閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』@宮城野納豆製造所(2019/11/02)

 

60分の演劇作品を見るために仙台まで日帰りで行ってきた。

公演が終わったのが20時過ぎ。それから6時間たった今、宮城野納豆製造所で見たあの公演を反芻すると本当に夢の中に自分がいたように感じられる。リンドバークの大西洋横断飛行を追体験する演劇だ。圧縮された旅のような演劇体験だった。

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ゲッコーパレードの『リンドバークたちの飛行』を見るのは今回が2回目だった。この公演は《家を渉る劇》と称される企画で、劇場ではなく文化財として保存されている建築物で作品が上演される。上演会場は毎回代わり、私が昨年見た時は早稲田大学演劇博物館が会場だった。その時の演劇体験があまりにも印象深いものだったので、この作品が再演される際は必ず見に行こうと決めていた。

作品はブレヒトのラジオ教育劇だと言う。ブレヒトの作品ではそんなに有名な作品ではないだろうし、上演機会もあまりない作品だと思う。俳優は3人だけだ。名前をもつ役柄はリンドバークだけである。

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筋立てはごくシンプルで、1927年のリンドバークの大西洋横断飛行を時系列に演劇として再現している。飛び立つ前の準備、出発、飛行中、そしてヨーロッパ大陸への到着。

演劇博物館での公演では、観客は俳優に導かれながら博物館内の各部屋を巡る。17の場を6人の演出家が演出している。確かに各場毎に趣向の違いはあるけれど、その流れはスムーズでちぐはぐした感じはない。

60分の演劇作品を見るためのだけに、新幹線に乗って仙台まで往復するなんて我ながらどうかしていると思った。お金があるわけでもないし、間近に締め切りのある仕事を複数抱えている。それでも演劇博物館でこの作品を見た時の感動は一体何だったろうかと、もう一度しっかりと確かめたかった。このシンプルな冒険譚の演劇を見ながら、私はなぜかポロポロと泣いたし、終演後は呆然となった。自分にとっては本当に夢のような演劇体験で、感想を言葉にすることさえできなかた。

好きな芝居はたくさんあるが、ゲッコーパレードの『リンドバークたちの飛行』については私は偏愛とでも言うような特別な愛着を感じてしまう。

昼の公演と夜の公演があったが、私は夜の公演を選択した。昼の陽光よりも、夜に照明で照らされている方が宮城野納豆製造所という会場がより幻想的で美しいのではないかと思ったからだ。

しかし国の有形文化財に指定されたと言う宮城野納豆製造所の正面はごく地味な古い木造建築だった。1934年ごろに建てられたこの製造所は、今でも現役の製造所として稼働しているとのこと。
しかし製造所入り口の引き戸が開かれ、中に導かれるとそこには非日常的な演劇的空間が広がっていた。大掛かりな美術によって製造所の作業場空間が改変されているわけではない。ごくささやかな照明の操作(裸電球が印象的だった)と3人の俳優の身体と声、時折入る音響効果といった小さな仕掛けの数々の融合が、宮城野納豆製造所を別世界にしていた。

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入り口外観は無個性だが、宮城野納豆製造所の内部は奥行きがあり、製造の作業工程に合わせて複数のスペースに区分けされていた。正面から見えない別棟もあった。天井は低い。区分けされた平屋木造の空間を、うねうねと進みながら、リンドバークの大西洋横断飛行は進行していく。

《家を渉る劇》である『リンドバークたちの飛行』の特徴は何よりもまず、会場となる歴史的建築物の空間の特性を最大限に利用しつつ、それをちょっとした仕掛け、ユニークで気の利いたアイディアによって、演劇的空間に変容させてしまう手腕の見事さにある。

しかし私が『リンドバークたちの飛行』の何に感動したかと言うと、それは何よりもリンドバークという存在を引き受けた河原舞と言う俳優のパフォーマンスであるような気がする。もちろんあの劇空間の創出があったからこそ、俳優と脚本も力を持つことができたのだけれど。大西洋横断をした時の25才のリンドバークの若さ、悲壮さ、健気さ、力強さが、小柄な河原舞の身体から噴き出してくるかのように感じられる。リンドバークを演じる河原は、女性でも男性でもない、リンドバークの言葉に反応する観客それぞれの思いを受け止める抽象的な存在になったかのようだった。

最初の部屋で河原は地図を開くと、20人の観客一人一人を見つめながら、リンドバークの飛行計画を話す。飛行計画を話し終えると、彼女は20人の観客一人一人と握手をするのだ。河原舞が演じる彼女が演じるリンドバークには吸い込まれそうになる。この後に続く大西洋飛行の冒険を、観客である私はリンドバークとともに体験しているような、彼ととともに冒険の波乱を乗り越えていくような気持ちになった。アイルランドイングランド上空に到達すると、リンドバークの飛行機を目撃する漁師たちの会話を観客が演じるという楽しい趣向があった。パリは目前だ。上演の場は屋外に移り、ここでは観客たちはフランスでリンドバークを迎え入れる群衆に同一化しようという気分になっている。

しかし『リンドバークたちの飛行』の結末は、大西洋横断飛行に成功したリンドバークを観客が迎え入れるというカタルシスをもたらしてはくれない。観客が待ち受ける場所にリンドバークは降り立つことはなく、そのままどこか彼方に消えてしまうのだ。

夜の野外で観客を呆然と立たせたまま、劇の終わりが告げられる。観客である私は儚さをどう受け止めていいのか戸惑うが、しばらくするとこれでいいのではないかとこの終わり方を納得させた。

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正直に書くと宮城野納豆製造所でのラストはもう少し叙情味があっていいような気がしたのだが。演劇博物館での最後は遠くに消え去っていくリンドバークを見送る長い時間があったのが余韻になっていた。

終演後は明かりのついた工場内を見学できた。先ほどまでとは全く異なる散文的で実用的な空間だった。それだけに上演中の60分が一層、「夢」の中の時間であるように感じられた。