品をさらに凝縮されたものにしている。
強烈な演劇体験だった。
やはり演劇好きが京都に行くなら、アンダースロー訪問は欠かすことは出来ないだろう。地点のスタイルが好き嫌いに関わらず。

平原演劇祭2017第5部 移築民家とアタラシイ「ゲキ」14 :モンドリアンの生涯、最終章

f:id:camin:20170928004135j:plain

  • 日時:2017/9/23(土・祝)正午開演

  • 会場:埼玉県宮代町郷土資料館内旧加藤家住宅およびその周辺

  • 観劇無料・雨天決行・お子様歓迎・駐車場多数あり

  • 上演演目:《in C》、『落語疑獄元凶』、『本物のRX-7を解体する演劇』、『仁王〆地天麩羅夜露死苦 怪獣使いと少年 #ファンタジー悪役和歌』、『芋虫女~暗渠編~』、『姥ヶ谷落とし』 /『姥ヶ谷落とし』後追いロケハンツアー /『奉納舞踏・菌』『奉納舞踏・朝敵揃』

  • 出演:くわたさとみ、すぎうら、最中、角智恵子、ソらと晴れ女、高野竜、中沢寒天、フジタタイセイ、泉田奈津美、嵯峨ふみか

------------

平原演劇祭2017第5部はいつも以上に盛りだくさんのプログラムだった。大きく分けると今回の演劇祭は4つの会場で行われた。最初の会場は正午から午後4時半過ぎまで、宮代町郷土資料館旧加藤家住宅とその周辺。その後は、高野さんの運転で『姥ヶ谷落とし』後追いツアーに参加し、宮代町の川と暗渠を巡った。そしてくるまやラーメン東武動物公園店での打ち上げに参加。打ち上げ終了後は高野竜さんの家でしばらく待機ののち、午前1時から一昨年、昨年と巨大なキノコが出現した久喜市の高柳香取神社と同じ久喜市にある香取公園(こうどりこうえん)のサギの群生地での奉納舞踏。高野宅に戻り、午前5時まで2時間ほど仮眠を取って、和戸駅から始発電車で帰った。

私は全プログラムに参加した。だらだらと思いつくままに書く。

f:id:camin:20170928004231p:plain

12時50分に東武伊勢崎線姫宮駅で演劇研究者のHB氏とOD氏と待ち合わせ。この二人は今回がはじめての平原演劇祭だった。タクシーを駅まで呼び、会場の宮代町郷土資料館へ向かう。姫宮から宮代町郷土資料館までは1.5キロほどなのだが、タクシーの運転手は宮代町郷土資料館を知らなかった。

f:id:camin:20170928004341p:plain

テリー・ライリー《in C》の演奏開始予定時刻の正午に宮代町郷土資料館に着く。築200年の旧加藤家住宅のなかでは、《in C》の演奏メンバー7名がスタンバイしていた。《in C》は、パルスに合わせて短いフレーズを、任意の数の演奏者が任意の回数、no.1からno.53のフレーズを演奏していくというミニマル・ミュージックだ。全員がno.53のフレーズまで行き着いたところで曲を終える。この《in C》の演奏会を平原演劇祭主宰の高野竜のパートナーであるさかいさんはここ数年毎年行っている。演奏メンバーはその都度募集し、場所も毎年ちがうところ。今年は平原演劇祭2017第5部のオープニングとしてこの《in C》の演奏を行うことになった。ちなみに《in C》の楽譜はパブリックドメインで、ネット上で検索すれば見つけることができる。この《in C》演奏は人数が多ければ多いほど楽なのだそうだ。あまり演奏者が少ないと、休むことができず(途中、演奏を中断してもOKというルールになっているが、音が途切れるのはだめ)安定した演奏にならないという。今年は少なくて演奏者は7名。楽器はさかいさんがピアニカ、あとはギター、ベース、縦笛、フルート、ヴァイオリンなど。演奏時間はその都度変わるのだが今回の演奏時間は1時間15分とかなり長い。ピアニカでバンドをリードし続けたさかいさんは、実はかなりつらかったとあとで聞いた。しかし《in C》について予備知識なくこの平原演劇祭にやってきた観客もかなりつらかったに違いない。同じようなうねる音列が延々と続き、終わる気配がないのだから。まさか1時間以上、こんなものを聞かされるとは思わないだろう。これは演奏する人はフレーズのずれが引き起こすうねりのなかで気持ちいいと思うのだが、聞く方は「そういう音楽だ」と知っていなければかなりきついはず。

