閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2022/07/17 平原演劇祭2022第13部「#カレー市民」

平原演劇祭2022第13部「#カレー市民」

  • 日時:2022/7/17(日)14:00
  • 場所:目黒区烏森住区センター調理室(中目黒駅徒歩15分)
  • 料金:1000円+投げ銭(食事付き)
  • 演目:「下司味礼讃」(原作:古川緑波)、「カレー市民」(原作:牛次郎)
  • 出演:池田淑乃、夏水、片山幹生、高野竜

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1.出演依頼 

 平原演劇祭主宰の高野竜から「カレー市民」の出演依頼のDMが届いたのは6/8だった。

どもです。「カレー市民に俳優として出演しませんか」という無理めのお誘いであります。いかがなものでしょうか…。

 二つ返事で快諾。私が平原演劇祭を見るようになって10年以上になるが、出演依頼が来たのは初めてだ。実は前から機会があれば観客としてではなく、出演者として平原演劇祭に参加してみたいものだとは思っていたのだ。

 『包丁人味平』(牛次郎原作・ビック錠画)の名編「カレー戦争」のエピソードを劇化することは高野のツィートを読んで知っていた。『包丁人味平』は1970年代に『少年ジャンプ』で連載された料理マンガだ。私はこのマンガが好きで、連載終了後にいくつかのフォーマットで単行本化されたものを何回か通読している。

 「カレー戦争」は、東京の郊外駅の線路を挟んで東西にオープンした百貨店内のカレー店を舞台に展開する。味平はカレー屋となり、インドで修行を積んだカレーの帝王、鼻田香作と、カレー・バトルを繰り広げるのだ。味平と鼻田のカレーの人気で、デパートの集客が大きく左右され、駅前の人の流れが変わってしまうというダイナミックすぎる荒唐無稽さが印象に残るエピソードだった。食のバラエティが乏しかった昭和の時代には大衆食としてのカレーの存在は、現在よりはるかに大きなものであったが、さすがに百貨店内のカレー店が人の流れに決定的な影響を与えるなんてあり得ないだろうとは、子供の頃に読んだ時から思っていた。

 高野は「カレー戦争」の舞台版のタイトルを、ロダンの有名な彫刻にひっかけて「カレー市民」としていた。単行本では14巻から19巻が「カレー戦争」のエピソードだ。私はさっそくkindle版を購入して、「カレー戦争」を久しぶりに再読した。私は当然、味兵の料理対決のライバルのなかでもとりわけインパクトがあるキャラクターである鼻田香作と味兵のカレー対決のエピソードを高野が劇化すると思っていた。麻薬成分の入ったスパイスで客を夢中にさせてしまう「ブラックカレー」を高野が作って、観客に供するのではないかと思ったのだ。しかし高野が選択したのは鼻田香作が出てこないエピソードだった。地下街の道をはさんで両側にあるカレースタンドの客の入りの違いは、カレーそのものの味ではなく、カレーに添えられた福神漬けが原因だったことを味兵が発見する「地下街の秘密の巻」だったのだ(単行本18巻)。そして私に割り当てられた役は、「カレー戦争」における味兵のパートナー、カレー好きの港湾労働者の佐吉だった。

2.稽古

 平原演劇祭では事前に俳優が集まってする稽古はあまり頻繁には行わないらしい。近年は特に高野の体調が思わしくなかったり、新型コロナの感染に対する用心などから、事前の稽古は俳優の自主稽古が主で、公演当日にいきなり本番というかたちが多いようだ。高野の戯曲はモノローグ劇が多いこともあって、そういうやり方でもなんとかなる。しかし今回の芝居は4人の人物の台詞のやりとりがある芝居だし、しかも私は演技経験がほぼ皆無のド素人だ。稽古なしでぶっつけ本番はありえない。

