閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

中世とフランス文学についての七冊の本(《7daysブックカバーチャレンジ》のまとめ)

FBでの投稿をまとめたものです。

【ブックカバーチャレンジ】
・読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
・好きな本を1日1冊、7日間投稿

中世とフランス文学についての本を中心に七冊の本を紹介しました。

【第一日目】

佐藤彰一池上俊一『西ヨーロッパ世界の形成』、《世界の歴史 10》、中央公論社、1997年。

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全三〇巻あるみたいですが、私の手元にあるのは中世の時代を扱った第十巻だけです。今は文庫版があるみたいですが、私が持っているのは1997年初版の単行本版。

久々にめくってみたけれど、いい本だ。王朝史、政治史ではなく、社会史、文化史的な記述が中心の中世史です。
図版も多いし、文章も平易で読みやすい、高校生ぐらいから読める格好の西洋史入門だと思ったのですが、アマゾンのカスタマーレビューには
「著者は「フランスかぶれ」なのでしょうか?
フランス語の文章を直訳したようなヘタな日本語を書いて、ご満悦?この文体のせいで読むのが苦痛でした。」
というのもあって、「ええ、マジっ!」って感じでした。

こんな本を手に取るくらいなのですから、それなりの歴史マニアだと思うのですが、それでもこの文章が「ヘタ」で「読むのが苦痛」となってしまうと。うーむ。

 

 

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【第二日目】

ベディエ編、佐藤輝夫訳『トリスタン・イズー物語』、岩波書店、1953年、1985年(改訂新版)。

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ワーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》によってよく知られている中世の不倫の愛の物語ですが、ケルト起源のこの物語の最も古いテクストは十二世紀後半にフランス語で書かれたものです。
この『トリスタン・イズー物語』は偉大な中世フランス文学研究者のジョゼフ・ベディエ(1864-1938)が1890年に発表した作品です。ベディエは十二世紀後半に書かれた二つの「トリスタン」のうち、より原型的であると考えられてるベルールのテクストをベースに、ベルールのテクストでは欠落しているエピソードを、中世に書かれた他の「トリスタン」もの記述で補い、編纂することで、独自の「トリスタンとイズー」の物語群の総体を示しました。

『トリスタンとイズー』の物語は、中世のあいだに形成されていったこの不倫のカップルを主人公とする様々なエピソードの集成です。
優れた文献学者であり、中世のテクストを綿密に検討したベディエによる「トリスタン」は、ワーグナーが楽劇化にあたってそぎ落とした様々な不思議で美しいエピソードを含んでいます。濃厚な愛の情念がせめぎ合うワーグナーとは、別の世界がそこでは展開しています。

しかし文献学者ベディエもまた十九世紀後半のロマン主義の美学にどっぷりとつかった人間でした。彼の『トリスタン・イズー物語』は、中世のオリジナル・テクストに依拠しつつも、その物語の世界や価値観は近代的なロマンチシズムによって大きく歪曲されているという批判があります。しかしそのロマン主義のフィルタごしの中世の愛の物語がなんと豊かで美しいことでしょうか。

 

トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

  • 発売日: 1985/04/16
  • メディア: 文庫
 

 

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【第三日目】

松原秀一『中世ヨーロッパの説話:東と西の出会い』、中央公論社、1992。

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世界各地に伝わる説話の類似を実証的に検証することで、古代・中世の東西世界における文化的交流の痕跡をたどろうとする壮大な比較文学研究です。
松原秀一先生の博識ぶりは驚異的です。専門の中世フランス文学はもちろん、近現代のフランス文学、古典古代の文学、そして日本の説話集や仏典など。丹念にテクスト間の共通点と相違点を拾い上げて、数千キロの距離と数百年の時にわたるつながりを浮かび上がらせていきます。
この著作の驚くべきところは、文献学的な手続きを踏まえた学問的著作でありながら、その語り口はやわらかいエッセイ風であるところです。松原先生の留学時代のエピソードなどが、自然に学術的な内容へとつながっていきます。
大量の文献の引用がありますので、読むのには若干煩雑さがありますが、遠い彼の地に伝わっていた物語が、その引用と先生の推論を介して、日本までつながっていくリンクが見えてくる展開に、知的な刺激に満ちた読書体験を味わうことができます。
もちろん私にはこんな学識にはとうてい到達することができません。その知識の巨大さとそれをやわらかく語る術、人間的余裕ともいえるものには、研究者、人間としての格の違いを感じずにはいられません。
松原秀一先生の著作には知的好奇心に駆られ、未知の領域に踏み込んでいくのを先生ご自身が楽しんでいる様子が感じられるような気がします。

 

 

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【第四日目】

作者不詳/川本茂雄訳『歌物語 オーカッサンとニコレット』、岩波書店、1952年。

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『オーカッサンとニコレット』は十三世紀初頭に書かれた古フランス語の短い物語です。歌付きの叙情詩と散文の語りが規則的に交錯する形式で書かれ、「歌物語」chantefableと写本にはありますが、この形式で書かれた作品は中世フランスではこの作品しか残っていません。

南フランスのボーケールの王子オーカッサンは城代の養女ニコレットに激しく恋い焦がれています。しかしニコレットは遠国から連れて来られ、イスラム教徒から買われた奴隷女だったため、王も王妃もその恋を認めるわけにはいきません。ニコレットとオーカッサンはそれぞれ幽閉されますが、駆け落ちし異国へと逃れます。

波瀾万丈、荒唐無稽で、素朴な物語です。私がこれまでに読んだ中世フランス語で書かれた文学作品のなかで最も愛らしく、美しい作品です。

そして川本茂雄先生の擬古文調の訳文が、実に典雅で心地よいのです。こうした擬古文調はリズミカルで、音楽性が豊かで美しい。古文・漢文をちゃんと勉強していなかった私にはこんな訳文は絶対に作れないですね。