 

f:id:camin:20170928005016p:plain

1時間半の《in C》のあと、野外に移動。予告では『本物のRX-7を解体する演劇』がこれに続くはずだったが、何の告知もなく順番が変更され『RX』の後に上演されるはずだった『落語疑獄元凶』が、旧加藤家裏手の竹林の前の広場にある東屋とすべり台で上演された。観客はそれを取り囲むかたちで、自由に移動しながら芝居を見る。俳優は男装の女優とユーモラスで不気味な仮面を被った着物姿の女優の二人。ただし仮面着物女優はごく数言しかせりふはない。男装女優が東屋とすべり台のあいだを移動しながら、

ひたすら語る。民家のなかで《in C》の澱んだ音世界の中に一時間以上いたので、野外劇に解放感を感じる。『疑獄元凶』は宮沢賢治の初期短編で「実際にあった五私鉄疑獄という汚職事件を題材に被告と検察の攻防を描いた」作品だそうだが、俳優が何を言っているのかよく理解できない。おそらく男装俳優自体も自分が何をしゃべっているのかよく理解できていないように思う。途中で落語「猫の皿」が挿入される。そこだけは何を話しているのかよく理解できた。

f:id:camin:20170928005146p:plain

一体何が行われているのかわからないまま時間が過ぎていくのだが、仮面女優と男装俳優の動きによって表される関係性の変化を、野外の田園的風景のなかで眺めているだけで、何となく面白い。仮面女優は男装女優が演じる人物を挑発し、からかっているようだ。仮面のペインティングのデザインがいい。二人は時折観客のなかに入り込んで、軽く観客にちょっかいを出したりもする。

f:id:camin:20170928005300p:plain

『落語疑獄元凶』が一段落すると、後方から怒りを含んだ女性の声が聞こえる。振り向くと化粧の濃い女性がすっと立っている。彼女の声に導かれ、観客たちは白いRX-7のほうへと移動していった。三番目の演目、『本物のRX-7を解体する演劇』が引き続き始まる。RX-7の車体をいじっている青年とその姉の二人芝居だが、RX-7の後方両側では二人の女性が黙々と畳半分ほどの大きさの板に絵を描き続けていた。この二人は延々とペインティングを続けるが、芝居にはからまない。『本物のRX-7を解体する演劇』の舞台は西川口で、二人はそこに住む華僑という設定になっている。

f:id:camin:20170928005449p:plain

こちらはせりふが聞き取りやすい。ガールフレンドもいない、友達ともつるまないで、車ばかりいじっている弟に、姉が発破をかけるという芝居だった。姉役はまくしたてるといった感じだが、男性の話し方はとつとつとしていてぎごちない。彼は姉の言葉をききながらRX-7の車体の下にもぐり、解体を淡々と進めていく。この男性俳優はレーサーのすぎわらさん。『本物のRX-7を解体する演劇』には元ネタがあり、1970-1980年代にフランスで劇作家として作品を残したベルナール=マリ・コルテスの短編戯曲『タバタバ』だ。後で原作を読んでみたが(数頁の短い作品)、『本物のRX-7を解体する演劇』では、場所を西川口に、人物を華僑としている以外は案外変えていない。原作ではRX-7ではなく、ハーレー・ダビッドソンを男はひたすらいじっていた。場所は西アフリカのとある町を想定してあった。RX-7はすぎわらさんの所有する車であり、本物なので実際に運転し動かすことができる。すぎわらさんはこの車に乗ってここにやってきた。すぎわらさんは、今回の平原演劇祭で最も印象的な俳優だった。その存在が突出して俳優っぽくなかったからである。すごく無防備でかまえた感じのない人だった。すぎうらさんの本職はレーサーとのこと。『本物のRX-7を解体する演劇』の上演時間は20分ほど。ここで休憩が入る。場所を旧加藤家民家に移し、後半が上演された。

