閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

劇団肋骨蜜柑同好会『白痴』

次回公演情報 | 劇団肋骨蜜柑同好会

 

  • 原作:坂口安吾「白痴」
  • 構成・演出:フジタタイセイ
  • 美術:海月里ほとり
  • 出演:笹瀬川咲 (劇団肋骨蜜柑同好会)、石黒麻衣 (劇団普通)、兎洞大、小島望、るんげ (肉汁サイドストーリー)
  • 劇場:新宿眼科画廊地下
  • 上演時間:75分
  • 評価:☆☆☆

 

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登場人物表では「人間」役がひとり、その他は豚、犬、鶏、家鴨となっている。豚となっている役柄が白痴の女の役だ。

坂口安吾は私が最も大きな影響を受けた作家であり、高校時代に全集レベルで読んでいる特別な作家だ。既に自分のなかに安吾の文学についてのあるべきイメージがあるがゆえに、どうしても厳しめに見てしまう。

フジタタイセイ構成・演出の「白痴」は、原作の世界をほぼ忠実に演劇化した作品だった。壁際に設置された二つの観客席にはさまれた、廊下のような細長いスペースが演技エリアとなる。中央には畳が二畳敷かれている。「人間」(これは物語の語り手である「伊沢」である)以外の登場人物は、それぞれ口の部分に豚、犬、鶏、家鴨のマスクを付けたままだが、この動物扮装のままで他の登場人物をも演じる。小説の地の文がそのまま朗読される。

坂口安吾は高校時代に熱中して読んだ作家だが、その後は折りに触れてしか読んでいない。「白痴」も長らく読んでいないが、小説の世界がほぼそのまま再現されるので、舞台を見ているうちにそのディテイルも浮かび上がってきた。「白痴」は繊細でロマンチックな物語だ。そこでぬけぬけと表される自嘲と虚無感が、今の自分からすると気恥ずかしい。安吾はその語り口ゆえに本質的にファルス作家だと思った。

舞台の情景は「白痴」の演劇的再現あるいは解説のようなものに感じられた。語りの内容を、絵本でわかりやすく提示されるような感じである。しかしもし舞台が小説の演劇的説明に過ぎないのであれば、敢えて舞台化する必要はないではないか?そんなことを思ってしまうような退屈な舞台だった。中途半端に演劇化されたものを見せられるよりは、安吾の言葉をテクストとして読み取り、そこから直接頭の中にイメージを作り出したほうがいいではないか。俳優の身体と凡庸な演出で、縮こまった「白痴」を見せられるよりも。舞台で「説明」するのであれば、こちらをぎょっとさせるくらいの精度で徹底的に作品世界を立体化させて欲しい(例えばハネケによるカフカの『城』のように)。そうでなければ、演出家のアイディアと俳優の身体で、テクストの読解では誰もが気づかなかったような新たな解釈の可能性を示すような舞台が見たい。

この熱き私の激情〜それは誰も触れることができないほど激しく燃える。あるいは、失われた七つの歌

www.parco-play.com

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作品の題材にせよ、宣伝のしかたにせよ、私のような中年おやじは観客のターゲットとして想定されていない舞台作品なのだが、ケベックの女性小説家の原作をケベック人女性演出家が翻案・演出した作品ということで見に行った。

マリー・ブラッサールはケベックの演出家のなかでも注目されている存在のようだ。ルパージュと長年一緒に仕事をしたそうだが、一辺2メートルほどの正方形のボックス10個を2段にならべた舞台美術の美しさ、センスのよさは、確かにルパージュを連想させる。音楽もいい。ただし日本語の歌詞の歌は今一つだった。

七人の女性キャストが、元高級娼婦の作家で36歳の若さで自殺したネリー・アルカンのテクストを、各ボックスのなかで読み上げるモノローグ劇。アルカンのテクストはいずれも文学的な表現に彩られた私語りだ。

俳優も美術も悪くないのだけれど、今一つその表現が空回りして、心に響かないのは、私がこの作品の世界にあまり興味を持てないことに加え、物語と演出スタイルが日本人女優にマッチしていないからだと思った。華奢な日本人女性の身体は、ネリカンのテクストの世界とあの演出では、表現に説得力を持ち得ない。

