閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

卒塔婆小町、葵上

http://homepage2.nifty.com/sanjokai/
三条会のアトリエ公演 2008
『近代能楽集』全作品連続上演シリーズ

「卒塔婆小町」(Aプロ)
立崎真紀子(老婆)、橋口久男(詩人)、榊原毅(男、女、巡査)
「葵上」(Bプロ)
大川潤子(六条康子)、中村岳人(若林光)、関美能留(葵)、渡部友一郎(看護婦)

  • 上演時間:各35分
  • 劇場:千葉 三条会アトリエ
  • 評価:☆☆☆☆☆
                                                                                                                                • -

三条会による三島由紀夫『近代能楽集』上演シリーズの第二弾。
『卒塔婆小町』『葵上』の各作品がそれぞれ出演者と演出が異なるAプロ、Bプロの二つのバージョンで上演される。演出も異なることは別の日に見に行った知人のレポートで知った。両バージョンとも見れなかったのが本当に残念だ。
三条会公演はここのところ怖くなるほど面白い。意外性があり、表現が強烈で、当たり外れがない。こちらの期待値は相当高くなっているのだけれど、毎公演、それを裏切ることがなく、充実した観劇体験を得ることができる。挑

三条会公演は事前に原作を読んでいたほうが楽しめると思う。
三島戯曲の台詞はほとんどいじっていない。演出はきわめて独創的で斬新だが、原作の精髄はむしろ三条会のギミックに満ちた仕掛けを通して、熟成の度を増すようにさえ思われる。きわめて挑発的なやり方によって、原作への敬意を屈折した表現で示しているともいえる。ここ数作は「笑い」の仕掛けも積極的に導入し、エンターテイメント性(かなりいびつであるかもしれないが)も増しているように思える。。笑いはしばしば、原作ではとうてい笑いが介入しえない部分に、強引にねじ込まれる。劇的なクライマックスが喜劇性と表裏一体となるという、あやういバランスを成立させるその職人芸は実に見事なものだ。
今回上演の2作品の上演時間は、各35分程度と非常に短いものながら、その観劇の充実感は長尺の作品を見るのに劣らない。「芝居」の味わいがぎゅっと濃縮されたようなパフォーマンスだった。

以下公演内容を記憶にしたがってメモしておく(ネタバレあり)。
「卒塔婆小町」では、中央に小さなベンチが二つおかれている。ベンチには蛙のぬいぐるみのカップルとくまのぬいぐるみのカップルが一組ずつ座る。舞台左右に分かれ、卒塔婆小町(立崎)と詩人(橋口)が座る。二人はレストランメニューのようなものを見ながら、テクストの台詞をほぼ棒読みの状態で投げあう。舞台中央奥には、スキンヘッドの榊原毅がハンディ・ビデオ・カメラを手に自らの姿を写す。その映像がリアルタイムで背景にぼんやりと薄く映し出される。口をぱくぱくさせたり、カメラにむかってきらきらした瞳で見つめたりしたいるが、その意図はわからない。棒読み状態で台詞を読み上げる詩人と小町も含め、芝居がどういった方向に進んでいくのがまったく読み取れない冒頭部に、観客である私は暗闇のなかで手探りしながら進むような不安定を覚える。詩人が深草少将となり、小町に100年前の鹿鳴館に誘われる中間部に入ると、舞台の演出も次の段階に入る。榊原が撮影されたビデオが捲き戻される。100年前の鹿鳴館舞踏会の場面に入ると、卒塔婆小町の声は立崎によってアフレコのようなかたちで、榊原のビデオ映像に合わせて、語られるのである。背景の画面には前半部で榊原が撮影していた自身の顔の映像が映し出される。彼は後半部の鹿鳴館での卒塔婆小町をビデオを通じて演じていたのだ。詩人は、背景のビデオ映像に向かい、台詞のやりとりをはじめる。彼が見ているのは幻影、それもスキンヘッドの男の顔なのだ。あたかも催眠術にかかったように、詩人は映し出されたむさくるしい男の「小町」に熱い調子で語りかける。
その台詞を口にしたとたん死ぬと何度も警告されていたにもかかわらず、幻影である小町に惑わされ、熱狂した男は、「君は美しい」と声に出してしまう。むさくるしい男の姿をした小町に向かって。この究極の一瞬、クライマックスへ向かう緊迫感、集約力が本当にすばらしい。禿のひげ男の媚態とその媚態に必死に語りかける男同士の姿は強烈に滑稽であり、せつなくもあった。ビデオ映像のスキンヘッド、ひげ面の男へ切々と恋情を語りかけるさまは、外側から眺めるとグロテスクであり、おぞましく、滑稽である。夜の公園で互いをむさぼりあう恋人同士もまた𠮟り。しかしその姿には、恋に没入した人間だけが持ちうる感情の爆発には、たとえこっけいでおぞましくあろうとも、刹那の輝きを放つ生の充実を認めざるをえない。

50分の休憩のあと「葵上」Bプログラムの上演があった。
過去の恋人の生霊が過去の恋の情景の追憶を再現し、男はその幻想に溺れる。その一方で病の床にある今の男の恋人は、生霊に苦しめられる。
葵を演じる関美能留は舞台正面前方で布団に包まり横になっている。上演中、後半部になるまでは布団の中で身動きしないのだが、生霊の幻影がクライマックスに達すると、苦しみにもがきはじめ、布団から抜け出して、右手にあるアトリエのトイレの中へと駆け込んでいく。このコミカルな動きに爆笑する。トイレのドア越しに「助けて、助けて」という声を発するものの、その声は光にはっきりとは聞こえない。ほとんど絶叫するように助けを呼んではじめて、光は事態に気づくがもう手遅れだった。
美青年の光役は、スキンヘッドの中村岳人だがかつらをかぶっている。中村岳人独特の人を食ったようなニタニタ笑いは、恋遍歴を重ねる美青年光が持っているはずの妖しさのイメージと重なりつつも、それとは明らかに異なるなんともいえぬいかがわしさが漂っている。冒頭の、葵を前にした光と看護婦のやりとりの最中には、六条康子は舞台右手の壇上で後ろ向きにポーズをとってじっと佇んでいる。看護婦役の渡部友一郎は感情の感じられない棒読みで事態を報告する。背景にはアトリエの窓越しに夜の千葉の風景が借景として効果的に取り入れられていた。
六条康子の台詞が入る場面になると、今度は光が先ほど康子がいたポジションで康子がとっていたのと同じポーズで、康子に捉える。二人の服装はどちらも黒、一方看護婦と葵の服は代と明瞭な対立がある。同行した友人の指摘なのだが、あの演出において康子と光は同一人物であることを強調したかったのではないかということだ。生霊である康子の存在、彼女が語る過去の恋の情景は、最愛の葵上の死を面前にした光の頭の中に突如としてわきあがった、強迫観念、妄想なのだ。彼はこの幻影を断ち切ることができず苦しむ。自身の妄念でありながらその暴走を自身でコントロールできない。
強烈な口調の台詞の発声によって、追憶の恋の情景をコントロールしていく六条康子の強引さに笑わされれる。光は受動的で、どこか傍観者的な無責任さで、康子に引きずられていく。