何誰が聴こし召されうや、
ニコレットにはオーカッサン
二人の眉目よき若者の
古き傳説の歓びや、
面輝ける乙女ゆゑ
若者忍べる大難儀、
樹てた手功の良き詩句を。

 

歌物語 オーカッサンとニコレット (岩波文庫)

歌物語 オーカッサンとニコレット (岩波文庫)

  • 発売日: 1952/02/05
  • メディア: 文庫
 

 

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【第五日目】

澁澤龍彦『悪魔のいる文学史─神秘家と狂詩人』中央公論社、《中公文庫》、1982年。

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早稲田大学第一文学部の仏文専修に進んだのですが(早稲田では2年次から専修に分かれるシステムです)、もともと仏教美術研究をやろうと思って美術史の専攻がある大学を受験した私は、仏文に入るつもりは全くありませんでした。大学一年のとき漢文を一所懸命勉強したのですが、必修の第二外国語のフランス語を落とし、専修進級のための再試験を受けているうちに、希望専修だった美術史の定員が埋まってしまい、第4志望(事務所に第4志望まで書けと言われました)の仏文専修に行くことになってしまったのです。
まあ仏教美術から仏文なので、「仏」ではつながっていたとは言えますが。
高校時代は小説をよく読んでいましたが、読むのは日本の作家ばかりで、外国の作家の小説はほとんど読んでいませんでした。仏文に進んだその頃の私が知っていた仏文学の情報のほぼすべては澁澤龍彦のエッセイから得たものでした。澁澤龍彦は高校時代に夢中になって読んだ作家の一人でした。
澁澤龍彦のエッセイのなかで私が一冊挙げるとなれば、この『悪魔のいる文学史』になります。19世紀フランスのロマン主義の潮流に育まれながらも、その奇矯でグロテスクな想像力と破天荒な生き様ゆえに主流になりえなかった異端の文学者・思想家に焦点をあてた文学史です。
高校時代に読んだときはフランス文学の知識がほぼ皆無だったのでこの特異な文学史の面白さはよくわからなかったのだけれど、仏文専修に入ってから読み返してようやく面白さがわかるようになりました。今、久々に読み返すと、初版の単行本は半世紀近く前に出版された本というのに、やはり実に面白い本です。

19世紀後半の詩人、シャルル・クロが書いたトリスタンとイズーの対話詩の引用がとりわけ印象に残っています。
トリスタンとイズーの情熱的な愛のやりとりが、一音節語の羅列によって表現されています。一音節の語が並んでいるだけれだど、ちゃんと韻を踏んでいます。
有名な詩なので内容はご存じのかたは多いでしょう。
澁澤龍彦はこの詩の訳はのせていません。私もあえて訳さないままで紹介しておきます。本当にくだらない(笑)、でも最高。

トリスタン
Est-ce

Ta
Fesse ?
Dress
La.
Va ...
Cesse ...
ゾル
Cu ! ...
Couilles !
Tu
Mouilles
Mon
Con

 

悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人 (中公文庫)

悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人 (中公文庫)

  • 作者:澁澤 龍彦
  • 発売日: 1982/03/10
  • メディア: 文庫
 

 

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【第六日目】

月村辰雄『恋の文学誌:フランス文学の原風景をもとめて』、筑摩書房、1992年。

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著者の月村辰雄先生は東大文学部で教鞭を執った中世フランス文学の研究者です。私は残念ながら月村先生の授業に出たことはないし、実際に会う機会もありませんでした。

『恋の文学誌』は一般向けの著作で、中世フランス文学だけについて語られているわけではありません。古典古代から近現代にいたるヨーロッパの文学作品に見られる恋愛の諸相が、堅実な学識に基づく様々な学術的アプローチによって考察されている名著です。
といってもその記述は専門書の堅苦しさや無味乾燥とは無縁です。書物に書かれたさまざまな恋愛のありかたに、著者がまっすぐ誠実に向き合っていることが文章から伝わってきます。

書物を丁寧に読み解くという作業は、この著作では、恋愛そのもののプロセスのアナロジーになっています。新しい書物に手にして眺めるときの浮き立った気持ちとそれを読み解いていくときの苦しみと喜びは、ここでは恋愛という体験と重ねられているのです。『恋の文学誌』の記述は著者の教養の深さを感じさせるのだけれど、そのペダンティスムは嫌らしいひけらかしがなく、品格を感じます。そして何よりも著者の「私」を常に感じさせる抒情詩のような味わいもある本でもあります。

この本は大学学部の授業で、シニカルでおしゃれな雰囲気でちょっともてそうな仏文の教員が紹介していたので知りました。このとき、この教員はこんなことを言ってこの本を紹介したのを今でも覚えています

「僕の友人の月村君という東大で先生をやっている人が本を出したんですが、そのタイトルが『恋の文学誌』というものだったんで、『え!?月村君がこんなロマンチックな本を』とびっくりしたんですよ。月村君が書くのだったら、タイトルの「恋」の前に「失」が抜けてるんじゃないかなとか、思ったりして」

意地悪なことをうれしそうに言う先生でした。月村先生と会ったことのない私は月村先生がもてなかったどうかはしりません。

ただよく言われることですが、恋愛というのは研究するより、むしろ実践すべきものであるし、恋愛の実践において豊かな人たちは恋愛を研究したりはしないような気がします。恋愛について真剣に思い悩み、それを研究し、語ろうとする人は、どちらかというともてない人ではないでしょうか。

