- 芝居は各自神社の若連中によって行われる。人情時代劇と舞踊ショーの二本立て。若連中には女性もいる。
- 芝居の演目は受け継がれてきたレパートリーがあって、それを回していく感じ。毎年演目は変わる。今年は受け継がれてきたレパートリーではなく、新しい演目に挑戦した。
- 頭取は芝居を含む黒谷神社前夜祭を取り仕切る責任者。頭取は毎年変わる。
- 昭和50年(1975)以来の上演演目と出演者の一覧記録があり、撮影させてもらった。大昔は歌舞伎を上演していたらしいが、いつから人情時代劇上演になったかはよくわからないらしい。祭自体は江戸時代から300年近い歴史があるとされる。
- かつらや刀などの小道具は、「興行」から借りるとのこと。演技の指導も「興行」の人が行うようだ。主演役者は毎年変わる。
- 芝居の稽古は二週間前から始まる。毎日夜に行う。「師匠」と呼ばれるOBのかたの指導が入る。
- 若連中は黒谷神社氏子で、だいたい18歳から40代半ばまで。黒谷の氏子全員が若連中として芝居に出るわけではない。声掛けして誘うとのこと。
- 若連中は勤め人がほとんど。芝居稽古は毎晩仕事が終わってから行う。奉納芝居は日付で決まっているので毎年週末になるとは限らない。仕事より芝居優先で、奉納芝居のときは何日か休みを取る。
平原演劇祭×のあんじー『カチコミ訴え』『女の決闘』@麻布霞町教会
教会演劇
- 『カチコミ訴え』(太宰治) c/w「女の決闘」(H.オイレンブルク)
- 2019年8月23日(金)20:00-21:30 麻布霞町教会
- 1000円+投げ銭
- 出演:アンジー、栗栖のあ、おいかわ、さいとうれいな; 平林知河牧師(講話)
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のあんじー(アンジー×栗栖のあ)の『駆込み訴え』は、二週間前の8月4日に千葉屏風ヶ浦で野外公演が行われている。この公演では二人はロリータ・ファッションでこの作品を上演した。残念ながら私は見に行くことができなかったのだが、ツィッター上の報告で確認した灼熱の海岸で奇矯なメイクとロリータ・ドレスで演じる二人のビジュアルはインパクトがあった。
今回の公演はもともとは厨房ごとレンタルする食堂を会場にした夕食演劇として予告されていたが、どういう経緯があったのかわからないが、プロテスタントの教会を会場とする教会演劇として牧師の説教付きで上演されることになった。
『駆込み訴え』は十二使徒のひとり、ユダが師であるイエスを告発する一人語りだ。ユダは語らずにはいられない、彼がイエスに対して抱く激しい愛憎のすべてを。ユダは語りのなかで、どうにもコントロールできないイエスへの感情の強さに悶え苦しみ、そして陶酔する。
福音書を題材とする小説なので、教会で上演するのはふさわしい作品かもしれない。上演中、ユダを演じる俳優の視線はときおり教会正面に掲げられた十字架に向けられた。教会内で演じることで、ユダの倒錯はより効果的に提示される。ユダは告発しながら、イエスの視線を意識せざるをえない。
しかしイエスと弟子たちというホモソーシャルな集団のなかでの師への同性愛的ともいえる愛情を激しく吐露する太宰の『駆込み訴え』は、教会的には許容されうるものだろうか。
そして原作ではユダのモノローグである作品は、今回の上演では二人の若い女性によって演じられる。
麻生霞町教会での『駆込み訴え』上演では、オイレンブルク作・森鴎外訳の短編小説『女の決闘』がそのなかに組み込まれた。鴎外訳の『女の決闘』は、人妻が夫の不倫相手の女子学生と拳銃での決闘を行う話である。この短い小説にコメントを挿入した解説小説を太宰は出していて、『女の決闘』を表題とする短編集を1940年(昭和15年)に出している。この短編小説集『女の決闘』に「駆込み訴え」は所収されている。