 最初の稽古は6/25(土)の午後に目黒区の菅刈住区センターの会議室で行うことになった。脚本は出演依頼のあった翌日、6/9に高野からLINEで送られてきていた。私の出番は5分ほどだが、その短さもあって稽古初日の当日まで脚本にはさらっと目を通した程度だった。これくらいの分量ならなんとかなるだろうと思ったのだ。脚本を覚えるよりも、佐吉の扮装用の腹巻きやらくだシャツの購入、instagramで「外食カレーしばり」といった企画を一人でやって気分を盛り上げていた。6/16から7/19にかけて私は30店のカレーを食べた。この期間中はできるだけ違った雰囲気のカレーを食べるように心がけた。カレーは前からよく食べていたけれど、「外食カレーしばり」で、私は自分の生活圏のなかに驚くべき数のカレーが存在していたことに気づいた。この期間中に食べたカレーのなかで最も印象的だったカレーは、江古田の住宅街のただなかにひっそりあるカレースタンド、《スープとカレー》で食べたソーキカレーだ。このカレー屋は週に三日ほどしかやっていないようだが、また行って別の種類のカレーも食べてみたい。

 
 
 
 
 
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 高野からは可能なら本編の演劇が始まる前にごく短い芝居をやって欲しいというリクエストがあった。『幸福の黄色いハンカチ』で刑務所から出所した高倉健がビールを飲む場面をコピーしてくれというものだった。


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 「なんで『味平』演劇の前に、こんな短い芝居を付け加えるんだ? カレーと関係ないじゃないか」と思ったが、ごく短いシーンだし、台詞も二言だけなので、このリクエストを承諾した。

 私以外の出演者は三名。私は味兵の相棒の佐吉役。味平役は女優の池田淑乃だ。昨年末、平原演劇祭のジョジョ劇「川尻しのぶ伝」でタイトルロールを演じた若い女優である。

otium.hateblo.jp

 地下街のカレー屋のうち、はやっていない方の店の店主たかだは、平原演劇祭の常連女優夏水が演じる。もう一方のはやっている店の店主ジャンボは、高野竜が演じる。高野竜はほかに、古川緑波の『下司味礼賛』の朗読を行う。

 6/25の稽古は和室の会議室で行われた。私は台詞が全く入っていなかったが、池田も夏水も高野も同様だったので安心した。台本を見ながら全体を流してみるといった感じのゆるやかな稽古だった。高野は演技について特に指示を与えない。池田が積極的に演技のやりかたについて提案し、しかもその提案がとても的確であることに私は感心した。池田とは話しをするのはこのときがはじめてだったら、気さくでざっくばらんな人だった。夏水は稽古のときも、これまでの平原での本番と同じようなちょっと冷めた距離感を保つ。稽古時間は3時間ほどだったが、「この一回だけの稽古では不安だ、実際にカレーを食べてどういう感じになるか確認しないと安心できない」と池田が言うので、もう一度、今度は公演会場である目黒区烏森住区センター調理室を借りて、各自が持ち寄ったカレーを実食しながら稽古をすることになった。私も一回だけの稽古では不安だったので、池田の提案はありがたかった。本番の三日前の7/14(木)夜に稽古を行うことになった。

 7/14(木)の夜は通し稽古を三回ほどやった。池田と夏水はかなり台詞が入っていて、それぞれ演技プランも固めていた。私は台詞はまだほとんど入っていない。確固たる演技プランもない。「とにかくマンガっぽく、大げさにやったほうが面白いはずだから」という池田の言葉にしたがって、できるだけそういう具合にやってみるが、ちょっと照れがはいってギクシャクとしてしまう。この日のカレーは市販のレトルトカレーを使ったが、本番では高野が公演会場である調理室でカレーを作ることになっていた。この芝居のキーとなる福神漬けはわざわざ浅草の福神漬けの本家みたいな店にまで買いに行ったらしい。しかし本番ではこの老舗の福神漬けではなく、ミャンマーのお茶の葉の漬物をカレーに添えると高野は言う。このお茶の葉の漬物がめっぽう美味しいらしいのだ。