f:id:camin:20170928005402p:plain

通常、平原演劇祭では休憩時が食事タイムで、軽食がふるまわれることが多いのだが(今回も食事の提供は予告されていた)、今回はプログラムが過密すぎて時間が押してしまったため、食事の提供はなかった。何か出るだろうと思って何も食べずに来たので、昼飯抜きになってしまった。まあ仕方ない。

会場を旧加藤家家屋のなかに移動して後半が始まる。加藤家にもともとあったはずのふすまなどの仕切りは取り払われて、20畳ほどの広さの畳敷きの間が劇場となる。この畳敷きの間には、麻雀パイと点数棒、そして厚手の色つき紙の名刺ほどの大きさのカードが間の内側に正方形に並べられ、結界のようなものが作られていた。この「結界」の内側が演技空間であり、客はこの結界の外側に縁起空間を囲むように座る。

f:id:camin:20170928005641p:plain

後半の最初はこの結界の境界に置かれた色付き紙を使った『仁王〆地天麩羅夜露死苦  #ファンタジー悪役和歌』からはじまる。結界のなかの俳優がカードをめくるとそこにはネットで話題になったという「ファンタジー悪役和歌」が書かれていて、その引いたカードを俳優が読み上げる。その読み上げた内容を、結界外にいる打楽器奏者が判定し、不合格だともう一枚めくってさらに読む。こういったことが3周ぐらい行われる。このカルタに参加した俳優の数は7-8人だったと思う。「ファンタジー悪役和歌」で検索すると、そのまとめがひっかかる。例えば「嗚呼何故だ 敵は高々 ガキ二人我が軍隊が 負けるはずなど」とか「良いだろう大槍の威力思い知れあたらないだと!?ぐわ バカナァあ!!!」とか、ファンタジー・ノベルの悪役が言いそうなせりふを和歌調に記すというものだ。このファンタジー悪役和歌のカルタがひとしきり行われた後で、そのまま「怪獣使いと少年」に突入していく。

f:id:camin:20170928010448p:plain

これは『帰ってきたウルトラマン』で問題作として有名な「怪獣使いと少年」の一場面を劇化したもの。巨大魚怪獣ムルチが乱入してくるが、ウルトラマンに倒される。そして怪獣使いの宇宙人は、警官の拳銃に撃たれて死ぬ。後になってアマゾン・プライムで『帰ってきたウルトラマン』「怪獣使いと少年」を見て、あのとき平原演劇祭で何が演じられていたのか理解できた。見ている時は何がなんやらわからない。とにかくデタラメ、無茶苦茶で、面白かった。「怪獣使いと少年」の最後は、結界内の人物がみな死んで倒れてしまう。

f:id:camin:20170928010521p:plain

その屍のなかに、アングラマイムのソらと晴れ女が入場し、彼女のソロ演目『芋虫女~暗渠編~』が始まる。芋虫が蝶になる過程を、舞踏とマイムによって表現していくというもの。演じる過程で衣装をはぎとり、姿が変化していく。この『芋虫女~暗渠編~』の上演中に、高野竜さんが二度登場し、部屋の片隅で小説の一節を朗読する。このとき読まれた小説は、ジョージ・C・チェスブロの『ボーン・マン』であることを後で知る。暗渠小説とのこと。『芋虫女~暗渠編~』の背景としてこの朗読は効果的だったし、この後に続く、『姥ヶ谷落とし』 への伏線にもなっている。