平原演劇祭で高野竜はこのような複数の作品の融合をしばしば行う。『女の決闘』はのあんじーとは別の二人の女優(おいかわ、さいとうれいな)によって演じられた。
開演は20時だった。15分ほど前に会場に入ると20人ほどの観客がいた。直前まで上演場所、日時がはっきりせず、広報が不十分であったわりには、多くの観客が集まった。入場料は1000円+カンパで終演後に集められた。
今回出演する4人の女優はすべてこの3月に高校を卒業したばかりだと言う。女優4名は上演前に会場内に姿を晒していたが、そのなかでアンジーとおいかわのビジュアル・インパクトはすでにこの教会空間で異彩を放っていた。二人共かなり太めで大柄の女性だ。深夜の郊外のドン・キホーテ店内をウロウロしていそうなオーラを放っている。アンジーはピンク色に染めた髪で「ズベ公」的なのっそりとした迫力を発散している。おいかわは刈り上げの金色に染めた短髪で顔には多数のぴあすが。鋭い視線が印象的な彼女の風貌は80年代後半のイギリスのテクノ・ポップ・デュオ、ヤズーのアリソン・モイエを連想させた。彼女たちの雰囲気はいかにも教会にはそぐわない。
最初はおいかわによる『女の決闘』から始まった。さきほど確認したのだが、鴎外訳の『女の決闘』のおそらく最後の部分、女学生を決闘で殺害した人妻から牧師にあててかいた手紙が教会の説教壇から読み上げられた。明瞭な発声での朗読だったが、いきなり鴎外訳で宗教的懺悔といってもいいような内容のテクストを読み上げられても内容が頭に入ってこない。金髪短髪のピアスだらけの疑似アリソン・モイエがそのようなテクストを教会で読み上げる。ミスマッチ感がすごい。
『駆込み訴え』は、ユダの台詞がピンク髪のズベ公アンジーと長身、黒髪ロングののあにルーズに振り分けられている。彼らはイエスを組長とするヤクザの組の舎弟という設定だ。そういえばつかこうへい原作の映画で『二代目はクリスチャン』というのがあったことを思い出す。ホモソーシャルな疑似家族ということで、イエスと十二使徒の進行集団をヤクザの親分とその舎弟たちという関係になぞらえるという発想はわからないではない。アンジーとのあの二人はイエスの教団のパロディであるヤクザ組織のパロディを実にうまく表現していた。あとで聞くと演出の高野竜からは教会版『駆込み訴え』は「任侠もの風に」という指示があったそうだ。
それで背広にさらしという「一世風靡セピア」風衣装に。あとはイタリアン・マフィアのアル・カポネを意識した葉巻。とにかく18歳の若い女優が想像力を駆使して「ヤクザ」っぽい紛いものの役柄を作ってみた感じだ。その紛いものヤクザの大胆で開き直った嘘っぽさがおかしい。太宰のオリジナルのテクストと自由な翻案とそしてその場ののりで発展させたアドリブを織り交ぜながら、イエスに激しく恋い焦がれつつ、その思いを屈折したやり方でしか表明できないユダの悶えを、漫才のようなやりとりのなかで表現していく。
これも後でわかったことだが、アンジーは太宰治の大ファンでのあは敬虔なクリスチャンとのこと。アンジーは役柄に入り込み、どんどん調子に乗っていく感じがわかる。しかし調子に乗っていながらも、それがもたらす効果はしっかりと計算していることが伝わってくる。見た目に反して、実は繊細でクレバーな演技だ。のははヤクザ芝居のなかにも生来の生真面目さが見え隠れする。しかしその生真面目さは、この『カチコミ訴え』をプロテスタント教会で牧師説教付きで上演してしまうというズレへと結びついてしまう。見に来た観客に『駆込み訴え』のエピソードの該当部分を付箋で示した聖書を配布するという真面目さ。彼女は太宰のこの小説をキリスト者として真摯に読み込んでいったのだ。そしてその結果がヤクザ芝居の少女二人による福音書劇。
中世の受難聖史劇が福音書を題材としつつも、奇想天外なトンデモ・スペクタクルに変容していったのを連想させる。