それにしても古典古代から現代に至るまで、西洋の文学というのは継続的に恋愛に翻弄される人間たちを描いているのだなあと、この本を見ると改めて思います。
久々にパラパラめくって拾い読みしたけれど、やはりものすごく面白い本です。文学部にやってきたあらゆるもてない人に勧めたい本です。

 

 

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【第七日目】

ガブリエレ・ダンヌンツィオ/三島由紀夫池田弘太郎訳『聖セバスチャンの殉教』、国書刊行会、1988年。

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ダンヌンツィオの『聖セバスチャンの殉教』は、ドビュッシー作曲の音楽とともに1911年にパリ・シャトレ座で初演されました。当時、パリで注目されていたバレエ・リュスのレオン・バクストが衣装と美術を担当し、バレリーナのイダ・ルビンシュタインが主役を努めました。
ドビュッシーの劇音楽はこの作品と《ペレアスとメリザンド》だけだったはずです。まともに上演すれば5-6時間はかかるテクストですが、原稿の遅れがあってドビュッシーが音楽をつけたのはごく一部で、現在はドビュッシーの音楽を伴う縮約版のみがたまに上演されるようです。

ダンヌンツィオは『聖セバスチャンの殉教』を執筆するにあたり、中世演劇研究者のギュスターヴ・コーエンから中世聖史劇について多くの情報と示唆を得ました。作品は各幕に「景」mansionという名称を用いたり、8音節平韻という中世劇で用いられた韻文を用いるなど、中世聖史劇の形式を踏まえて書かれています。

三島由紀夫池田弘太郎による翻訳の初版は1966年に出版されました。この翻訳は、修辞過剰でごてごてとしたダンヌンツィオの原文よりさらにバロック的でおどろおどろしい言語になっています。文体、内容ともに濃厚すぎて読み通すのはかなりしんどいテクストです。

三島にとってダンヌンツィオが特別の作家であることは、筒井康隆が発表した評論、『ダンヌンツィオに夢中』に詳しく書かれています。また『仮面の告白』のなかで主人公は中学生のころ、マンテーニャの「聖セバスチャン殉教図」に激しい性的興奮を覚え、その画像を見ながらejaculatioを行ったことが詳細に書かれている。

聖セバスチャンは3世紀頃のローマの軍人ですが、弓矢を全身に受けながら恍惚とした表情で空を見上げるポーズを描いた彼の殉教図は、ルネサンス以降、数多くの画家が残しています。

『聖セバスチャンの殉教』は、中世の聖人伝・聖史劇の世界が、ベルエポックの終末期のフランス演劇・音楽、そして三島由紀夫とつながる数少ないモチーフです。カナダのケベックの劇作家、ミシェル=マルク・ブシャールの戯曲『リリーズ』のなかでもダンヌンツィオの『聖セバスチャン』は重要なモチーフとして使われています。

ちなみにデレク・ジャーマンが1975年に聖セバスチャンの伝記映画を作っていてえ、この映画は全編でラテン語が話されています。

 

 

「自分の音楽の嗜好に影響を与えたアルバム10枚を選んで1日1枚紹介するチャレンジ」まとめ

第一日目
デラー・コンソート《パリ・ノートル・ダム楽派の音楽とランス大聖堂の音楽》(1961)

 

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ルフレッド・デラー(1912-1979)は古楽演奏のパイオニアのひとり。この録音は1961年のようです。大学一年のとき、はじめて聞いたギヨーム・ド・マショーがこのアルバムでした。管楽器の伴奏なども入ったおどろおどろしい《キリエ》に衝撃を受けた。「なんだ、これは!」という感じでした。

これを聞いたのがきっかけで古い音楽に関心を持って、リコーダー・アンサンブルのサークルに入り、ギヨーム・ド・マショーの叙情詩で卒論を書くことになったわけです。

これを書きながらひさびさに聞き返しています。

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第二日目
メレディス・モンク《Turtle Dreams》(1983)

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ヴォカリーズ(母音唱法)によるアヴァンギャルド音楽、といってもその音楽は親しみやすく、案外聞きやすい音楽です。オルガンで短いワルツの同じ旋律が延々と繰り返されるうえで、ヴォカリーズの様々なバリエーションが展開していきます。

大学に入学した頃にはまりました。六本木、池袋のWAVEで推していたように思います。自分の音楽体験でWAVEの存在は大きいものでした。80年代末から90年代はじめに東京にやってきた若者でこういう人は少なくないと思います。WAVEってスカしていて、「東京」の都会の文化って感じでした。西武が元気あった時代です。当時、関西には西武はありませんでした(つかしんはありましたが)。

来日公演にも行きました。どこでやったのか忘れてしまいましたが。黒い服を着て、下向いている不気味な人たちが集まっていたのをなんとなく覚えています。

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第三日目
チョン・ミョンフン指揮、オペラ・バスティーユ管弦楽団メシアン:トゥランガリーラ交響曲》(1991)

