平原演劇祭の番外編、奇祭ツアー第二弾、埼玉県東部の杉戸町永福寺の「どじょう施餓鬼*1(せがき)」を見に行った。奇祭ツアーは「風変わりな祭をみんなで見学しに行こう!」というもの。永福寺の施餓鬼は600年前から行われている歴史あるものだが、読経だけでなく、どじょう放生*2(ほうじょう)が行われることに特徴がある。「奇祭」というほどではないけれど、「なぜどじょうを流す?」とは思う。餓鬼どもの食料としてどじょうを流すのかと思ったのだけれど、寺のウェブページの説明によよると「どじょうが龍に似ているところから龍にたとえられ、どじょうの背中に乗ってご先祖様が極楽浄土へ旅立つために、どじょうを池に放しています。」とのこと。この説明もいまひとつ説得力を欠くような気がするが。
平原演劇祭主宰の高野竜さんはこの奇祭ツアーもかなり力を入れて宣伝していたのだけれど、「どじょう施餓鬼」ツアーに参加したのは私だけだった。どじょう放生供養が行われるのは8/22(月)、23(火)の9時から12時と告知があった。私たちが言ったのは二日目の23日。午前9時にJR宇都宮線の久喜駅まで高野さんに車で迎えに来て貰った。15分ほどで永福寺につく。
寺周辺には数十台が駐車可能の駐車スペースがあって、「大施餓鬼」の看板も道路沿いにいくつか立っている。しかし私たちが到着したときにはあまり寺の境内にも、ドジョウ放生が行われる因幡池がある公園にも人はあまりいなかった。どじょう配布小屋に人はいたが、どじょうを流す人はいない。
この日はかなり暑い日で、寝不足と暑さで永福寺に到着した時点ですでにかなりバテていた。しばらくぼんやりと因幡池のある公園にいたが、お祭りらしい賑わいはなく、蒸し暑さのなか、どんよりよどんだ静けさだけがある。公園に太鼓を設置しに来ていた人がいたので、「何時から太鼓の演奏があるんですか?」と聞くと、11時からだと言う。どじょう放生は9時から12時となっているけれど、人が集まるのはたぶん11時頃からではないかと思い、ひとまず車に戻り、近くのコンビニでしばらくのあいだ涼んだ。
11時前に永福寺に戻ると人が増えていて、これからお祭りがはじまりそうな雰囲気があった。因幡池のある公園では太鼓の前に男女のお坊さんがスタンバイしていて、永福寺住職らしい人がユーモアを交えたなれた調子で法話を始めていた。
二人の女性の坊さん(?)がいて、いずれも若くて美しいひとだったのだが、その女性が「最近、ヨガをはじめてそこでの呼吸法が」どうのこうのと話していると、永福寺境内のほうから仏教楽器(シンバルみたいなものやホラ貝など)を演奏しつつ僧侶の一団が行列をなして因幡池にやってきた。彼らが池の周囲で読経を始めてからが、どじょう放生タイムの本番らしい。読経中にどじょうを放つと御利益が大きい、というようなことを住職が言ったので、私もどじょう配布小屋で300円払ってどじょうを放生することにした。
どじょうを何匹か小さなざるにすくってもらい、それを樋に流すと、そうめん流しのようにどじょうがするすると因幡池に落ちていく。この因幡池は人工池で、このどじょう放生の前に水が入ると高野さんが言っていた。高野さんが数日前に下見にきたときは、池には水がなかったそうだ。利根川が近くを流れているが、池は川とはつながっていない。高野さんの話によると、仕入れたどじょうは中国からの外来種なので川に流すことはせず、因幡池に滑り落ちたとじょうたちは、施餓鬼終了後にそのまま放置されて死んでいくのではないかということだった。私は後で施餓鬼どじょうを食べるのかと思ったが、そういうこともしないようだ。
11時半前に男性一名、女性二名による太鼓演奏が20分ほどあった。住職のボーカルとホラ貝もこの太鼓にときどき加わる。この太鼓をたたく僧衣の女性がとても美しい。中央で太鼓をたたいていた男性も含め、「お坊さん」と住職は呼んでいたが、僧侶の雰囲気は皆無だった。だいたい仏教、密教と太鼓演奏は関係がないだろう。
高野さんは、太鼓サークルみたいなのはたくさんあって盛んなので、おそらく太鼓を叩いていたのは寺の人ではなくて、近隣の太鼓サークルの人ではないかと言っていた。太鼓演奏のあとは御利益があるというありがたいイラスト付きのカードが配布された。
どじょう施餓鬼は実質40分ほどで終了。施餓鬼自体は二日間にわたって延々とおこなわれていて、どじょう放生はそのプログラムの一つらしい。どじょう施餓鬼終了後は、昼飯を純手打ちそば 一茶に食べに行った。そばはお腹が膨れないので、普段は外食で蕎麦を積極的に選ぶことはないのだけれど、この店はこの付近では一押しの店だと言う。
「天ぷらもいいんですよ」と高野さんが言うので、私は天ぷら冷そばを。高野さんは大もりそばを。太くて無骨な蕎麦の見た目からして素晴らしい店だった。蕎麦の味のよしあしなど私はわからないのだけれど、ここの蕎麦は大いに気に入った。天ぷらもガツンとくるボリュームで、かつ非常に美味しかった。ここはまた食べに来たい蕎麦屋だ。
昼食を取ったあとは予定がなかったのだが、高野さんが「せっかくここまで来たのだから、ついでにちょっと観光しますか?」と言う。しかし観光と言っても埼玉東部のこのあたり、平原演劇祭で上演される地誌演劇の主要な舞台とはいえ、何が見所なのかわからない。高野さんに進められるまま、車で20分ほどのところにある関宿城博物館に行くことにした。関宿城は利根川と江戸川の枝分かれ地点にあり、その城跡に立てられた博物館では利根川の歴史についての展示があると言う。平原演劇祭の埋没演劇などで江戸から明治にかけて利根川の治水事業についてはなんとなく知っていた。このあたりの川や地理についての知識と関心は、私の場合、もっぱら平原演劇祭経由のものだ。利根川の本流がかつては東京湾に流れていたのを、大規模な治水事業によって茨城から太平洋に流れる川筋にしたということも、平原演劇祭の地誌演劇の上演で知ったのだった。
関宿城博物館にある売店にはそこでしか購入できない地域史についての地方出版物が並んでいて、その記述は高野さんの地誌演劇の重要な資料となったそうだ。地理や川については実のところそれほど関心があるわけでもなく、知識も乏しいのだけれど、夕方まで時間があるし、高野地理演劇にインスピレーションを与えた場所というところを見ておいてもいいだろう、と思い、関宿城博物館に行くことにした。
博物館は城っぽいつくりになっていて、なかの展示も非常に充実したものだった。関宿の小中学生の社会科の課外授業ではかならずこの博物館を訪ねるに違いない。
博物館に併設している売店では、名物のせんべい(どちらかというとキッコーマン城下町野田市の名物らしい。関宿は市町村合併で野田市に飲み込まれてしまったのだ)のほか、地元の野菜類が大量に売られていて、しかも値段が安かった。
私は関宿城出世カレーを購入。このあたりのミルクが使用されたまろやかなカレーとのこと。譜代大名である関宿藩からは出世したひとが多かったのでこの名前のカレーになったという。ただ製造しているのは九州の業者だった。580円とレトルトカレーとしてはかなり高額ではあったが、このカレー、食べてみるとかなり美味しいカレーだった。