「カレーはどうするんですか? スパイスから高野さんが調合するの?」と聞くと、

「いやいや、市販のルー、《こくまろ》を使います。それで十分です。要はうまくはないけれど実は美味しいってカレーを作るのがポイントなんで」と高野は言う。

「安いルーのほうがいいんだったら、イオンのTopValuのやつだったら《こくまろ》より安いよ」と私が言うと、高野は「いやTopValuはまずいでしょ。それは選んじゃいけない。やはり《こくまろ》で」と言う。普段TopValuのルーのカレーを家で作って食べている私はひそかに侮辱されたような気分になった。

 高野は高倉健の芝居のコピーである前座芝居で、私にビールを飲むだけではなく、高倉健がその店で注文したカツ丼と醤油ラーメンも食べて欲しいというリクエストをした。「このためにカツ丼とラーメンの準備もしなきゃいけないんで、大変だよ」と高野は言う。下戸の私はビールは飲めない。ビールはノンアルコールにしてくれと頼む。ちなみに高倉健も普段は酒は飲まないそうだ。カツ丼とラーメンについては最初に教えて貰ったYoutubeのクリップでは食べる場面が入っていなかったし、ダイエット中の私はここでそんなカロリーを大量摂取することに抵抗があった。あのビールを飲む場面を要は見せればいいんだろと思っていたので、

「ビールだけでいいじゃん。カツ丼とラーメンを食べるのは勘弁してくれないかな」と頼むが、やはりカツ丼とラーメンの完食は必須とのこと。私がカツ丼とラーメンを食べているときに、高野が古川緑波の『下司味礼賛』の朗読を行う手はずになっているとのことだった。「いや、まあ申し訳ないけれど、食べてください」。仕方ない。

 高野は本番で客に供し、そして劇中で私と味兵が何回も食べることになるカレーには強いこだわりを持っているようだった。二回目の稽古の前日に以下のようなツィートをしていた。

 平原演劇祭では調理師資格を持っている高野が料理を出すことがしばしばあるが、今回は料理演劇であり、カレーこそが主役といってもいい芝居だ。観客の期待値も高いだろうし、へんなものを出すわけにはいかないだろう。ベースは《こくまろ》でも高野独特の工夫が入ったカレーになるはずだ。本番の開演は14時に設定していた。「本番当日、出演者は何時に会場入りするのか?」と高野に聞くと13時と答える。観客に供し、出演者も公演中に食べるカレーを、開演前に作る必要があるのに出演者が13時会場入りで大丈夫なのか? と思ったが、「下ごしらえはしているので30分ぐらいあれば問題ない」と高野は言う。

 二回目の稽古は本番三日前というのに台詞が全く入っていないことにさすがに焦った。高野はともかく、女優二人はほぼ台詞が入っていた。5分ぐらいのごく短い場面にも関わらず覚えられない。実は本番当日まで台詞は完全には入らなかった。台詞を覚えるのがこんなに難しいとは思わなかった。短期記憶能力に欠陥があるかと思うくらいだ。台詞を記憶して、的確にそれを言えるというだけですごいことだったことがわかった。

3.本番の日(7/17)

 13時会場入りで、それより早く着いても調理室には入ることができないのだが、そわそわした気分で落ち着かないので、かなりはやめに家を出た。目黒駅から公演会場の目黒区烏森住区センターまでは徒歩15分ほどの距離だ。晴天の暑い日だった。会場に12時半頃に到着する感じで烏森住区センターに向かう坂道をぶらぶら歩いていたら、向こう側から高野の車がやって来た。高野は車内にはいない。高野夫人だけが乗っている。高野夫人はウインドウを下げて、

「高野の脳がストライキを起こしていて。今日の公演、大丈夫かなあ……」と私に伝え、走り去った。「あれ? どこに行くのかな?」と思ったのだが、このときは車を駐車する場所を探していたことが後でわかった。