この二人の掛け合い漫才的な『駆込み訴え(カチコミ訴え)』に『女の決闘』の決闘場面が強引に押し込まれる。おもちゃのピストルを使った派手で無意味な決闘シーンに大いに笑う。
これらのデフォルメにもかかわらず平原演劇祭×のあんじー『カチコミ訴え』は、確かにまっとうな『駆込み訴え』であり、太宰治を深く愛するアンジーと敬虔なクリスチャンたるのあのの太宰理解、福音書理解を反映した内容になっていた。
『駆込み訴え』を演劇としてやるとなると、俳優一人が必死の形相でひたすら真面目に情感をこめてテクストを語る(それだけでも十分に面白いのだが)『駆込み訴え』しか思い描くことができていなかった私には、平原演劇祭×のあんじー『カチコミ訴え』は実に痛快で新鮮だった。
『カチコミ訴え』のあと、平林知河牧師によるガチの説教が続いた。普段と違い、信者でもない人を前にこうした宗教的講話を行うのは、さぞかし戸惑ったに違いない。しかも上演された『カチコミ訴え』は、牧師が想像していた『駆込み訴え』とは相当異なるものだった。牧師の話はなぜユダの罪はこれほど厳しくイエスに批判されたのかということだった。ユダがイエスの愛を信じ切ることができなかったことが、大きな罪だった、というような話をされた。
講話終了後、平林牧師に「それにしても『生まれてこなければよかった』というイエスの言葉はあまりに厳しく感じられます。太宰治のユダや遠藤周作のユダは、この福音書のイエスの言葉を思うと、すごく甘く、ユダ贔屓に思えるのですが、牧師はどう思われますか?」と聞いた。牧師は「私は遠藤周作はあまり好きではありません。でも太宰治のユダ像は遠藤よりも共感できます。太宰はキリスト教をとてもよく研究していると思います」とお答えになった。
平原演劇祭『カチコミ訴え』でユダ役のひとり、アンジーと。このふてぶてしさ、調子に乗って暴走している感じが最高だった。自分が引き受ける役柄をきっちりイメージして演じていることが伝わってきた。
ゲッコーパレード『ファウスト』@旧加藤家住宅
原作:J.W. ゲーテ
引用訳:森鴎外 ほか
演出:黒田瑞仁
出演:崎田ゆかり、河原舞、永山香月、大間知賢哉
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美術:柴田彩芳
衣装:YUMIKA MORI
記録写真・映像:瀬尾憲司
チラシイラスト:石原葉
チラシデザイン:岸本昌也
制作協力:岡田萌
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【演劇】劇団サム第4回公演『BREATH』
作:成井豊
演出:田代卓
2019/07/21 17:00
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【映画】さよなら、退屈なレオニー(2018)
http://sayonara-leonie.com/
監督:セバスチャン・ピロット
製作:ベルナデット・ペイヤール、マルク・デーグル
脚本:セバスチャン・ピロット
撮影ミシェル・ラ・ブー
キャスト:カレル・トレンブレイ、ピエール=リュック・ブリラント、フランソワ・パピノー、リュック・ピカール、マリー=フランス・マルコット
原題 :La disparition des lucioles
製作年:2018年
製作国: カナダ
上映時間:96分
映画館:新宿武蔵野館
評価:☆☆☆☆
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【映画】山本良子監督『ぼくらのハムレットができるまで』(2004)
平原演劇祭×一年劇団 孤丘座 洞窟演劇『鷹の井戸/鷹の風呂』@栃木県某所
「洞窟演劇」と予告されていた。洞窟で演劇だって!?