客席は空いていた。この七人のキャストでも集客が厳しいのか。興行は難しい。招待客がたくさん混じっているような感じがした。「この熱き私の激情」という日本語タイトルのセンスもなんかなあという感じがする。原題はLa fureur de ce que je penseなので、やりすぎの意訳というわけではないのだけれど。

リー・アルカンがフランスやケベックでどれくらい人気のある作家なのか私は知らないのだけれど、日本でのパルコでのキャンペーンのしかたは(映画も含め)あまりにも俗っぽい紋切り型で私は興ざめだ。ケベックものということで応援したいのだけれど。

舞台は手法的な面白さはあったけれど、ネリーの抱えていた問題は、共有共感し難かったのが、あまりこの作品に乗れなかった大きな理由だと思う。ある種の女性観客層にはアピールするところはそれでもあるのかもしれない。

映画も舞台もすごく陳腐でありきたりのイメージの中に、彼女を押し込めているなという感じがした。その取り扱われ方、消費のされ方に、彼女の本質的な悲劇性があるという逆説が露呈されていたとも言えるのでは。

平原演劇祭2017第6部 ソビエト100年記念「亡命ロシアナイト」

平原演劇祭2017第6部

ソビエト100年記念「亡命ロシア・ナイト」

 

  • 日時:2017年11/7(火)19時〜22時。
  • 会場:目黒区菅刈住区センター調理室にて。
  • 案内人:高野竜、酒井康志、吉植荘一郎、山城秀之

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 1977年にソ連からアメリカ合衆国に亡命した2名の批評家によって書かれた『亡命ロシア料理』という本がある。

亡命ロシア料理

亡命ロシア料理

 

ロシア料理のレシピが掲載されたエッセイなのだが、単に故国の料理についてて記述するだけでなく、料理を通じた優れたロシア(そして西欧諸国、特に料理文化不毛のアメリカ)文化論となっている。軽妙なユーモアに満ちた切れ味のいい警句が満載されている実に面白い本だ。例えばこの著作には以下のような文句を見つけることができる。 

* いい料理とは、不定形の自然力に対する体系の闘いである。おたま(必ず木製のでなければならない!)を持って鍋の前に立つとき、自分が世界の無秩序と戦う兵士の一人だという考えに熱くなれ。料理はある意味では最前線なのだ……。46頁
* もちろんん、シャルロートカを食べて痩せることはない。そのうえ、パンをたくさん食べるのは体に悪いそうだ。しかし、人生とはそもそも有害なものなのだ─なにしろ人生はいつでも死に通じているのだから。でも、シャルロートカを食べたら、この避けがたい前途ももうそんなに恐い気はしない。53頁
* 美への渇望や性欲があってこそ、人は美術館やベッドの中で幸福を感じることができる。それと同様に、空腹は快楽の源泉である。女性や絵画に対する愛と同じように、空腹だって大事に守ってやらなくてはならない。63頁
* ロシア人とフランス人は、いったいどこが違うのか?
答えは簡単。フランス人はカエルを食べる。だからロシア人の方が明らかに優れているのだ。ロシア人は、食に関しては慎重だから、ぴょんぴょんはねるものなど口にしない。105頁
* 香辛料を好む民族は、生活も派手だ。カーネーションを売ってぼろ儲けはするし、ハイジャックはする、血で血を争う復讐には夢中になる。反対に、薄味の料理を好む民族は、無気力と絶滅の運命にある。ラトビア人やサーミ人がそうだ。116頁
* 食べ物は、人間の最も秘めた部分を明かす。ホラティウスを原書で読むような人でも、黒パンにイクラを塗る姿を見られたら最後─用心深く隠してきた庶民の地が、表面に吹き出してしまう。174頁
* 料理とは、まぎれもなく言語である。それも、この上なく豊かな可能性をもった言語だ。形容語、隠喩、誇張、緩叙法、そして提喩に満ちた言葉。詩人プーシキンは、ロシアの居酒屋の名物「プーシキン風ポテト」の生みの親として、何世代もの人の心に残っているが、それも理由のないことではない。174頁