 私は居あわせたことはなかったのだが、高野はここ数年、公演中に突然、昏倒してしまうことが何回かあった。昨年末に崖から転落して脳挫傷を負って以降、高野は心身の不調に苦しみながらも公演を打ってきたが、このところは脳挫傷のダメージからも大分回復してきた感じがあった。公演当日の早朝は、躁状態になっているんじゃないかという勢いで、twitterでつぶやいていて、私は「おいおい、本番今日なのに大丈夫かよ」とちらりと思っていたのだった。早朝の怒濤のツィートの直後に、ヒートアップした高野の脳は「ストライキ」を起こしてしまったことになる。

 私が会場に到着して10分ほどすると、他の二人の出演者、池田淑乃と夏水、そして高野夫人が会場にやってきた。高野竜の姿はない。ただ彼が家から持ってきた芝居のための小道具、カレーの材料などは、烏森住区センターの入り口の地面に並べてあった。

 公演は、最初に私の前座芝居、次いで高野の「下司味礼賛」、観客にカレーを振る舞う休憩をはさんで、池田、夏水、私、高野による「カレー市民」という具合になっていた。「カレー市民」では高野の台詞はごくわずかであるからなんとかできるかもしれないけれど、「下司味礼賛」は高野の一人語りだし、何よりこの公演では観客に供し、「カレー市民」でも食べるカレーの存在が肝心要なのだ。高野竜はどこにいたのか、われわれが公演会場の調理室に降りようとしていたときに、よたよたの状態で現れた。ぼーっとしていて、ふぬけの状態だ。ふにゃふにゃと意味不明なことを言っている。ほぼ廃人同様の高野の様子を見て

 「これはもう公演は無理でしょ。まあしかたないね」

 と私は思った。高野は立つこともできないありさまで、調理室のすみで横になり、そのまま意識を失った。結局高野は公演が終わるまでこんな状態だった。

 

 池田、夏水、高野夫人は、この状況でも公演中止は頭になかった。客が来る前にとにかくカレーを作らなければいけない、ということでカレーを作り出した。カレーの材料の下ごしらえは高野竜が用意していた。観客として早めに会場に来た酒井氏がカレー作りを手伝ってくれた。ごはんも炊かなくてはならない。そして前座芝居で私が食べることになるカツ丼と醤油ラーメンも作らなくてはならない。淑乃は台詞をさらいながら、準備作業を行った。私は何に手を出したものかわからなくて、おたおたと他の面子が料理の準備を進めるのを眺めるだけだった。いや自分の台詞がちゃんと入っておらず、自分の芝居のことで頭がいっぱいで、料理作りに加わる心の余裕がなかったのだ。

 高野の一人語りだった『下司味礼賛』はどうするか? この朗読の最中、私はカツ丼とラーメンを食べ続けなければならない。「もうこれは私がやるしかないでしょ」という感じで、『下司味」の朗読は夏水がやることになった。『カレー市民』で高野に割り当てられていたカレー屋たかだの役も夏水が担当することに。『カレー市民』で夏水は本来の役であるカレー屋ジャンボに加え、もう一方のカレー屋も急遽演じることになった。さすが平原演劇祭の常連俳優だ。本番当日に主宰の昏倒という事態でも肝が据わっている。私以外はみんなプロだ。