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この録音がされた年に、私はパリに留学していてオペラ・バスティーユでこの名曲を聞きました。メシアンは存命中で私が座っていた座席の数列前の席に座っていました。終演後、指揮者のミョンフンに促されてメシアンが立ち上がり、観客に向かってゆらゆらと手を振った様子が思い浮かびます。《メシアン:トゥランガリーラ交響曲》を通しで聞いたのはこのコンサートが初めてでした。すごい音楽を聴いてしまったなあと、終演後うちのめされ、呆然としていたことを覚えています。
このとき私は学部の4年で、パリに語学留学していたのでした。学生の身分でパリにいるときに得られる恩恵のひとつは、超一流のアーティストたちのコンサート、オペラ、演劇、美術などを学生料金(しばしば無料で)で浴びるほど見ることができるということです。当時、オペラ・バスティーユ管弦楽団の主任指揮者だったチョン・ミョンフンのコンサートには足繁く通いました。
2002-2003年にパリに留学していたときには、ミョンフンはフランス放送フィルハーモニー管弦楽団の主任指揮者でした。私が住んでいた19区のアパートから歩いて10分ほどのところにCité de la musiqueがあり、ここのホールで度々フランス放送フィルハーモニーのコンサートが行われていました。
この年度のシーズンはミョンフンが振ったコンサートでパリとパリ近郊で行われているものはすべて通ったと思います。そのなかでもシテ・ド・ラ・ミュージックでのフランス放送フィルハーモニー管弦楽団によるチョン・ミョンフン指揮《シェヘラザード》のコンサートでの感動の大きさはしっかりと身体に刻み込まれています。ダイナミックな表現のなかでわきあがる濃厚な官能性に陶酔し、体中がじんじんしびれて、終演後しばらく立ち上がれませんでした。
パリに留学していたとき、チョン・ミョンフンの音楽にどれほど元気をもらったかわかりません。

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第四日目
デイヴィッド・マンロウ《グリーンスリーヴズ》(1976)

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大学時代はリコーダー・アンサンブルのサークルに入り、目白のギラルラの安井敬さんの教室に通っていました。早稲田大学リコーダー・アンサンブルは1970年代には山岡重治さんや大竹尚之さんといったプロ奏者を輩出したサークルですが、私がやっていた80年代末から90年代初めはサークルのメンバーは5、6人の弱小サークルでした。部室もなく、練習場所は平日夜に大学の空き教室を求めて彷徨していました。

マンロウのこのアルバムは当時は手に入らなくて、リコアン(という略称だった)の先輩にカセットテープにダビングしたものを貰って、それを繰り返し繰り返し聞いていました。
リコーダーの演奏技術という点ではマンロウは旧世代の演奏家で、その後のブリュッヘンの表現力にははるかに及びません。でも私はマンロウの素朴でポコポコした笛の音色が大好でした。個々の楽器そのものの特性や個性に優しく寄り添う演奏のように思えます。

デイヴィッド・マンロウ《グリーンスリーヴズ》(1976)にはルネサンスバロック期のリコーダー音楽だけでなく、ヴォーン=ウィリアムズ、ウォーロックなどの近現代のイギリスの作曲家たちの作品も含まれています。本当に名曲ばかりです。

2016年に発売されたCD版に入っている、井上亨氏によるマンロウへの愛に満ちた周到な内容の解説も読み応えがあります。読めばマンロウの音楽をさらに深く楽しめるようになるでしょう。

《ゴシック期の音楽》、《宮廷の愛》のシリーズ、《中世ルネサンスの楽器》などマンロウのアルバムは、私にとって最良の音楽史の教科書でした。大学学部時代、リコアンのコンサートなどの選曲も中世フランス文学・音楽の勉強も、マンロウの足跡をひたすら追っかけていたような気がします。

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第五日目

ジェネシス《フォックストロット》(1972)

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高校時代はプログレにはまっていました。といっても私はプログレのなかでもメジャーなバンドしか知らないのですが。マニアックなファンがいくらでもいるジャンルです。
プログレ・バンドのなかではピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスが一番好きで、アルバムでは4枚目の『フォックストロット』(1972)が一番好きです。

プログレ屈指の名盤であるこのアルバムについては、ネット上の至るところで熱くて濃いレビューが掲載されています。
名曲ばかりですが、アルバムの最後に収録されている23分の大曲、《サパーズ・レディ》は圧巻。いまでも度々聞きます。思わず笑ってしまうくらいグロテスクでポップでドラマチックです。

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第六日目

イョラン・セルシェル《J.S. バッハ:リュート組曲集》(1984

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中学・高校とクラシック・ギターを習っていました。結局、あまり上達しなかったのでした。
大学のときにはクラシック・ギターの合奏サークルにも一時期在籍していました。サークルの雰囲気が「体育会」系っぽい雰囲気だったのと、独奏楽器であるギターで合奏してギター用に作曲された曲ではない曲ばかり演奏するのに違和感があって、1年ぐらいでやめてしまいました。

楽器のなかではギターの音色が一番好きかもしれません。クラシック・ギターのCDもずいぶん持っていましたが、私が一番好きな奏者はスウェーデン人のイョラン・セルシェルで、なかでも11弦ギターによるバッハのリュート組曲2枚組は愛聴していて今でもときどき聞きます。

バッハのリュート組曲のアルバムは多くの奏者が録音を残しているが、セルシェルの演奏は軽やかで優雅だ。その甘美な音色は実に繊細にコントロールされていて、表現されるニュアンスが豊かで味わい深い。ベタベタした暑苦しさがない。

別のアルバムに収録されている無伴奏バイオリンのためのパルティータに含まれる《シャコンヌ》の11弦ギターによる演奏は、その軽やかさゆえにちょっと物足りなさを感じるのだけれど、この2枚組のリュート組曲全集はセルシェルのバランスのよさと洗練がリュート音楽の高貴な遊戯性にはまっているように思えます

セルシェルのアルバムでは、19世紀古典主義のギター作曲家、フェルディナンド・ソルの作品集もすばらしいものです。ソルの曲はギターという楽器のポテンシャルを十全に引き出す名曲であることが、セルシェルの演奏からわかります。このソルのアルバムもいまもなお愛聴しています。

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第七日目

ザ・タリス・スコラーズ《トマス・タリス:スペム・イン・アリウム》(1985)