 

2017年はロシア革命100周年にあたる。平原演劇祭2017第6部は、《ソビエト100年記念「亡命ロシアナイト」》と題し、100年前にソビエト政府政権が確立した11/7の夜に、『亡命ロシア料理』(未知谷、2014)の抜粋を朗読し、そこに記述されている料理を食す、そしてロシア革命周辺の音楽を聴くという企画だった。

ロシア料理の調理は高野竜氏が担当。『亡命ロシア料理』の朗読は、吉植荘一郎、山城秀之の二名が担当した。そして酒井康志がロシア・ソビエト音楽のレクチャーを行った。ロシア・ソビエト美術についてのレクチャーも行われる予定だったのだが、担当の青木祥子が体調不良で欠席となったため、このプログラムは中止となった。

平原演劇祭は10代、20代の若い女性が出演者の中心なのだが、今回は出演者全員が中年男性という平原演劇祭としては異色の催しとなった。

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(撮影:片山幹生、『亡命ロシア料理』を朗読する山城秀之氏)

高野氏が再現したロシア料理が美味しかっただけでなく、優れた文明批評でもある著作の朗読とロシア・ソビエト音楽の解説も充実したもので、料理、文学、音楽からロシア・ソビエトの偉大さと悲惨を味わうことができる好企画だった。しかし世間はロシア革命に関心がないのか、この面白そうな企画内容にも関わらず、観客は私を含め3名(後に4名)というごく内輪の会になってしまったのはとても残念だった。この革命記念日に、ロシアがらみのイベントをやった演劇人は他にはいなかったのか。マヤコフスキーの革命祝祭劇『ミステリア・ブッフ』を上演するまたとない機会だったのに上演された話は聞かない。twitterでもこの日、ロシア10月革命に言及していたのは共産党志位和夫ぐらいだったか(志位のtweetはロシア革命の全面的礼讃というわけでもなかったが、皮肉、嘲笑、罵倒のコメントを大量に浴びていた)。

さて「亡命ロシア・ナイト」、オープニングは高野、吉植、山城の3名による『不思議惑星キン・ザ・ザ』(1986)の挿入歌、《ママ、どうしよう》の合唱だった。

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なおこの日の出演者のおっさん4名はみなハンチング帽をかぶっていたが、これは打ち合わせていたわけではなく、偶然そうなったとのことだった。『不思議惑星キン・ザ・ザ』の歌が終わると、吉植、山城の二氏による『革命ロシア料理』の朗読が始まった。

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(撮影:片山幹生、『亡命ロシア料理』を朗読する山城秀之と吉植荘一郎)

それから高野竜によるソルジェニーツィンの『チューリッヒのレーニン』の一節の朗読に続く。革命運動のためには大量の資金が必要で、革命家になるにはまず資本家となるのが手っ取り早い、といった皮肉なことが書かれていて大笑い。

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(撮影:片山幹生、『チューリッヒのレーニン』を朗読する高野竜)

この後に確か最初の料理タイムが入ったと思う。最初に食べたのは、『革命ロシア料理』の最初の章、「壺こそは伝統の守り手」にあった壺料理だ。陶器製の壺(鍋?)でぐつぐつと煮込んだ鶏肉の料理。ただし『革命ロシア料理』で推奨されているのは牛ヒレ肉である。竜さん曰く、牛肉は調理の扱いがむずかしかったので、鶏肉にしたとのこと。これにサワークリームと小麦粉で作ったソースをかけて食べる。

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これは見た目どおり、すこぶる美味い。

酒井康志のロシア・ソビエト音楽講座はこの後だったように思う。このプレゼンテーションも素晴らしかった。革命前のロシア国民学派五人組から、鬼才のスクリャービン、革命直後の輝かしい前衛音楽の数々、そしてスターリン体制後のソビエト音楽まで。ソビエト体制のなかで才能ある作曲家たちが転向し、体制迎合音楽を作ってしまう泣き笑いの状況までを30分ほどで概観した。

