チェーホフの『三人姉妹』は劇中劇として上演される.とある国のとある劇場で20年ぶりの『三人姉妹』上演初日,芝居がはじまってしばらくすると劇場は理想に燃える左翼ゲリラの集団によって占拠される.左翼ゲリラの監視の中,ゲリラの若者の舞台への介入を許容しつつ『三人姉妹』の上演が続けられるという趣向.入れ子構造になった現実と虚構の行き来がよく構想されていて,芝居上の現実,ゲリラに占拠された劇場の現実,そしてこの芝居を今見ている我々の現実の三つの次元で,物語は展開し,その境界は曖昧になっていく.こうした構造は6月に見た坂出作品『いとこ同志』でも効果的に用いられていた.
紀伊國屋ホールの客席の前半分は,ゲリラの現実のための空間.劇場内を戦闘服に身を包んだゲリラが行き来する.舞台上では『三人姉妹』が,ゲリラの現実に分断されつつも,一応ひととおり演じられる.この劇中劇の『三人姉妹』の出来もいい.劇全体の構造は重層的だが,劇中劇自体は案外「正統的」に演じられ,5月に見たTPTの舞台よりもシャープな感じ.チェーホフの台詞の叙情の美しさを再発見する.
観客をいきなり劇内空間にひきいれるオープニングと現実と舞台上の虚構が融合した中での『三人姉妹』のラスト・シーンも美しい.しかし中盤はかなりたらたらとした平板さをかんじさせる進行で,たびたび意識を失ってしまった.かなり見る方も集中力を強いられるため,寝不足での観劇はきつい.
劇場を占拠した左翼ゲリラに対する理想主義的なファンタジーにアナクロニズムと違和感を感じ,若干しらけたところも.
また劇場を占拠するゲリラという「仕掛け」は日本人にとってはあまりにも別世界の出来事ではないだろうか.今の日本人にとって「政治」の問題がリアリティを持つことができるのは,この作品にあるような左翼的イデオロギーの文脈ではないはずだ.
それなりの満足感をエンディングで得つつも,うーん.