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トマス・タリス(1505頃-1585)は、テューダー朝の時代のイングランドを代表する作曲家のひとりです。彼の作品のなかでももっとも知られているのは、「40声部のモテット」こと《スペム・イン・アリウム》Spem in aliumでしょう。この曲の録音は数多いですが、私がはじめて聞いたのは(そして衝撃を受けたのは)1985年に発売されたザ・タリス・スコラーズのこのアルバムでした。
40声部の合唱曲は、各5声部からなる8群からなっていて、常に40声部が響いているわけではありません。じわじわと移動する蟻の大群のように声部が重ねられ、途中何箇所かで40声部すべてが歌われます。全声部が重ねられたときの音のうねりがしびれるような陶酔感をもたらします。合唱音楽の最高峰と言える傑作といっていいでしょう。

曲の長さは演奏団体によって異なるがおおむね10分前後になっています。歌詞はラテン語で、旧約聖書外典のユディット書から取られた数行の短い文句です。

Spem in alium nunquam habui praeter in te, Deus Israel, qui irasceris et propitius eris, et omnia peccata hominum in tribulatione dimittis.
Domine Deus, creator coeli et terrae respice humilitatem nostram.

私はあなた以外に決して望みを持つことはなかった
イスラエルの神よ
あなたは怒りと慈愛の人となり、
苦悩する人間をあらゆる罪から解き放つだろう
主なる神よ、天地の創造者よ
我らのつつましき願いに御配慮を

チューダー朝時代、16世紀のイングランドは優れた作曲家の宝庫です。ウィリアム・バード、ホルボーン、トマス・モーリー、ジョン・ダウランド、ジョン・ボルドゥイン、タヴァナー。そしてイギリス国教会創始者であるヘンリー八世も美しい器楽曲を残しています。
器楽合奏曲の楽譜も数多く出版され、大学時代にやっていたリコーダー・アンサンブルではこの時代のイギリスの作品をよく演奏していました。

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第九日目

ゲイリー・ムーア《コリドーズ・オブ・パワー》(1982)

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中学から高校時代は、アイルランドのギタリスト、ゲイリー・ムーアが大好きでした。当時は毎週土曜深夜に小林克也の『ベストヒットUSA』というテレビ番組をやっていて、それはそれは驚くべき熱心さでこの番組を見ていたものです。ゲイリー・ムーアもこの番組でフィーチャーされていたのが知ったきっかけだと思います。


ゲイリー・ムーアのアルバムで最初に聞いたのが1982年に発売されたこのアルバム《コリドーズ・オブ・パワー 》でした。このアルバムは日本でのゲイリー・ムーア・ブームのきっかけとなりました。久々に聞いていますが、ずーんとした重さがあって、エモーショナルな名曲揃いです。

一度好きになったらとことん掘りつくすほうなので、この後、1970年代前半のゲイリー・ムーアの最初のバンドのアルバム、その後のプログレフュージョンっぽいコロシアムII、ゲイリーが参加したシン・リジィのアルバムなど、ゲイリー・ムーアが関わったあらゆるアルバムは探して購入しました。

アルバムとして好きなのは、シン・リジィ『ブラック・ローズ』、70年代終わりに発売されたソロアルバム『Back on the street』です。70年代中期に発売されたハードなプログレ/ブルース風のThe Gary Moore Band『Grinding Stone』も好きなアルバムです。

いろんな音楽を聴いているうちに、高校2年ぐらいから音楽の嗜好が変わってしまい、ゲイリー・ムーアから遠ざかってしまいました。でもこのあと私がアイルランドに興味を持ち、アイリッシュ・トラッドを聞いたりするようになったのは、ゲイリー・ムーアがいたからだと思います。

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第九日目

ジャーニー《エスケイプ》(1981)

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今、自分が好んで聞く音楽ではないけれど、「自分の音楽の嗜好に影響を与えたアルバム」となると、ジャーニーの《エスケイプ》はやはり挙げなくてならないでしょう。アルバムの発売は1981年で私が中学生の頃です。


たぶん当時毎週食いつくように見ていた『ベストヒットUSA』で知ったのだと思います。ジャーニーなどのこの時代のアメリカン・ハードロックは、ポップでわかりやすい音楽ゆえに《産業ロック》と揶揄されたりもしますが、今、聞き返してみると曲調の通俗性、安っぽさはあるけれど、キャッチーな旋律は心に残るし、アレンジや演奏も含め完成度が高いです。やはりいいアルバムだし、ジャーニーはいいバンドだと思いました。スティーブ・ペリーの高音域、伸びやかな歌声は実に心地よいし、ニール・ショーンのギターもかっこいいですね。

中学の頃に小林克也の《ベストヒットUSA》にはまった私はこれ以後長いあいだ、ポピュラー音楽といえば英米のロックでした。ジャーニーの音楽は、中学生の私にとっては、未知で広大な世界への扉のようなものだったと思います。

このあと、プログレを聞き出したのも、ジャーニーの《エスケイプ》以前のアルバムが、プログレっぽいものだったことから関心を持つようになったのだったということを思い出しました。《エスケイプ》が大ヒットする以前の70年代後半のジャーニーの渋い音楽も悪くないです。

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第十日目

ヒリヤード・アンサブル《ジョスカン・デプレ:モテットとシャンソン集》(1983年)

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今、自分が好んで聞く音楽ではなく、「自分の音楽の嗜好に影響を与えた」となるとやはり若いときに聞いた音楽になってしまいます。