1917ロシア・ソヴィエトの革命音楽.pdf - Google ドライブ

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(撮影:片山幹生、ロシア・ソビエト革命音楽のレクチャーする酒井康志)

モソロフ、ショスタコなど革命が熱かった時代にかっこいい前衛作品を作った天才作曲家は、体制迎合音楽でもやはりそれなりにいい曲を作ってしまうところが悲しくもある。共感覚者でもあったスクリャービンは誇大妄想の神秘主義者で、頽廃音楽の作り手とみなされても仕方ない異端児だったが、ソビエト当局は没後50周年に記念イベントをやったというエピソードを酒井が話したとき、吉植が「政治的には無害だとみなされていたからでしょうかね」とつぶやいたのがおかしかった。   

この後は料理第二弾が続いたのか、あるいは『亡命ロシア料理』の朗読が再開されたのかは記憶が定かではない。 高野竜による亡命ロシア料理の第二弾は、ロシアの代表的な魚のスープ、ウハーだった。

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使われた魚はタラと鮭。このスープも実においしかった。ただし『亡命ロシア料理』ではチョウザメが指定されていたとのこと。さすがにチョウザメは日本では手に入らない。『亡命ロシア料理』のレシピの記述はかなり大ざっぱで、材料はロシア国外では入手が難しいものが多いと言う。この本の著者が移住したアメリカでも、故国のロシア料理の再現には苦労したに違いない。高野竜曰く、亡命ロシア料理なので、とりあえずの間に合わせの材料でそれっぽいものを作るのが主旨に合っているだろうとのこと。確かにそうだ。

会のしめは『亡命ロシア料理』の朗読だったが、会場の退室時刻が迫っていたため、食事の後片付けをしながら朗読を聞くという慌ただしいフィナーレになった。

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(撮影:片山幹生、『亡命ロシア料理』を熱く朗読する吉植荘一郎)

出演者4名、観客4名(うち1名は音楽のプレゼンに関わる)というこじんまりした会だったが、美味しくて、楽しくて、ためになる、実に充実した夕べだった。

 

 

 

 

 

 

 

石神井東中学校演劇部『おこんじょうるり』・『ヒミツキチ 〜Our Secret Base〜』

『おこんじょうるり』(10/28)

  • 作:さねとうあきら
  • 脚色:ふじたあさや
  • 指導:一丁田康貴、田代卓(外部指導員)

『ヒミツキチ〜Our Secret Base〜』(10/29)

  • 作:一丁田やすたか
  • 指導:一丁田康貴、田代卓(外部指導員)
  • 会場:練馬区生涯学習センター

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10/28に上演された『おこんじょうるり』は、さねとうあきらの創作民話をふじたあさやが脚色した民話劇。
 
失敗ばかりで村人の信頼を失った上、腰を悪くして寝込んでしまったこのおばあさんのところに子狐が迷い込んでくる。お腹を空かした子狐におばあさんは惜しげもなく家にあった食べ物をあげた。子狐はお礼に聞くとあらゆる病気を治す魔法の浄瑠璃を歌った。おばあさんの腰痛は治り、すぐに動けるようになった。おばあさんは子狐からその浄瑠璃を習うのだが、うまく歌えるようにはならない。子狐はおばあさんの着物のなかに隠れて、乞われるまま、村の病人の家にいって浄瑠璃を歌い、病気を治していった。
 