もうこれだけでどんなものを見せてくれるのだろうかと心が浮き立つではないか。公演会場までの行き方の案内は、平原演劇祭の公式twitterアカウント@heigenfesにあった。雨具と懐中電灯持参とある。
場所は東武佐野線の終着駅からさらに町営バスに乗り、山の中に入ったところだ。
東京都練馬区にあるうちからは約3時間かかった。まず池袋まで有楽町線、それから宇都宮線で久喜駅まで行き、そこで東武伊勢崎線に乗り換え館林駅まで行く。館林駅から東武佐野線に乗って終着駅まで。
初めての路線に乗って、初めて行く場所と言うことで、旅行気分も盛り上がる。
降りた駅は特徴らしい特徴がない田舎町だ。そこから町営バスに15分ほど乗る。バス停のある道のそばにある木の緑濃い丘を登ったところが、公演場所の洞穴だった。
開演の前に洞穴の中を一通り回った。中にはいくつかの空間があったが全体としてそんなに巨大な洞窟ではない。15分もあれば一通りみて回ることができる広さだ。観光のためわざわざこの洞窟を訪れるのはよっぽどの洞窟マニアではないだろうか(そのわりには洞窟演劇終演後に家族づれがこの洞窟の見学にやってきたのだが)。洞窟の管理は近所の住人に委ねられているらしい。鍵の開け閉めと洞窟内の電灯をつけるのが主な管理業務らしく、自由に出入りできる。
[開演前に出演女優三名の写真を撮らせてもらった]
この洞窟演劇を見るためにやってきた物好きな観客は十数名いた。その多くは中高年男性で、女性の観客は一人だけだった。
開演は正午と予告されていたが、開演時間直前に洞窟内に入った一般客が一組あったので、その退場を待っての開演となった。
オープニングは戸外で始まる。
緑の木々にかなり急な傾斜の斜面から、三人の楽人たちが歌を歌いながら、洞穴前の広場に上ってくるのだ。樹々の濃い緑の中に現れる異装をなしたる三人の少女の登場であたりは一気に異世界に変貌する。印象的な素晴らしいオープニングだった。
オープニングの後、洞穴内に観客たちは誘導される。洞穴に入ると、洞穴内の道は軽い傾斜となりすぐに左右に別れる。右手の方から何者かが話している声がする。懐中電灯であたりを照らしながら右手に移動すると、仮面をかぶり、わらじをはいた異形の女がいた。
この仮面の怪物が一人で語っているところへ、異装の若者が現れる。ケルトの若武者のクフーリンだ。彼は不老不死の水が湧き出るという井戸を探し求めている。
イェイツの『鷹の井戸』の内容をここで私はなんとなくではあるが思い出す。仮面女と若武者は言い争いをしているが、その内容は頭に入って来ない。洞窟内という場所の力が強すぎて、セリフが頭の中に入って来ないのだ。
背後から鈴の音、そして獣の叫び声が聞こえた。仮面女と若武者の背後は盛り上がった丘のようになっているのだが、その高みに鷹が現れた。思わずハッとするような印象的な場面となった。
突如現れた鷹に激しく動揺する手間の二人。
鷹の姿が消えると、若武者は槍を手にして颯爽と退場していった。
この退場をもって第一部、洞穴内での『鷹の井戸』が終わる。異世界を描き出す幻想劇でこれ以上の舞台装置はそうそうあるものではない。場のインパクトがあまりにも強いので言葉の内容はその空間の中に溶けてしまい曖昧なものになってしまう。
何も知らない人が洞窟に見学に来て、上演の場面に立ち合ったらさぞかしギョッとするに違いない。幸い上演中に「外部」の人が入ってくることはなかった。
第一部が終わると洞穴の外に出て、少し休憩となる。10分ほどの休憩の後、第二部会場となる洞穴からさらに200メートルほど上ったところにある「展望台」に移動する。この展望台までの上り下りがかなりの急斜面で往生した。
「展望台」といっても周りは緑の木々に視線を遮られ、特に何が見える訳でもない。谷を挟んで向こう側に、セメント用の石灰岩を削り取られ、片面が禿山になっているのが見えるくらいである。
山の斜面の傾斜が幾分緩やかになっているところに観客が誘導され、そこで第二部の『鷹の風呂』が始まった。
『鷹の風呂』は一人語りの芝居だった。この山の斜面と斜面を上ったところにある鉄できた小さなテラスが演技場となった。