10枚目は、ヒリアード・アンサンブルのアルバム、《ジョスカン・デプレ:モテットとシャンソン集》です。アルバムのリリースは1983年ですが、私がこのアルバムを初めて聴いたのは大学2年のときなので、1989年か90年のことです。早稲田の仏文の小林茂先生が授業でこのアルバムを紹介し、アルバム一曲目に収録されている《アヴェ・マリア》を教室で聞いて、「なんて美しい音楽なのだろう!」と衝撃を受けたことを覚えています。それで授業後にそのまま高田馬場の駅前にあったCDショップムトウに行ってこのCDを早速購入したように思います。


今、久々にこのアルバムを聞き返していますが、、本当に珠玉の名曲揃いです。そしてその演奏のなんと繊細なことでしょうか。私の古楽は、一日目に紹介したデラーの《ノートルダムミサ曲》に始まり、そのあとにマンロウにはまっていったのだけれど、ヒリヤード・アンサンブルの音楽の美しさで古楽演奏の別の可能性も知ったのでした。ヒリアード・アンサブルの数々のCDも大学時代の私にとって重要な音楽の教科書となりました。

2018/12/13『コモン・グラウンド』@東京芸術劇場アトリエウエスト メモ書き

2018/12/13『コモン・グラウンド』@東京芸術劇場アトリエウエスト メモ書き
ヤエル・ロネン作『コモン・グラウンド』のリーディング公演で感じたことのメモ書き。
 
2月13日(木)19時30分/12月16日(日)14時
ユーゴスラビア紛争の加害者と被害者の共有地を探る
『コモン・グラウンド (Common Ground)』
作=ヤエル・ロネン&アンサンブルYael Ronen & Ensemble
翻訳=庭山由佳
演出=小山ゆうな(雷ストレンジャーズ)
出演=霜山多加志(雷ストレンジャーズ)、小林あや、蔵下穂波、松村良太(雷ストレンジャーズ)、野々山貴之(俳優座)、きっかわ佳代(テアトル・エコー)、マイ
音響=尾崎弘征
映像=神之門隆広
 

 

数年前に見たロネン作の『第三世代』のリーディング公演は鮮烈だった。ユダヤ人、ドイツ人、パレスチナ人(アラブ人)の三つのグループの若者がそれぞれの立場から率直にアラブ-ユダヤ-ドイツの加害と被害について語り合うという論争劇だ。オリジナル版ではユダヤ人、ドイツ人、アラブ人の俳優たちがそれぞれ当事者として、この論争劇の登場人物となった。
 
当事者性こそが焦点であるこの劇を、非当事者である日本人俳優が演じるのはもとより無理がある。しかしにもかかわらず『第三世代』のリーディング公演は、 アラブ-ユダヤ-ドイツの政治的緊張とは縁遠いところにある若い日本人俳優が演じていても面白かった。それはこの劇の枠組みのなかで、圧倒的な真実、身もふたもない本音の応酬があったように感じられたからだ。そしてその上演は、私たち日本人としても、まさに韓国、中国の俳優たちとこのような本音をぶつけあう演劇が必要ではないかと思わせるものだった。実際にはこの作品にあるような本音をぶつけあうような議論は、国家が抱えている政治的・歴史的問題については非常に難しい。いろいろな配慮、イデオロギーがわれわれが抱えている本音の追及と表明を妨げてしまう。
 
しかし演劇というかたちなら、そうしたあらゆる忖度をとりはずした生々しい討論が可能となる。そしてそうした討論のシミュレーションは、われわれと他国他民族のあいだに存在するさまざまなわだかまり、問題点を浮き彫りにしてくれるかもしれない、ということを『第三世代』のリーディング公演は感じさせるものだった。『第三世代』は11月にはリーディング公演と同じ中津留章仁演出で本公演も行われた。
さて『コモン・グラウンド』はベルリン在住の旧ユーゴ人たちが抱える問題を、ドイツ人、イスラエル人との討論を通して、明らかにしていくというものだ。当事者演劇としての作り方は、『第三世代』の方法を踏襲したものだ。この作品はドイツでは『第三世代』以上の成功を収めたという。私は大きな期待をもって『コモン・グラウンド』のリーディング公演に臨んだのだが、この公演は私にとっては期待外れのものだった。
 
そもそもなぜ『コモン・グラウンド』が『第三世代』を超える評価をドイツで得ることができたのかが私には不可解だ。作品としての出来は『第三世代』のほうがはるかに優れたものだと思った。『第三世代』ではアラブ-ユダヤ-ドイツという三つ巴の憎悪の緊張感に満ちた関係に基づくものだったが、それに比べると『コモン・グラウンド』で問題になっているのは、旧ユーゴ問題であり、ドイツ、イスラエルは直接の当事者とは言えない。イスラエル人とドイツ人は、ユーゴ人たちをつついて彼らの本音を引き出す役割だ。劇の核となる構造自体、『第三世代』と比べると弱い。旧ユーゴ内部には、1990年代を通じて続いた紛争をめぐる対立があり、ベルリン在住の旧ユーゴ人はそのわだかまりを抱えているわけだが、旧ユーゴの分裂状況があまりにも複雑で、しかも現在、セルビアマケドニアクロアチアボスニアヘルツェゴビナなどに分離独立して、一応の平衡関係を得た直後であるがため、つまりあまりにもアクチュアルな問題であるためか、ベルリン在住旧ユーゴ人たちの言葉もあいまいで鋭さに欠ける。『第三世代』の各人物ような「本音」の応酬を回避しようとする心理が旧ユーゴ人にはあるのではないだろうか。
彼らが語るユーゴの問題は、どこかありきたりの紋切り型で、われわれが想像し、期待したような言葉であり、彼らの本音とは程遠いように私には感じられた。これが『コモン・グラウンド』が私にとってつまらなかった大きな理由である。
脚本の多くがせりふのやりとりではなく、「語り」であったことも、この作品を単調にしていた。完了・過去を「~た」とする日本語表現の羅列は必然的に散文的で単調・退屈なものになってしまう。
 