メタ演劇構造を作り出すいくつかの工夫が、民話劇のファンタジーを強調する効果をもたらしていた。まず舞台装置および俳優の配置が独特だった。高さ20センチ、幅3メートル、奥行き1.5メートルほどの所作台が舞台中央に設置され、背景には高さ2メートルほどの木製屏風があった。演技は所作台を中心としたエリアで行われるが、その両側には10人ほどの役者たちが向き合って座っている。彼らは自分の出番の前になると舞台袖にひっこみ、衣装を身に着けて現れる。そして自分の出番が終わるとまたもとの衣装に戻り所作台の脇に座り、芝居を横で見守っている。きつねのおこんはぬいぐるみで表現されるが、そのぬいぐるみを動かす黒子姿の役者もおこんにシンクロした演技することで、きつねの感情表現を可視化するという演出も面白かった。
中学生俳優の演技はとつとつとしたリズムでぎごちない。ちょっとテンポが悪いのではないかと思って見ていたら、最後のほうにはっと胸を突かれる悲痛で美しい場面が用意されていた。そのクライマックスへのドラマの集約ぶりが素晴らしい。子供の観客も大人の観客も泣いた。素朴でぎこちない芝居が、劇的な効果をもたらすという台本と演出の逆説にやられてしまった。惜しかったのは場面の切替でならされる拍子木がいまひとつ「カーン」とうまく響かなかったこと。あれがカッターナイフですーっと紙を切り裂くようなシャープさで鳴り響くと、芝居がもっと引き締まってたはずだ。原作とは違うハッピーエンドの結末もよかった。このラストの展開にも小さなサプライズある。中学生俳優ならではの可愛らしさも作品のなかでうまく利用されていた。
 
10/29に上演された『ヒミツキチ〜Our Secret Base〜』は演劇部顧問の一丁田先生による創作劇。三人の仲良しの女の子の放課後の「ミヒツキチ」でのかしましくたわいのない会話が最初、延々と続く。演劇的身振りをそぎ落として、表現をもっと洗練させて完成度を上げると、平田オリザの現代口語演劇の女子中学生版に行き着きそうな感じだった。小林聡美もたいまさこ室井滋の三人の自然なお喋りで展開する三谷幸喜のテレビドラマ『やっぱり猫が好き』も連想した。中学生の恋をめぐる騒動で仲良し三人組の友情は一度揺らぐが、結局は「雨降って地固まる」という結末に。予定調和のありふれた展開だが、ディテイルの表現の数々に、作者の一丁田先生が自分の教え子である中学生たちの様子を愛情をもって丁寧に観察していることを感じとることができる。「悪役」の女の子の演技もよかった。ミュージカル・シーンはもうすこし完成度をあげて欲しかったが、中学生たちが心から楽しんで芝居を演じている様子が舞台から伝わってくる気持ちのいい舞台だった。
 
 
表現技術や解釈という点では中学生は当然、プロの演劇にはかなわない。しかし中学演劇が、いわゆるプロの俳優による演劇と比べて面白くないかといえば、必ずしもそうは言えない。思春期前半の、子供の幼さからまさに抜け出そうとする彼らの身体は、演劇的な魅力と可能性を秘めている。その不安定な身体で演じられるからこそ、説得力を持つことができる表現や物語がある。そうした身体でしか表現できない演劇の面白さというのがある。その面白さは彼らの成長とともに確実に失われるものであり、どんなに上手いプロの俳優でも表現しえないものだ。私が面白いと思う中学演劇の作品では、こうした中学演劇特有の身体性の魅力を引き出すような脚本が選ばれ、演出が行われている。
 

 

ダリオ・フォ作『虎のはなし』@シアターΧ

www.theaterx.jp

  • 原作:ダリオ・フォ
  • 構成・演出・出演:ムベネ・ムワンベネ;IRO(土山裕也)
  • 劇場:シアターΧ
  • 評価:☆☆☆☆
  • 上演時間:2時間