 

f:id:camin:20170928010600p:plain

旧加藤家住宅で上演された最後の演目、『姥ヶ谷落とし』は今回上演された演目のなかでもっとも演劇的な形式の作品である。場所は上演場所からほど近い、東武伊勢崎線和戸駅周辺だ。この付近には利根川水系備前堀川が流れ、備前堀川からいくつもの水路が枝分かれしている。その水路のいくつかは今では暗渠となり、地表からは見えない。『姥ヶ谷落とし』はこの地域の川を巡る地誌演劇だ。和戸周辺はごくありふれた田舎町だ。この地域の団地のなかを貫通する奇妙な小路がある。そこにはかつて川が流れ

ていた。今は暗渠となり地下に隠されたその川のある場所が作品のタイトルである姥ヶ谷落としである。今、そこに住む住民で、この地域の川を巡る歴史と物語に気を留める者がどれくらいるだろうか?『姥ヶ谷落とし』はこの町の自治会長とここを訪れる女性研究者のあいだの対話を通して、川と格闘してきたこの町の歴史を浮かび上がらせる。なぜ「モンドリアンの生涯、最終章」なのか? 

モンドリアンの直線の組合せによる抽象画は、彼が生まれ育ったオランダの平原の水路の風景からインスピレーションを得たという説があるそうだ。ふと見ると、旧加藤家住宅の畳の縁に川の名前を記したプレートが置かれていることに気づく。この藁葺きの家屋の畳が、その上で語られる土地のミニチュアに見立てられているのだ。そして加藤家の障子のいくつかには色紙が貼られ、それはモンドリアンの絵を思わせる。20分は続いたかと思われる単調で長大な川への讃歌でこの作品は終わる。最後に全出演者が演技エリアとなっている結界のなかに、わらわらと、その土地に住んでいる亡霊のように現れるのが感動的だった。

f:id:camin:20170928010633p:plain

終演時刻は4時半を過ぎていた。予定よりだいぶ遅くなってしまった。会場の撤収作業のあと、『姥ヶ谷落とし』後追いロケハンツアーが高野竜さんの運転する車で行われた。参加者は私とSPAC俳優の吉植さんの二人だった。『姥ヶ谷落とし』のなかで言及された川と暗渠を高野さんの解説付きで回るという内容だった。このツアーの時間は90分ほど。和戸周辺の水路の調査を高野さんはかなり昔からやっていて、その報告をしばしばmixitwitterに上げていた。

togetter.com

何を物好きに調べているだろうとは思っていたが、このマニアックな調査の結果が、今回上演された『姥ヶ谷落とし』を含い数作の戯曲の題材となった。高野さんの調査自体は、「暗渠マニア」の関心を呼び起こしたようだったが、正直、私はなぜ高野さんがローカルな水路や暗渠にこれほどまでに関心を持つのか理解できなかった。しかし小川や暗渠を起点に、何のへんてつもない田園風景から壮大な物語が立ち上がる様子に立ち会うのにはわくわくする。今回完結した「モンドリアンの生涯」は十数年越しの現地調査に基づき、数年かかって上演された三部作の完結編にあたる。後追いツアーではいくつかのポイントで高野さんの詳しい解説があったが、その内容は私は半分くらいしか理解できていなかった。かつて利根川の本流であった備前堀川の歴史を高野さんほど詳しく掘り下げた人間はおそらくいないだろう。

f:id:camin:20170928010712p:plain

和戸の住宅地を囲む備前堀川は、護岸工事がされておらず、土手が残っている。かつてこの一帯は利根川が氾濫したときの遊水池だった。江戸時代以降、何度にもわたって行われた治水工事の結果、この沼地の一部は住宅地となり、そこに高野さんは住んでいる。戯曲のタイトルである姥ヶ谷落としは実在する地名だ。そこは今では川ではなく、住宅地となっている。そしてかつてのうねうねとした川筋は住宅地のなかの通路に変わっていた。この住宅地が造成されたのはそんなに昔のことではない。ちょっと感動したのは、かつての川筋だった小路の入口に「姥ヶ谷落」と彫られた石が置かれていたことだ。住宅造成の会社が設置したものだろう。この地区の住民に、姥ヶ谷落としの由来を知るものはおそらくいないに違いない。