寄ってくる蚊を追い払いながらの観劇となった。ここも場所のインパクトが強すぎて、女優が話している内容が断片的にしか頭に入らない。高野竜演出の芝居ではこういうことがちょくちょくある。でもそれで問題かといえば、そうでもない。観劇体験の充実はちゃんと味わうことができている。昨年、北千住のBUoYで上演があった時は二回見にいった。一回目は何がなんやらわからないかったけれど、二回目に見たら戯曲の内容が流石によく頭に入った。やはり複数回見に行くものだなあとは思ったものの、一回目の観劇で不満だったという訳ではない。
『鷹の風呂』は高野による創作劇だ。野外で声が聞き取りにくいということもあって、正直、ほとんど何が話されているのかわからなかった。家に帰ってウェブ上で公開されている戯曲を読むと、「ああ、これではわからなくても如何しようもないわ」と思う。難解だ。でも面白い。テクストとしてその内容を咀嚼していくと、この戯曲は実に味わい深い文学作品だ。イェイツの『鷹の井戸』を出発点に話がどんどん自由に拡散、拡大していく。内容がわかればわかったで面白いのだが、上演中にわからなくても観劇体験としては特に問題ないように思えるが、平原演劇祭の面白いところだ。
観客の「なんじゃこれは?」という表情を受け止めつつ、この厄介なテクストを30分に渡って語り、役柄を演じきった女優はどうかしている。素晴らしい。
『鷹の井戸』『鷹の風呂』合わせて上演時間は90分ほどだった。
終演後は食事が用意されていた。『鷹の風呂』で言及されていたコノシロの酢漬けとスパイスで味付けされたクリームチーズ、きゅうりを、それぞれが自分でフランスパンに挟んで食べるサンドイッチが供された。コノシロの酢漬けのサンドイッチは実に美味しかった。これに加えてアメリカンチェリーとすもも(?)というデザートもあるのも嬉しかった。
【劇評】カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』2019/05/22@渋谷ギャラリー・ルデコ
「今」、「ここ」にいる「私」が語る『ハムレット』
演技者だけでなく、観客も芝居が終わったあとは、精力を使い果たしたような状態になる。詩的で混沌とした断片的なイメージの集積が、後半に一気に凝縮され、行き詰まるようなクライマックスがどんどん密度を高め、加速しながら連続する。私がこれまで見たカクシンハンのシェイクスピアはどの作品も、「今」、「ここ」にいる「私」のシェイクスピアであり、400年以上前にイギリスで書かれた戯曲をしっかり読み込んだうえで、その世界を現代の日本に生きる私たちに繋げるための様々な劇的でトリッキーな仕掛けが魅力となっている。
『ハムレット×SHIBUYA』は2012年のカクシンハンの旗揚げ公演で上演された作品であり、カクシンハンの上演作品のなかでは唯一のオリジナル作品だ。タイトルが示す通り、『ハムレット』のセリフや場面が劇中ではふんだんに織り込まれている。しかし場所はAKIHABARAとSHIBUYA、現代の東京だ。
ほぼ一年前に見たカクシンハン『ハムレット』の冒頭の場面を思い出す。あれは確かシブヤのスクランブル交差点の雑踏から始まった。まだ観客席に開演前のざわつきが残っている状況のなか、劇ははじまる。傘をさした多数の人間が舞台上に描かれた横断歩道を横切る。この都会の雑踏のなかに一人の男がうずくまっている。しかし彼に気を留めるものはいない。せりふのない五分ほどの群像劇は『ハムレット』の物語全体の象徴的なレジュメとなっていた。現代を強引にシェイクスピアの時代に結びつけるオープニングの演出は、カクシンハンの演劇美学の高らかなマニフェストとなっていた。原発事故後のフクシマの惨状を『ハムレット』に重ねた昨年の公演はまさに現代のわれわれの作品としてのシェイクスピアの可能性を提示するものだった(ただしそこに「フクシマ」というある意味手垢のついてしまった記号を用いたことは、作品の解釈の可能性を狭めてしまったように思え、私は評価できなかった)。今回『ハムレット×SHIBUYA』を見ることで、一年前に上演されたカクシンハン『ハムレット』の舞台上演の記憶を見たときが蘇ってきた。あの『ハムレット』の印象的なオープニングのあと、舞台上の世界はテープが巻き戻されるように一気に過去の時代へ、シェイクスピアの『ハムレット』で描かれた「デンマーク」へと移行していった。
現代劇として翻案された『ハムレット×SHIBUYA』では時間は巻き戻されない。抽象化され、象徴化された場としてのアキハバラとシブヤが舞台となり、この場所は二人の青年として擬人化される。『ハムレット×SHIBUYA』では、木村龍之介自身の『ハムレット』という作品に対する姿勢や解釈がより直接的に伝えられる。ハムレットに共鳴し、その存在の混沌と闇の中に果敢に身を投じ、格闘する作・演出家自身の姿が晒されているように感じられた。