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シアターΧで上演されたダリオ・フォの一人芝居『虎のはなし』を見た。作品はフォが中国訪問したときに見たスペクタクルがベースになっていて、1934-36の長征に参加した共産党軍の兵士の一人語りである。天安門事件があったときに、そのエピソードを交えて書き換えがあったという。
二人の演者が『虎のはなし』を上演した。
一人目はアフリカのマラウイという国出身のムベネ・ムワンベネ。彼はフォの戯曲で設定された状況を自分の祖国マラウイで2011年に起こった民衆抗議運動に置き換えた翻案を上演した。
もう一人は日本人演者のIRO(土山裕也)。彼はほぼ原テクストをそのまま再現する。
ムベネは、観客への呼びかけを取り入れた大道芸の語り的な仕掛けを積極的に用いる。祖国マラウイの事件への置きかえもフォの作品の本質に沿ったものだ。フォ自身もこうした置き換えは歓迎しただろう。観客に呼びかけるスタイルの上演も、フォのモノローグ劇の本質から外れたものではない。字幕が不十分で、英語のせりふがわからないところもあったが、観客をうまく引きんだ手慣れた感じのパフォーマンスだった。ムベネは作品の最後で祖国マラウイが政権批判など表現の自由を認めない国家であることを厳しく告発する。
IRO(土山裕也)というパフォーマーを私は知らなかったが、もう50-60代に見える彼は非常に優れたパフォーマーだった。パフォーマンスの技術だけを見ると、ムベネよりも優れている。語りのリズムと明瞭さの工夫に熟練の技を感じる。ポストパフォーマンスでの質問で語り芸に重心がありすぎて、演劇味に乏しいというダメだしがあったが、このフォの作品ではむしろ語り芸的な要素が重要だ。
この作品と公演については実はいろいろ書きたいことがある。フランス語訳が手元にあり、そこにはフォの序文があって、作品執筆の際の状況が書かれていてその内容が非常に興味深い。


IRO(土山裕也)はもちろん日本語訳で演じた。この日本語訳がかなりいいものだと思ったのだが、当日パンフレットにはなぜか翻訳者のクレジットがない。これは奇妙だ。誰かが訳しているのに。それも相当な手間をかけて。参照した原テクストのバージョンも記されていない。イタリア語から訳したのか、英訳から訳したのかもわからない。
また当日パンフレットのダリオ・フォの紹介で、「『虎のはなし』は『ミステーロ・ブッフォ(奇妙な物語)』と呼ばれる短編一人芝居の連作の中の一編」とあるがこれは事実ではない。『ミステーロ・ブッフォ』(これを「奇妙な物語」と訳すのも誤訳だ)は中世劇のフォ流翻案であり、『虎のはなし』はまったく別の作品だ。
こんな適当な当パンを作るのなら、私に執筆依頼すればいいのにと思う。もちろんイタリア語関係でもっと適任な人はいくらでもいるのだが。
意義深い公演だが、こうした詰めの甘さ、いい加減さが気になる。
時間を見つけて、この上演についてはちゃんとした評を書きたいのだけれど。書けるかな。
フォの一人芝居は数多い。『虎のはなし』フランス語訳版に入っている他の一人芝居も面白そうだ。
これをイタリア語原典でなく、フランス語訳でしか読めないのが歯がゆくてならない。こんなに面白く偉大な劇作家が日本ではまだちゃんと紹介されてないのに、手を出せない。フランスの二十世紀の戯曲作家で、フォ以上に私の関心を引く作家は存在しない。

前進座『柳橋物語』@三越劇場

2017年 『柳橋物語』

 

三越劇場前進座柳橋物語』を見に行った。江戸を舞台に貧困や天災に翻弄されながら健気に生きる女性、おせんの姿を描く「女の一生」もの。

タイトルを主人公の名前でなく「柳橋」という地名にしたことが劇が進むにつれじわじわと効いてくる。おせんの悲劇は、彼女個人の悲劇ではなく、柳橋界隈に住む下町の庶民が生きていくなか抱えざるを得ない愚かさと悲しさを象徴するものなのだ。自分が生きたいようには必ずしも生きられない人生を私たちはどう引き受けていくのか。いかにも山本周五郎らしい問いかけがこの作品にはある。

脚色の田島栄がプログラムの文章なかで「人間には意地というものがある。貧しい者ほどそいつが強いものだ」という山本周五郎の小説のなかのセリフを引用している。このセリフはこの作品の核心になっている。おせんも自分の意地を通し、自らの運命を決然と引き受ける。その覚悟を示した最後の場面の、彼女の毅然とした様子とその美しさに心打たれ、ボロボロと泣いてしまった。