f:id:camin:20170928010740p:plain

『姥ヶ谷落とし』ロケハン後追いツアーのあと、打ち上げ会場のくるまやラーメン動物公園駅店に行く。さかいさんが暗黒舞踏を舞ったソらと晴れ女さんに『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いと少年」の回の粗筋をとくとくと語っていた。昼に上演されていた場面の元ネタだ。おやじのオタク話にまだ若いソらと晴れ女さんは優しくつきあっている。打ち上げのあとは、『奉納舞踏・菌』『奉納舞踏・朝敵揃』なのだが、これの開始時刻が午前1時。開始時間までは高野家で待機となった。奉納舞踏の出演者はソらと晴れ女ひとりである。そして観客は私ひとり。高野家に行くと、RX7のすぎわらさんがふとんに入って熟睡していた。その横で、高野竜さんの一人息子、高校二年のR君が勉強していた。

「これからまた深夜に出かけるんですよね?」と聞かれる。

「うん」

「ほんと、うちのお父さんはむちゃするでしょ?僕は昨日、雨のなか、6キロ、リヤカー引いて荷物運ばされましたから」

「うん、むちゃくちゃやな」

という会話をR君と交わす。ソらと晴れ女もさすがに疲れ切った様子だった。

「よくこんな申し出をひきうけましたね? 後悔しているでしょ?」

「いえ、滅多にできることではないんで」

「なんでこんなことをやろうと思ったんですか?」と高野さんに聞くと、

「あ、一回奉納芝居というのをやってみたかったから。奉納なんで観客はいてもいなくてもいいんですよ」という返事だった。

f:id:camin:20170928010822p:plain

私以外にこの奉納舞踏に立ち会いたいという人が一人いるというので、待ちあわせのため、午前一時に宇都宮線久喜駅に車で行った。高野宅から久喜駅までは5キロほどの距離がある。高野さん、ソらと晴れ女、私に加え、高野さんの奥さんも同行した。久喜駅に行ったものの誰も来ない。1時過ぎに久喜駅を出て向かったのは、久喜駅から6キロほど離れたところにある高柳香取神社だ。この神社で昨年、一昨年と二年続けて巨大キノコ、ニオウシメジが生えて、ちょっと話題なった。それで狂言『茸』をここで朗読して、それに合わせて舞踏を踊って貰い、奉納芝居とするというのをやってみたかったらしい。しかし残念ながら今年は巨大キノコは生えていなかった。

f:id:camin:20170928010844p:plain

午前1時半頃、香取神社に着く。もちろんわれわれ以外には誰も居ない。巨大キノコが生えたというのでどんな山奥の神社かと思えば、住宅地のただ中にあるごくありふれた地味な神社だった。あまり大声でテクストを読むと住民に通報され、警察がやってくるかもしれないというので、小声で高野さんがテクストを読み上げ、それに合わせて暗闇のなか、ソらと晴れ女さんが踊った。高野さんは間違えて次の会場で読み上げるはずだった平家物語巻五より「朝敵揃(ちょうてきぞろえ)」も読んでしまう。