 私が前座芝居で食べるカツ丼とラーメンの準備が予定されていた開演時間に間に合わないかもしれないということで、最初に『カレー市民』をやろうかという案も出たが、ここでようやく、私は自分が出る前座芝居の意味がわかった。今回の芝居のテーマは「大衆食の魅力」だ。前座芝居で私が演じるのは、『幸福の黄色いハンカチ』の一シーンで、刑務所から出所した高倉健が大衆食堂で食事を取る場面だ。ビールを大事そうに飲む演技が印象的だが、そのあとカツ丼と醤油ラーメンという定番メニューをガツガツと食べるという流れが、今回の公演では重要なのだ。私がカツ丼と醤油ラーメンと食べているのを背景にして、大衆食の魅力を語る古川緑波の『下司味礼賛』が朗読される。そのあと観客に日本の大衆食の代表であるカレーライスを供し、味平と佐吉による「カレー戦争」で締めくくるという流れになっているのだ。となると上演順序は予定通りやったほうがいい。カツ丼と醤油ラーメンの調理は高野夫人が担当した。

 14時の開演予定時間にカツ丼と醤油ラーメンは間に合わなかった。観客は10名ほどだったと思う。30名くらい観客が来たらどうしようと心配していたのだが、新型コロナ感染が広がっていたからか、宣伝が今ひとつ浸透していなかったためなのか、思っていたより観客数は少なかった。高野竜は「今回の公演は材料費もかかっているので観客は多ければ多いほどありがたい、調理室に入りきれないほど来た場合は隣の部屋が空いているのでそこも借りたらいい」と言っていたが、これは杞憂だった。結果的には、われわれの側も主宰の昏倒でかなりバタバタと準備を進めるはめになったので、これくらいの観客数でちょうどよかったのかもしれない。

 カツ丼とラーメンの準備ができたところで、私の前座芝居がはじまった。予定より10分遅れくらいの開始だった。刑務所から出たばかりの高倉健がビールを飲み、カツ丼とラーメンを食べる芝居である。

以下、上演中の写真はすべてぼのぼのさん(@masato009)に提供して頂いたものです。ぼのぼのさん、ありがとうございます。

 私は下戸なのでビールはノンアルコールだ。ノンアルコール・ビールも初めて飲んだ。おいしいとは思わなかった。台詞は「ビールください」と「醤油ラーメンとカツ丼ください」の二言だけ。カツ丼のボリュームがフルサイズなのに内心ギョッとした。カツ丼と醤油ラーメンだけでなく、「カレー戦争」では佐吉役でカレーライスを何皿か食べなくてはならないのだ。

 私がビールを飲み終わり、カツ丼と醤油ラーメンをむしゃむしゃと食べ始めてしばらくすると、夏水が「下司味礼賛」の朗読を始めた。夏水の朗読を聞きながら、ひたすら食べる。このカツ丼と醤油ラーメンは完食しなくてはならない。醤油ラーメンはマルタイ棒ラーメンだったが、これが思っていたより美味しかった。マルタイ棒ラーメンは以前から気になっていたのだが、食べたのはこれが初めてだった。分厚いチャーシューが何枚か入っていてこれが実に美味しい。後で聞くと、このチャーシューは高野の自家製とのこと。しかしカロリーを考えるとチャーシューはないほうがよかったかもしれない。カツ丼もラーメンもフルサイズだったため、この2食を食べた時点で私は満腹の状態だった。

 『下司味礼賛』が終わると、観客へのカレータイムとなる。その後に上演される「カレー市民」は地下街で通路をはさんで向かい合う二つのカレー屋のうち、一軒が大はやり、もう一軒は閑古鳥の謎を味兵が解くという話だ。二店の客の入りの違いはカレーの味の優劣ではなく、カレーに添えられる福神漬けの有無が原因だったというのがその答えになっている。そこで観客へのカレータイムでも、カレーを供する場を二箇所設け、一方では福神漬けを付けて、もう一方では福神漬けなしで、観客に提供することにした。観客はどちらか一方からしかカレーを取ることができないという風にしたのである。ところが観客はそんなこちらの意図など知ったことではない。片方の側のみ福神漬けが添えられると知ると、福神漬けだけを補給しに来る客が何人もいた。