私も貧しき者、弱き者としてその意地を貫き通したい、と愚直に感化されてしまうような芝居だった。
前進座の俳優の演技は、よい意味でスタニスラフスキー・システムを具現しているように私には思える。登場人物の内面をしっかり俳優がとらえ、人物の人生を生きようとしているように見える。一幕二幕と出ずっぱりだった主人公おせんを演じる今村文美の気迫が舞台から伝わってきて、そのエネルギーに圧倒されてしまった。この芝居は徹底的におせん中心の構造になっていて、おせんを核に世界が形成されている。俳優陣のアンサンブルの緊密さはいつもどおり素晴らしい。

火事で家族を失い、娼婦へと零落し、労咳で死ぬ、おせんの友人、おもんという人物も印象に残る。彼女の貧苦は悲惨ではあるが、彼女の人生は果たして不幸だっただろうかなどと考えてしまう。おせんを愛し抜きつつ報われることのなかった幸太、おせんを信じ切ることができなかった庄吉、おせんを助けた藁屋の夫婦、そして無責任な噂話を広めることでおせんを苦しめた悪役の飛脚まで、あらゆる人物に共感できるのは山本周五郎の世界ならではだ。そしてその世界を立体化するのに前進座の俳優ほどふさわしい人たちはいないだろう。

 

わたしが悲しくないのはあなたが遠いから

『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』(イースト) 東京芸術劇場

www.ft-wkat.com

作・演出:柴 幸男
出演:大石将弘 (ままごと|ナイロン100℃)、岡田智代、串尾一輝 (青年団)、椿真由美 (青年座)、野上絹代 (FAIFAI|三月企画)、端田新菜 (ままごと|青年団)、藤谷理子、森岡 光 (不思議少年)

評価:☆☆☆☆★

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演劇や映画を観に行って、否応なしにその世界に引き込まれ、その世界にこちらの内面が侵食され、魂を揺さぶられてしまうような経験することは、そんなに頻繁にあることではない。柴幸男『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』で私は久々にこういう感動を味わった。
この作品は東京芸術劇場のシアターイーストとウエストという地下一階で隣り合った劇場で同時に上演される。
観客は同時に二つの劇場の舞台を見ることはできない。イーストかウエストのどちらかで見ることになる。この趣向自体が作品の主題そのものの優れた表象であることは作品を見ればすぐにわかる。というのも物語はすぐ隣にいながら、会うことができない他者に関わる話なのだ。私はイーストで見た。
イーストとウエストと二つの舞台の出演者同士のやりとりも劇中である。私たちは隣の存在を意識しつつ、隣の様子をうかがい知ることはできない。そしてすぐ傍らにいたはずの人が気がつくと、ずっと遠くに離れてしまっている。追いかけても追いかけても離れてしまった隣人にたどりつことはできない。でもその隣人はすぐそばにいる。自分が生きているなかで本質的に抱える孤独に向かいあうときに、ふと気がつく他者の声。その他者の声にそっと耳を傾けてみたくなるよう時がある。そんな時間について考たくなるような作品だった。
いくつかのシーケンスが音楽のリフレインのように、かなり複雑なやりかたで何回か反復される。反復され、場面が重なるにしたがって気づかなかった感情が浮かび上がり、その強度を増していく。私は後半は泣きながら見た。周りの観客の多くも泣いていた。
赤ん坊はなぜ生まれ出たときに大声で泣くのだろうか? あの泣き声にはどういう意味があるのだろうか? この作品はこの問いに、情緒的な演劇的リフレインによって答える音楽詩劇だ。作品全体が美しい詩となっている。
シアターイーストには東子(とうこ)がいて、彼女のすぐそばにいながら、彼女からどんどん離れていくのが西子(せいこ)である。この二人を演じた女優の美しさのあまりの清々しさにも心打たれた。

片岡仁左衛門『霊験亀山鉾』@国立劇場

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10月歌舞伎公演「通し狂言 霊験亀山鉾(れいげんかめやまほこ)」