ギャラリー・ルデコの中央には小さな丸テーブルが置かれ、そこが演技エリアの核となる。客席の椅子はそのテーブルを取り囲む形で、無造作に並べられている。この上演空間は客席を含め、作品の舞台である「アキハバラ」と「シブヤ」のミニチュアとなっていて、あえて殺風景で雑然とした状態で置かれている。リーディング公演ではあるが、俳優たちはテーブルの周りで座ってテクストを朗読するのではない。照明の効果も使用され、ときに俳優が客席のあいだにも侵入する動的でダイナミックな演出となっている。何よりも俳優の演技が発する熱量が圧倒的だ。その激しさにこれがリーディングであることを忘れてしまう。ギャラリー・ルデコの空間全体が象徴的な劇的空間となり、観客もその空間の一部として取り込まれてしまう。
安定していた世界が突然ゆらぎ、崩れてしまったときに、人はどうなってしまうのか。世界と「私」との関係が激しく揺さぶられたときのハムレットの混乱と不安は、断片的な言葉の連鎖というかたちでそのまま伝えられる。断片に解体され、再構成された『ハムレット』は、現代の「アキハバラ」と「シブヤ」という場のなかで徐々に不可解で不気味で怪物的なイメージを形成しはじめる。あらかじめ観客に伝えられる「あらすじ」は奇妙で意味不明の状況しか記しておらず、冒頭の詩的で断片的なモノローグ解読の手助けにはならない。『ハムレット×SHIBUYA』の難解さは、あのハムレットが味わい、作・演出の木村が共鳴した混乱と不安を、観客であるわれわれにも共有させることを意図しているかのようだ。このわけのわからなさは解決されることはない。ハムレットの苦悩は重苦しい闇として最後まで持続する。いやむしろその闇はどんどんと深くなって行った。
上演時間の1/3を過ぎる頃からようやく混沌から抜け出し、それまで提示されていた暗示的な要素が劇的なアクションを形作り、物語が展開し始める。しかしそこから提示されるシーケンスがことごとく濃密で、凝縮された感情が爆発するような激しい場面が最後まで延々と続くのだ。劇中人物に憑依されたかのような俳優の熱演に、観客である私は戸惑いのなか、なんとも抗しがたい強引さで引きずり込まれた。あの荒々しさには現代の日本に生きる自分の物語として『ハムレット』に真摯に向き合ったときに作・演出の木村の中で湧き上がった思いが反映されているに違いない。ハムレットが具現する闇の深さに飲み込まれそうになったとき、恐怖に思わず悲鳴をあげそうになる。その悲鳴を演劇という形式に抑え込むことでなんとか第三者に伝えようとする。『ハムレット×SHIBUYA』では、作・演出の木村と俳優たちが全力で溢れ出る闇と格闘し、それを不器用に表現としてかたちにしようとするさまがむき出しになっている。
クライマックの場面が次々と続くような重量感のあるリーディング公演で、終演後の俳優たちは精力を使い果たした抜け殻のようだった。観客である私も重力から解放されたような虚脱感を覚えた。カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』は、「今」、「ここ」に生きる「私」が『ハムレット』とどう格闘したのかを伝える壮絶な記録であり、『ハムレット』の闇が含みもつ可能性の豊かさを示す舞台だった。[観劇日:5/22]
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カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』2019/05/22@渋谷ギャラリー・ルデコ
http://kakushinhan.org/others/hs
【公演情報】
カクシンハン特別リーディング公演『ハムレット×SHIBUYA─ヒカリよ、俺たちの復讐は穢れたか─』
- 作・演出:木村龍之介
- 原作:シェイクスピア『ハムレット』
- 会場:ギャラリー LE DECO 4
- 2019年5月22日(水)─26日(日)
- 出演:河内大和、真以美、岩崎MARK雄大、島田惇平、鈴木彰紀、椎名琴音
- 映像:松澤延拓
- 照明:中川奈美
- 音響:大園康司
- 美術:乗峰雅寛(文学座)
- 企画・製作:カクシンハン