日本人の俳優たちは、原作の戯曲にある言葉をそのまま引き受けて語ることしかできない。原作戯曲の旧ユーゴ人たちのことばがあいまいで鋭い批評に欠けたものである以上、彼らを演じた日本人俳優の言葉もぼんやりとしたものになってしまう。
私は平均的な日本人よりも、ユーゴスラビアというか、バルカン半島の国々には関心を持っていると思う。私には旧ユーゴ地域に住む友人が数名いるからだ。旧ユーゴ地域はフランス語教育が盛んで、ニースで行われているフランス語教員向けの研修でバルカン半島出身の何名かのフランス語教員と私は親しくなった。バルカン出身の友人には、セルビア人、ボスニアヘルツェゴビナに住むセルビア人、マケドニア人、クロアチア人がいる。つい最近まで民族間で血で血を洗う紛争状態にあった国々だが、ニースの語学教育研修会場や研修中に滞在する寮で彼らはごく自然に交流し、談笑している。しかし彼らの間にわだかまりがないわけがないということは、しばらく付き合うとわかってくる。
 
セルビア人教員は私にこういうことを話したことがある。
「ミキオ、マケドニアは最近、首都にアレクサンダーの銅像を建てたんだ。あいつらは本当に愚かだよな」
彼女は普段はマケドニア人のフランス語教員と親しげに話していたのにこんなことを言う。
「アレクサンダーはマケドニア出身だから、別に銅像ぐらい建ててもいいんじゃないか?」
「ミキオ、何言っているんだ。アレクサンダーはギリシア人だ。今のマケドニア人はスラブ系だよ。なんのつながりもないギリシア人の英雄を自分たちの英雄みたいに扱って銅像建てたりするから、マケドニア人はバカなんだよ」
日本セリビア交流プロジェクトが、セルビアの現代劇を上演したことが数年前にあった。この公演を見た某演劇研究者が、「日本人俳優の身体がすさまじい内戦の修羅場を乗り越えたセルビア人を演じても説得力がない」と評していた。セルビア他、旧バルカンの国々が内戦によって被った壮絶な状況については、ぬるい平和的状況にあったわれわれ日本人には想像しがたいところもあるだろう。報道などで伝えらえたバルカンの状況は凄惨なものだった。
 
しかし内戦を経て、分離独立した旧バルカンの人々の姿は、少なくとも私が知る限りにおいて、そうした凄惨な状況を連想させるものではない。ニース研修では旧ソ連や東ヨーロッパの旧共産圏の国々の人たちとロシア人のあいだには明らかな溝があり、彼らは積極的に接触しようとはしない。しかし旧ユーゴの国々の人々の関係は一見もっと穏やかだ。しかしその穏健さが表面的なものであり、その裏側には様々な思いが交錯していることが、きわめて繊細な配慮を互いにしているらいしいことは、彼らと付き合いが少し深くなると見えてくる。
私が旧ユーゴの人々との関係で知ったそういう微妙な雰囲気を『コモン・グラウンド』の公演には感じ取ることができなかった。

2019年の観劇生活のまとめ

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2019年に見た芝居の数は101本だった。一つの公演で複数の作品が上演される場合をどう数えるか、同じ作品を2度見た場合はどうなるか、といった数え方の問題はあるけれど。ほぼ例年なみの観劇本数である。観劇のあとは簡単な記録とともに満足度の評価をつけているが(☆☆☆☆☆が満点、★は1/2点)、振り返ってみると見た直後の満足度は高くてもあまり内容が思い出せない作品がある。また逆に観劇直後の満足度評価ではいい点数をつけていなくても、あとからじわじわと来るような作品もあった。

私の2019年の演劇ベスト10は以下の通りとなる。作品としての出来がいい悪いというより、私への印象度の強さに基づくベスト10かもしれない。今、思い返しても、なお鮮烈に思い浮かべることができるような作品である。以下、各作品について簡単にコメントを記しておく。

黒谷白山神社若連中『川北長治』は昨年の私の観劇のなかで圧倒的にインパクトのある公演だった。これは岐阜県高山市荘川町の神社の祭礼で毎年上演される村芝居だ。毎年9月のはじめに日をずらして、荘川町内の4つの神社で祭礼芝居が競うように上演される。このあたりは地歌舞伎が盛んな地域なのだが、荘川町内の神社の祭礼芝居は大衆演劇で上演されるような人情時代劇、いわゆる「ヤクザ芝居」なのが特徴だ。本当は四神社すべての芝居を見たかったのだが、滞在日数の問題があり、全開は黒谷白山神社の芝居しか見ることができなかった。この祭礼芝居についてはブログに詳しいレポートを掲載している。村芝居の作り手と観客の熱気がすごい。今の時代にこんなユートピアのような共同体芝居が岐阜県の山村で存続していることに感動した。

平原演劇祭・孤丘座(高野竜作・演出):『アラル海鳥瞰図』は、廃業した工場の最上階、金網の吹きさらしの空間で上演された。『アラル海鳥瞰図』は七人の登場人物によるモノローグ劇だ。中央アジアのかなたにあり、旧ソ連の強引な灌漑事業によってどんどん縮小していった湖、アラル海を軸に、七人の孤独な若者のエピソードが交錯する。互いに交流することのない七人の思いが、アラル海に投影され、重なり合う。深い余韻をもたらす傑作。私は高野竜の劇作品のなかでこの作品が一番好きかもしれない。平原演劇祭についてはできるかぎり詳しいレポートをブログに投稿するようにしているのだけれど、この作品は思い入れが強すぎてレポートを書くことができなかった。