敵役二役を演じた仁左衛門の美しさ、かっこよさは筆舌に尽くしがたい。その視線、表情、呼吸、声、動きの一つ一つに感嘆の声が漏れそうになる。いや実際に漏れてしまう。
歌舞伎ならではの趣向の数々と役者の魅力、そして濃厚で過剰な演劇的な美を堪堪能した。奔放で荒唐無稽な設定と展開に、はみ出しそうな多彩な具を無理矢理つめこんだ幕の内弁当を連想する。
とにかく歌舞伎の魅力がぎゅっと凝縮されたすばらしいスペクタクルだった。子役の芝居とその使い方もすごいとしか言いようがない。
こういう体験がたまにできるから、歌舞伎はたまらない。国立劇場は通し狂言ではじめとおわりがある歌舞伎の演劇作品としての面白さも楽しむことができるのがいいところだ。しかも5000円以下のチケット代で舞台のすぐ近くの席で役者の姿を見ることができるのだから。

SPAC『病は気から』

spac.or.jp

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ノゾエ征爾の翻案、演出が秀逸。17世紀フランスの古典喜劇を現代の喜劇とするための様々な細かい工夫がありました。踏み込みの深い大胆な潤色ですが、モリエール喜劇の骨格は揺らいではいません。原作の美点は損なわれていません。
俳優の台詞のやりとりのリズムのよさ、弾けるよ うな動きも楽しい。ドタバタ喜劇だが、メタ演劇構造の仕掛けが効いていて、結末には感動して泣いてしまった。劇中人物であるアルガンと作者のモリエール、そしてそれを演じる阿部さんの姿が三重に重なる。
演出・潤色のアイディアに感嘆したが、俳優たちの演技も素晴らしい。喜劇的な誇張が全然気にならない。痛快。ヒロインのアンジ役の榊原さん、可愛い過ぎて 、登場場面で見ているこっちの身体が痺れる。ケロッグの山口航太との劇中劇中劇のパストラル場面、私はとても好きだ。
役者はほんと、みんなよかった。
もえみちゃんは、映画監督がアフタートークでダメ出ししてたけど、たしかにまだできることがあるように思う。
フランスではモリエールの喜劇は、シェイクスピア劇のように、現代現役の演劇で、あらゆる演出上の試みが行われている。このノゾエ征爾版もフランスでの上演を見てみたい気がする。
とてもいいプロダクションなので、今後再演を期待する。学生にも推薦したいので東京でもまたいつかやって欲しい。

地点『かもめ』

地点 CHITEN

  • 原作:アントン・チェーホフ
  • 翻訳:神西清
  • 演出:三浦基
  • 美術:杉山至
  • 特殊装置:石黒猛
  • 衣装:堂本教子
  • 音響:堂岡俊弘
  • 証明:藤原康弘
  • 舞台監督:大鹿展明
  • 制作:田嶋結葉
  • 出演;窪田史恵、小林洋平、安部聡子、河野早紀、石田大、小河原康二
  • 劇場:京都 アンダースロー
  • 評価:☆☆☆☆☆

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地点の本拠地、アンダースローで『かもめ』を観た。左は開演前。写真撮影可とのことだったので。開場時から安部聡子が観客に紅茶とお菓子を振舞って、ちょっとした芝居を続ける。一見リアリズム演劇っぽい空間だが、地点の演劇なので当然そうはならない。『かもめ』冒頭のトレープレフの前衛劇が主要なモチーフとして、分解され、強烈に変形され、反復的に参照されつつ、ゆっくりじわじわと『かもめ』の物語が進んでいく。解体された台詞の連なりは、首尾一貫性を喪失し、ほとんど意味不明なものになっている。この意味不明な台詞を聴き続けることは、苦痛で忍耐を強いられる。意味を繋ごうとしても、それをあざ笑うかのように、エキセントリックな芝居で論理性は分断され、引きちぎられる。
しかし後半になって断片化された言葉が再結晶化していく様は圧巻としか言いようがない。
こんな虚仮威しの前衛はやはり私の好みではないなと最初のうちは引いて見ていたのだが、その表現の多彩で奇抜なアイデアの数々、そしてその恐るべき強度に引き込まれてしまった。わけわからないのだけど、凄い。
そしてアンダースローという空間の空気が、作品をさらに凝縮されたものにしている。
強烈な演劇体験だった。
やはり演劇好きが京都に行くなら、アンダースロー訪問は欠かすことは出来ないだろう。地点のスタイルが好き嫌いに関わらず。