閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

フェードル

  • 作:ジャン・ラシーヌ Jean Racine
  • 訳:渡邊守章
  • 演出:フランソワ=ミッシェル・プザンティ Francois-Michel PESENTI
  • 照明:西本彩
  • 舞台美術:鈴木健
  • 衣裳:すぎむらますみ
  • 総合プロジューサー:平田オリザ
  • 出演:松田弘子,根本江理子,辻美奈子,秋山健一,月村丹生
  • 劇場:富士見市 キラリ☆ふじみマルチホール
  • 評価:☆☆
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東武東上線で池袋から準急で30分,川越の手前にある埼玉の郊外都市の市民ホールでの公演.キラリ☆ふじみという名称のセンスが何ともトホホという感じである.最寄りの駅である鶴瀬から徒歩で25分とあったので,成増の自宅から原付で劇場に向かうことにする.40分ほどで到着.何にもなさげなところだなと思ったが,劇場のあるブロックは役所や図書館・体育館が固まっていて,その周りは田んぼである.遠方に新興住宅地が見える.典型的な日本の農村風景.ここで『フェードル』の上演とは何ともシュールな組み合わせである.劇場の裏手から表玄関に回ったのだが,裏手の出入り口では上演スタッフらしいフランス人が呆然とした表情で田んぼを観ながらたばこを吸っていた.
客席は300席ほどか.ほぼ満員だったが,いったい彼らはどこからやってきたのだろう.
傾斜があって舞台は見やすい.舞台は抽象的でシンプルなもの.照明は徹底的に抑制されていて,舞台上のろうそくとそのろうそく光を補足するような上方からのか細い光.衣裳が印象的で,濃いえんじ色で着物と洋装のドレスを折衷したようなボリュームあるデザイン.抑制された照明と衣裳,シンプルな舞台装置は,作品の象徴性を際だたせたセンスのあるものだった.古典の硬質な文体にいかにもふさわしい象徴性が表現されていた.ろうそくの光が作り出す陰影はラ・トゥールの絵画を連想させる.ただし舞台が常に暗いために猛烈な眠気に誘われる.役者の演技と発声は,様式化が中途半端で,時に滑稽に思われる.台詞の訳は渡邊守章氏のものがベースだったようだが,あの訳は読書のためには問題ないが,舞台上で聴きとるには堅すぎて不適.言葉が耳に残らなず,音が上滑りしていく.役者の発声の問題もあるのだろうけど,ラシーヌ劇の日本語上演の難しさを改めて認識する.今回の演出プランも視覚的には古典の典雅な風格と均整美をうまく表現しているものの,ラシーヌの詩句がすでになじみのものになっていて,華麗な修辞の連鎖を愉しむことができるフランスでの上演ならともかく,ラシーヌ劇のような過度に修辞的な詩劇の素養がない日本での上演では効果的だとはいえない.むやみに高踏的で難解で,しかも空疎で意味不明の言葉の羅列を聞かされているような二時間四〇分.苦痛だった.実質上演時間の2/3は半睡状態.フェードル役の女優はちょっと鈴木京香に似ていて,えくぼができるなかなかかわいらしい人だった.ぼーっとその女優の顔を見て気を紛らす.
日本(さらに富士見市のような郊外地方都市の公共施設で税金を投入して)でラシーヌ劇を上演することの意義について考えこんでしまうような公演だった.ラシーヌの『フェードル」,確かにフランス古典劇を代表する文句なしの傑作である...しかしフランス演劇業界と関わりのあるようなおたく的観客を除いて,日本の誰があの芝居を本当に「おもしろがる」ことができようか?あの人工的で修辞的でそれゆえ空疎に感じられる言語のゲームのような作品を? あの作品を日本人が「面白い」と思えるようになるには,相当屈折した道のりが必要なのではないだろうか? そこまでして日本の劇団が「やりたく」なるような作品だろうか?
ク・ナウカのような様式性の高い舞台を作ることのできる団体なら,刺激的な『フェードル』を提示することが可能かもしれないなどと思う.