閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2022/04/17 平原演劇祭2022第7部「鹿ヶ谷 c/w その野郎とタクシー姐ちゃん」@御嶽山駅近くの民家

2022/4/17(日)13:00-15:00

東急池上線御嶽山駅集合(会場は民家)

「鹿ヶ谷c/wその野郎とタクシー姐ちゃん」(田宮虎彦、ハン・ウォングク)

出演:夏水

 昨年末の崖からの転落事故による脳挫傷というダメージにもかかわらず、平原演劇祭2022は第7部となった。昨年よりハイペースかもしれない。公演頻度が高くなったのは一昨年あたりから、一人ないし二、三人の小規模編成による田宮虎彦(1911-1988)の小説の朗読が入るようになったからだ。田宮虎彦は今ではもうほぼ忘れられた作家と言ってもいいだろう。平原演劇祭主宰の高野竜がこの作家に関心を持つようになったきっかけを私は知らない。私は平原演劇祭での田宮虎彦作品の朗読でこの作家を知った。田宮の作品は、私小説的なものと架空の藩である黒菅藩の滅亡を描く連作虚構歴史小説の二系統があるが、正直なところ「黒菅藩」ものは、地味で、陰鬱で、しかも私自身が歴史小説の題材として人気がある幕末の佐幕派ものに関心が薄いので、平原演劇祭で朗読される物語の内容そのものについては、面白いと思ったことはない。平原演劇祭の場合は、どちらかというと語られる内容よりも、それがどこでどのように上演されるかという状況のほうを楽しんでいることが多い。田宮虎彦の小説は平原演劇祭がらみで読むようにはなったが、私は黒菅藩ものよりも、現代もののほうが小説としてははるかに好きだ。歴史物も現代ものも淡々とした語り口で、題材を他人事として観察し、記録し、描写しているかのような乾いた雰囲気がある。

 田宮虎彦に関心を持つ人が少ないからか、あるいは朗読というスタイルが地味だからか、平原演劇祭の企画のなかでも《田宮虎彦作品朗読》シリーズは観客動員数が少ない。私が参加したなかでも、私を含め観客が二人というのが何回かあった。今回は上演場所へのアクセスが容易であり、読み手が高野竜ではなく、平原演劇祭常連女優の夏水だったからか、私を含め5名の観客がいた。ちなみに観客はみな男性だった。そういえば平原演劇祭の常連観客はおっさんばかりのような気がする。

 上演会場は東急池上線御嶽山駅から歩いて5分のところにあるごく普通の民家の二階だ。昨年末の転落事故以来、高野竜の健康状態はずっと思わしくない。転落事故以前から公演日当日は疲労困憊でヨレヨレであることが常態ではあったけれど、4/17はもう身体を支える体力自体がかなり衰えているのではないかという感じだった。twitterでの盛んにツィートしていて、平原演劇祭もハイペースで行っているので、事故の後遺症の重大さを、私は実際よりかなり低く見積もっていたのかもしれない。今年の平原演劇祭上演計画は昨年から予告されてはいたものの、高野竜としては、今の状態でできることをできるうちにやっておこうということなのだろう。

 前回の公演は埼玉県の山中縦走という体力的にかなり過酷で長時間にわたるものだったが、今回は上演時間がトータルで90分、屋内で座ってみるという穏やかな平原演劇祭だった。

 まずは男装の夏水による田宮虎彦「鹿ヶ谷」の朗読公演。上演時間は一時間ほどだった。語り手は若き頃の作者の分身であり、一人住まいの婦人宅に下宿する貧乏学生だ。父親との折り合いが悪く、この学生は京都の下宿で貧窮の生活を送っている。この下宿には語り手のほか、下宿の女主人と恋人の関係にある医局に務める若い医師(?)や学生の下宿人(最初は三名いたが、その三名が下宿を出たあと、その三名の友人の別の一名が強引に下宿人となった)が住んでいた。物語のあらすじについては、以下のブログに詳しく記されている。

2ndkyotoism.blog101.fc2.com

 最後のほうまで語り手は、ほぼ傍観者として、下宿屋の女主人とその他の下宿人の様子を記している。自分自身の父親と母親とのやりとりの描写もあるが、それについても人ごとのように記している。書かれているのは自分に関わる出来事にも関わらず、その文章には自分が当事者であるような実感が伴っていない。夏水は登場人物を声色や表情の変化によって演じ分けるが、そのやり方は抑制されたものだった。乾いた客観的な、どこかつきはなしたような冷静さのある田宮虎彦の文体には、暑苦しいオーバーアクションの芝居はふさわしくない。

 基本的に同じ場所で立ったり、座ったりしながら演じていて、ベランダには一度か二度移動しただけ。しかし最後のほうで、ベランダと屋内を分ける障子の敷居に寝っ転がって朗読した。

 語り手は最後の最後になって主体的に自分の語る物語のなかに関わっていく。夏水が敷居に寝そべったのはその場面だったと思う。軽ろやかかに淡々と演じられていたのだが、小説の結末の暗さとやりきれなさに、ずーんと気分が沈んだ。

 夏水による「鹿ヶ谷」の公演のあとは、高野竜が延辺朝鮮族自治州を旅行したときに現地で購入した朝鮮語現代戯曲集に所収されている「その総角とタクシーアガシ」の読み合わせを行った。高野が延辺朝鮮族自治州を旅行したときのエピソードや劇場でなく、彼の地では演劇が劇場ではなく、野外の広場などで上演されることなどを聞いた。

 

 朝鮮の野外劇というと私はパンソリしか思い浮かばないのだけれど、「その総角とタクシーアガシ」は現代を舞台とした台詞劇だった。原作は長編劇のようだが、高野竜がリハビリもかねて渾身の力でこの日までに翻訳したのは冒頭の三頁だけだった。それも途中で唐突に終わっている。「タクシーアガシ」も出てこない。冒頭に主題歌があり、下水・排水労働者の二人の男性の会話、続いて、おそらく出会い系サービスで知り合った下水・排水労働者の男性と紡績工場労働者の女性がはじめて会う場面のぎこちないやりとりがあるだけだ。緊張した男がベンチに座って「ああ──暑い。」と言う台詞で終わる。水が女性労働者役をやり、男二人は観客がやった。5分ほどで読み終わってしまう長さだったので、男役を変えて二回読んだ。

 ラブコメマンガの冒頭のような短く他愛のない断片だったが、なぜかそれが案外面白かった。二回目にやったときは、幕切れ台詞「ああ──暑い。」がおかしくて、私は爆笑した。

 午後一時に開始して、午後二時半に終了。平原演劇祭でこんなに早く終わったことはなかったかもしれない。屋内で座っていただけなので体力の消耗もなかった。短く、穏やかな平原演劇祭で若干物足りなさは感じたのだけれど、こうやって振り返って反芻してみるとじわじわと観劇の楽しさがわき上がってくる。こういうゆるい平原演劇祭も悪くない。