始まる前は眠いし、疲れているしで、あんまり気分が盛り上がらなかった闇の奉納舞踏だが、始まってみるとその不気味さ、ばかばかしさが猛烈におかしい。怪しさ満点のまさに文字通りの暗黒舞踏

f:id:camin:20170928010906p:plain

香取神社での奉納舞踏のあとは、また車で移動し、神社から5キロほど離れたところにある香取公園(こうどりこうえん)に向かう。この公園ももともとは洪水時の遊水池だったらしいが、サギの群生地なのだ。公園の木に白サギがたわわになって止まっている。白サギは昼行性なので夜は寝ているが、夜行性の別のサギがいてそれはぎゃあぎゃあと不気味な声を上げて飛び回っていた。このサギの群の前で、平家物語巻五の「朝敵揃(ちょうてきぞろえ)」を読み、舞踏を踊る。「朝敵揃(ちょうてきぞろえ)」は鷺が出てくる話なのだ。なんて幻想的で不気味でばかみたいな演目だろう。やるほうもやるほうだが、それをうれしそうに見ている私と竜さんの奥さんもどうかしている。今回の平原演劇祭2017第5部では、深夜の奉納舞踏2篇が結果的には一番面白かった。

奉納舞踏を終え、高野家に戻ったのは午前3時。すぎわらさんは相変わらず熟睡。高野さんは奉納舞踏が終わった途端、体力の限界が訪れたようで、すぐに寝てしまった。私も2時間、仮眠を取る。午前5時に寝ている高野さんを置いて、ソらと晴れ女と家を出て、始発電車に乗って帰路についた。

f:id:camin:20170928010944p:plain

genre:Gray(黒谷都ソロ公演)『涯なし』

genregray.wixsite.com

  • 人形遣い:黒谷都
  • 人形美術:渡辺数憲  
  • 原案:岡本芳一
  • 作劇:黒谷都、岡本芳一
  • 音響:中村嘉宏
  • 音構成:山口敏宏
  • 照明:しもだめぐみ
  • 舞台監督:荒牧大道
  • 劇場:鶴瀬 キラリ☆ふじみ
  • 上演時間:50分
  • 評価:☆☆☆

----------
人形に取り憑かれ、40年以上人形遣いをやってきた人の集大成のようなソロ公演である。人形劇の特に熱心な観客とは言えない私がいったい何をコメントできるのかという感じもする。率直に書くと、この公演が提示した世界は私の持っている世界とは折り合いが悪かった。しかし「私には合わない演劇だ」と切り捨てるのではなく、この公演をめぐって自分の演劇観、人形劇観を再検討し、それについて語らずにはいられないような気分にさせる公演でもあった。

黒谷都の操演を私が初めて見たの5年ほど前のことだ。白百合女子大で行われた加藤暁子の講演会のあと、黒谷都が渡辺数憲の人形を動かす様子を実演したのを見たのだった。ごく短い時間だったが、渡辺数憲のリアルで精密な人形の造形の美しさとその人形を魔法を使うかのように柔らかに優しく動かす黒谷の操演に一気に引き込まれてしまった。それ以降、黒谷都(genre:Gray)の公演は何回か見に行っている。

『涯なし』というタイトルの公演は2015年の秋に六本木のストライプハウスで行われた人形演劇祭のときにも見ているはずなのだが、どんな舞台なのかまったく記憶に残っていない。それでもこれまでに見た黒谷都の舞台から、今回の作品がどのようなものであるかはだいたい予想がついた。そして公演はほぼ私の予想を裏切るものではなかった。

白い服、白い髪の毛、白い肌の等身大の少女の人形を黒子姿の黒谷が操作する。黒谷の繊細な操演は、魔法を感じさせるような優雅さでその人形を操る。はっとするような美しい場面がいくつかある。しかし場面の美しさはあっても、各シーケンスをつなぐ脚本が貧しい。人形と人間の驚異的なコンビネーションが生み出す夢幻の場面をいくつか提示しながらも、骨格としての脚本が弱いゆえに、その夢幻は孤立したままで深みのあるイメージの連鎖を作り出せない。
黒子だった黒谷が白い人形を操作する。50分ほどの上演時間のうち、30分ほどは無音の状態のまま、人形による舞踊が演じられる。いっそずっとこのまま最後まで行けばいいのにと思うのだが、この無音の状態での舞踊は維持されない。というか舞踊だけではスペクタクルを維持できないのだ。

