- 作者: 篠田節子
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2008/01/10
- メディア: 文庫
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- 評価:☆☆☆☆★
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何となく久しぶりに篠田節子の小説を読んだ。
『砂漠の船』は都内のすでにくたびれた雰囲気のニュータウンにある古い公団住宅に住む核家族の物語である。核家族の父親/夫の視点から家族の解体の様子が描き出された秀作である。何よりも家族の設定が自分自身の家庭を連想させずにおられないものだった。
主人公の男性は都内の運送会社の事務職、妻はデパートに正社員として勤務している共働き世帯で、四〇代前半のこの二人には思春期の娘が一人いる。東北の山村の出身の主人公は祖母と故郷への愛着が強い。父母は毎年四ヶ月の間、子供を祖母に託して東京に出稼ぎに出かけていた。母親は出稼ぎをやめてしばらくしてから農薬自殺した。主人公の父親は田舎での生活を嫌い、家庭をあまり顧みることはなかった。
そうした体験から主人公は自分は家族がいっしょに平穏に暮らす生活を優先させることを信条とするようになる。会社からの転勤の打診を断り、出世競争から早々に降りた。地域社会に溶け込もうと団地の自治会などの活動に積極的に参加する。キャリア志向が強かった妻の転勤、海外赴任も反対し、諦めさせた。狭苦しい公団団地の住居のなかでの家族三人の生活の平穏を維持することが幸福であると彼は信じていた。
小説では娘が思春期に入ったころに起こった主人公の左遷、降格人事を機に、主人公の家族への執着が強まるのに反比例してどんどんと加速度的に家族が解体していく様子が冷徹に描き出されている。主人公が抱く小市民的な家族幻想に対して作者は辛辣だ。
文庫本の解説で榎本正樹は書く。
家族とは、(略)「生身の人間が巡り合い、共に一定の期間を生き、分かれ、再び巡り合う場」(略)ここには、家族とは永久的な場ではなく、「他者」がいっとき出会いコミュニケーションするトランジット的な空間であるとの積極的な定義がある。
旧来の家族というモデルが大きな変更を迫られているという言説はずいぶん前からある。その一方でテレビで大家族ものが繰り返し放映されることからもみえるように家族に対する幻想も依然根強く残っているように思える。『砂漠の船』を読むとそうした家族幻想は、世帯の主な働き手であることが多い夫/父親が支持し、妻や子供に押しつけている願望、欺瞞に過ぎないようにも思えてくる。
この小説の設定は私の状況と重なる部分が多い。古い団地での生活(そこでは自治会などの地域活動もまだ比較的盛んだ)、共働きの核家族、そして正直に書くと私がこの小説の主人公の家族観に少なからぬ共感を覚えたこと、さらに妻とのドライな関係も。
高度成長時代の直前、大量の若者が故郷を捨て都会で生活しはじめた。我々の父母の世代の多くは閉塞的で窮屈なムラ社会を嫌い、隣近所や親戚関係など煩わされることの少ない自由な都会での生活を選び取った。しかしその代償として緊密で暖かい(ときにうっとうしくもあった)人間関係を失った。NHKのドキュメンタリーで「無縁社会」が話題になり、私も興味深く見たが、それは都会の自由を選び取った我々が向き合わざるを得ない社会現象だろう。田舎生活への回帰を志向する人たちもあるかもしれないが、我々の多くはもうあの窮屈で変化のない世界に敢えて入ろうとは思わない。
家族は子供にとって安定した居場所であるのが望ましいことは言うまでもない。しかしある年齢を超えると家族は必然的にうっとうしいものに変化する。私の父母は抑圧的な親ではなく、私は大らかな愛情で私を育ててくれた父母に対しては感謝の念を持っているが、それでも大学進学で東京に一人暮らしをはじめたときのあの解放感はいまだに強烈に覚えている。
小説のなかでは落ちぶれていくなかでますます家族のつながりを希求する夫/父を見捨て、主人公の妻は最終的には離婚を選び、娘は高校卒業後一人暮らしを始める。主人公にとってはずいぶん残酷な結末であるが、関係修復を求める最後のもがきのなかで彼もこうした結末を諦念をもって受け入れたようにみえる。互いに利用価値がある期間だけを過ごし、利用価値がなくなるとその関係を解消しているようにも思え、十数年の間、生活をともにしたことを考えるとずいぶんドライで冷たい関係のようにも思える。しかし現在の都市生活者にとっての家族は実はこのようなものであるべきなのかも知れない。
考えてみれば家族が家族として互いに幸せに暮らしていける期間は人生のなかのせいぜい十数年に過ぎないかも知れない。それならばその幸福に暮らせる十数年のみ家族をやって、うまく機能しなくなれば解散すればいいという考え方も当然ありうる。そういう「利己的」な発想に対して今の社会は必ずしも否定的ではない。その十数年を幸福に過ごすことができればそれで十分という気もするし、いやむしろいずれ解散しうるものだと覚悟を決めて家族をやっていたほうがその十数年をより実り豊かな時間にすることができるかもしれない。
子供は大人になれば独立するものだし、その頃には夫婦関係についても見直さなくてはならない時期になっているかもしれない。解散によって自身がもしくは相手が苦境に陥るかもしれない。そのときに相手によりそい手をさしのべるかあるいは見捨てるのかは、その時点の関係次第だろう。田舎で家族、親族、地縁という関係のなかで互いに依存しながら生きていくのを拒否し、都市で個人としてできるだけ自由に生きることを望むのであれば、その自由の代償としての孤独も甘受するという覚悟ができていなくてはならないように思う。
昨今夫婦別姓の問題がしばしば議論になるが、一人娘の家の家名を存続させるという保守的な家族観ゆえに夫婦別姓を支持する人たちがいる一方で、それとは逆に意識的にせよ、無意識的にせよ現代の家族観への違和感、拒否感を持つがゆえに夫婦別姓を支持している人が多いように思う。後者の人たちの場合、夫婦別姓の先に見ているのはもしかすると、この小説に描かれているような、家族機能が不全となった場合にその関係をリセットできるような期間限定の家族のあり方の可能性なのかもしれない。