 この福神漬けは高野竜が浅草の老舗で仕入れてきたもので、実際かなり美味しい福神漬けだった。「あ、こっちは福神漬けなしでお願いします」と観客に言ったところで、「なんで?」という話になってしまう。結局、片方は福神漬けあり、もう片方は福神漬けなしというこちらのもくろみはほぼ無意味なものになってしまった。高野が別に用意した、高野曰く「絶品」というミャンマーのお茶の葉の漬物は、ドタバタのなかで客に出すのを忘れてしまっていた。

 カレーのルーは市販のハウス《こくまろカレー》のおそらく中辛。具はタマネギと挽肉だ。タマネギがポイントらしい。挽肉にしたのは客が何人来ても対応出来るようにということだった。20人ぐらい観客が来るのではないかと思って作ったので、大分余ってしまった。味は、うーん、まあ普通に美味しいというか、微妙というか、そんな感じのカレーだった。

 カレータイムは20分ほどだったか。カレータイムのあと、今回の上演の本編とも言える「カレー市民」が始まった。「カレー市民」の実質的な上演時間は20分ほどだと思う。そのうち私が演じる佐吉が登場するのは最後の5分ほどだ。物語については上述してあるとおり。ほぼ原作の『包丁人味平』そのままである。

 私はカレー好きの港湾日雇い労働者の佐吉になるため、頭髪を角刈りにしようと思ったのだが、近所の1500円カットで「角刈りにしてください」とリクエストすると、「それはできません」と断られた。角刈りは実はかなり技術が必要な髪型らしい。それでちょっと角刈りっぽいスポーツ刈りにした。腹巻きとらくだのシャツは、近所の下赤塚駅前にある激安服屋「のとや」で購入。法被は私の色である赤色のものをネットで購入したが、これはオーソドックスな紺色のほうが古典的な労働者っぽくてよかったかもしれない。

 高野竜からの演出の指示は「大げさな臭い芝居で、できるだけ暑苦しく」ということだったように思う。吉本新喜劇の定型ギャグみたいなものを入れて欲しいとかも。実際にやってみるとけっこう照れるものだし、面白いことは思いつかなかった。あと一箇所、歌うような節回しをつけて台詞を言ってくれ、という指示もあった。味平役の池田淑乃と高野竜が昏倒してしまったために二軒のカレー屋の両方を演じることになった夏水は本職の俳優だけあって、いろいろな演技上の工夫を考えていた。私はとにかく台詞を覚えるに必死で、観客にどう見せようかまでは頭が回らなかった。まあ高野竜はそれでいい、と思って私に声をかけたのだと思うが。最後に私こと佐吉が退場する場面では、歌いながら、そして踊りっぽいジェスチャーをしながら退場するようにという指示があったので、二回目の稽古の時、その場で頭に思い浮かんだ中村雅俊のヒット曲《ふれあい》を歌いながら退場、というわけのわからないことをやった。カレーは劇中で5皿食べなくてはならなかったけのだけど、カツ丼と醤油ラーメン完食のあとのカレーの連続攻撃はやはりきつすぎた。結局、どの皿も半分ほどしか食べることができなかった。

 二軒のカレー屋を夏水ひとりでやるのは全くの想定外だったのだが、タイミングを見計らって二軒のカレー屋のそれぞれの場所に移動し、別人物を演じるというのは喜劇的効果抜群で、高野竜と夏水の二人で演じるよりかえってよかったぐらいだった。

 終演は午後4時を予告していたが、それより早く午後3時20分頃には全プログラムが終わってしまった。主宰の高野竜は公演中はずっと昏倒していたが、公演終了間際に目を覚まし、ぼんやりしたおじいさんのような顔でうわごとみたいな挨拶を観客にしていた。

 終演後、大量のカレーとごはんが余った。皿に盛ってしまった食べかけのカレーは、残飯として持ち帰るか、あるいは食べきらなくてはならない。残飯になるのはしのびなかったので、ない食欲を振り絞ってなんとか食べた。皿によそっていないカレーとごはんはビニール袋に分けて入れて、持ち帰った。