操演者の黒谷がグリム童話の一部のようなものを語る。なぜこんなところで、こんなありきたりの、お約束めいた語りを入れるのだろうと私は思ってしまう。音楽も入る。黒子の衣装を脱ぎ、人形と同じ白い衣装と白い肌、白い髪の毛となった黒谷が動く。そして最後は人形が黒子となり、黒谷が白い人形となって入れ替わる。悪くない流れに思えるが、実はこの人形と人間の入れ替わるイメージはほとんど常套句、クリシェといっていい。このクリシェが魅力的に感じられないのは、黒谷の動きが人形の動きよりもはるかに凡庸に感じられること、そして後半に音楽が入り、音楽に時間の流れが制御される普通の展開になってしまうことによる。

人形と自分の身体をどう見せたいかという意志は表現から明確に伝わってくる。結局のところ、これは演劇である以上に「人形」劇なのだ。人形劇を見たい観客のための作品だ。人形という存在を偏愛する人たちのための演劇であり、演劇(ドラマ)の枠組みは人形を見せるための口実としてある。

私はむしろ人形という特殊な演劇的身体の特性が生かされた演劇を見てみたい。人形の造形のこちらをぎょっとさせるような美しさ、そして黒谷の卓越した操演技術がありながら、その魅力が、よりソリッドで適切な演劇的形式のなかで効果的に提示されていないのをもったいないと私は思ってしまう。何でこんな紋切り型の自分語りの「詩」を見せてしまうのだろう(もちろんそういう表現をしたいからなのだが)。脚本が弱いと思うのは、黒谷都の作品だけではない。これまで見てきた大人向きの人形劇は総じて脚本への関心が、人形の造形や操演技術に比べて薄いのではないかという印象を私は持っている。脚本への関心が薄いために、自分が紋切り型のイメージのなかで陶酔していることに気づかない。

こんなありきたりの自分語りをやらずに、メーテルリンクの芝居をやればいいのに、と私は思う。「マリオネットのために」と書かれたいくつかの一幕劇、そして『青い鳥』や『ペレアス』。『青い鳥』のチルチルとミチルだけを人形にして他を人間が演じるとか、あるいはチルチルとミチルだけを人間が演じ、他は全て人形にするとか、想像が膨らむ。大正期にはメーテルリンクの劇が人形劇で実際に上演されていた。人形劇の人形はノイズのない純演劇的な身体であり、そのストイックな演劇性がもたらす欠落ゆえに、特異な詩性と象徴性を自ずから提示することができる。メーテルリンクやイェーツを人形劇で見てみたいと私は思う。

 

私がこれまでに見た黒谷都の人形舞台で、私が圧倒的に素晴らしいと思っているのは、2015年5月1日に見た『淡野弓子<操り人形と歌の夕べ>~「ユトロ」とともに~』だ。これは声楽家の淡野弓子が舞台を構成した、音楽、語り、そして人形の共同作業が、奇跡的とも思えるような見事なポリフォーニーを奏でる複合的スペクタクルだった。この舞台で黒谷は井桁裕子が作った少女の人形ユトロを操演した。ただしこの人形は造形美術としての人形で、人形劇用のものではない。人形のパートは、武久源造の音楽、モンテベルディの《アリアンナの嘆き》、岡本かの子『狂童女の戀』の語りのなかに、置かれた。演劇ではないコンサートと朗読によるこの舞台が、高い演劇性を持ち得たのは淡野弓子が優れた読解力を持つ歌手であり、歌曲が内在するドラマ性を人形とともに効果的に引き出し、一つの世界として構成することに成功したからである。この複合的な表現の舞台のなかで、黒谷が操演する人形パートは埋没することなく、むしろ他の表現との関係性がもたらす相乗効果のなかで、その特異な存在感を印象づけていた。