その言葉の詩的な表現の濃厚さゆえに、あるいは俳優の存在と声によって、劇的風景を引き出すことが優先されるがゆえに、平原演劇祭では上演の場のイメージは強烈に頭に残るのだが、戯曲の言葉は上演の現場では聞き取れなかったり、理解できなかったりすることが多い。今回の『アラル海鳥瞰図』では、二回公演を見にいったこともあったが、俳優の発することばをしっかりと聞き取ることができる公演だった。

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ゲッコーパレードの『リンドバークたちの飛行』は昨年早稲田大学の演劇博物館での公演を見て感銘を受けた作品で、再演があればかならず見にいこうと思っていた。演劇博物館での公演は感銘が深すぎてレポートを書くことができなかった。宮城の納豆製造所での公演についてはレポートをブログに掲載している。この作品は劇場ではないさまざまな場所でその場所の特性を十全に生かした演出によって上演される。ゲッコーパレードは埼玉県蕨市の民家を本拠地としているのもユニークだ。この築40年くらいはたっているだろう古ぼけた小さな民家でもやはり劇場空間ではない場の特性を生かしたユニークな公演を行っている。

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うずめ劇場『フェードル』も劇場でなない野外空間での上演だった。北九州の小さな砂浜で、夕方から夜にかけて上演があった。時間がたつにつれ潮が満ちてきて、海の水がどんどん迫ってくるなかでの公演だった。『フェードル』の舞台となったトレゼーヌも海辺の町であり、イポリットは海岸でネプチューンがはなった怪物に惨殺される。劇の最後の場面ではフェードルが夜の海のなかへ入っていった。この野外劇も強烈な演劇体験だったが、レポートを残すことができなかった。

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文学座(高橋正徳演出):『ガラスの動物園』@ 東京芸術劇場シアターウェストはまさにこれぞ文学座の芝居という細部まで丁寧に演出されたリアリズム演劇だった。戯曲講読の授業の学生を連れて見にいった。学生のほとんどはこうした小さい空間でストレートプレイを見るのははじめてだったのだが、ドラマのみならず、細かな演出上のしかけも含め楽しんで見たようだった。

Frank Castorf:『Bajazet - En considérant le Théâtre et la peste』@MC93はパリで見た芝居。ラシーヌの『バジャゼ』を、現代フランスにおける移民問題などともからめた暴力的で独創的な発想の演出で分解し、再構成する。同時中継の映像の使い方も手慣れたもの。これぞ前衛というカストルフらしい挑発的、刺激的な舞台だった。

ゴキコンの舞台は毎回期待を裏切らない過激さと面白さ。こちらの期待値はどんどん高くなっているのに、それを上回る刺激的な見世物を見せてくれる。『見世物ナイト』では前座のスーパー猛毒ちんどんのパフォーマンスの異様さも強烈だった。『膿を感じる時 』@北千住BUoYは久々のゴキコンの屋内劇。観客も逃げ惑うスリリングで危険な芝居だった。

Arnaud Hoedt, Jérôme Piron Dominique Bréda:『La Convivialité : la faute de l'orthographe』@Théâtre Tristan Corbièreはパリの町中の劇場で見た芝居。フランス語文法の不合理性をわかりやすく解説し、その不合理を教育で押しつける無意味さを批判する内容だ。前半50分が二人の演者による漫才のような芝居、後半が観客との討論にあてられていた。いつか日本語版の上演をしたい。

12月には『青い鳥』の公演を三本見た。そのなかでも一番よかったのが、演劇集団円(阿部初美演出):『青い鳥』@シアターΧである。映像の使い方、映像コンテンツが優れていた。親子で見る舞台として作られていたが、小さな子供も喜んで見ていたが、メーテルリンクがこの戯曲にちりばめた象徴的なメッセージが印象に残るような演出がされており、大人の観客が見ても深遠で味わいの深い舞台となっていた。

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  1. 9/1 黒谷白山神社若連中:『川北長治』@黒谷白山神社
  2. 11/24 平原演劇祭・孤丘座(高野竜演出):『アラル海鳥瞰図』@ Arakawa dust bunny
  3. 11/2 ゲッコーパレード (黒田瑞仁他演出):『リンドバークたちの飛行』@宮城野納豆製造所
  4. 8/12 うずめ劇場 (ペーター・ゲスナー演出):『 フェードル』@ 若松逆水浜
  5. 6/30 文学座(高橋正徳演出):『ガラスの動物園』@ 東京芸術劇場シアターウェスト

  6. 12/6  Frank Castorf:『Bajazet - En considérant le Théâtre et la peste』@MC93
  7. 4/29 ゴキブリコンビナート他:『見世物ナイト2 』@阿佐ヶ谷ロフトA
  8. 5/30 ゴキブリコンビナート(Dr. エクアドル) :『膿を感じる時 』@北千住BUoY
  9. 12/2 Arnaud Hoedt, Jérôme Piron Dominique Bréda:『La Convivialité : la faute de l'orthographe』@Théâtre Tristan Corbière
  10. 12/24 演劇集団円(阿部初美演出):『青い鳥』@シアターΧ

 

 

 

 

 

 

日付 カンパニー・出演者 作者 演出 公演名 劇場 料金 評価
2019/01/02 地点 チェーホフ 三浦基 ワーニャ伯父さん アンダースロー 3000 ☆☆☆☆
2019/01/11 財団、江本純子 江本純子 江本純子 タキシード ギャアリー・ルデコ3F 3300 ☆☆☆☆
2019/01/23 尾上菊五郎 並木五瓶   通し狂言 姫路城音菊礎石 国立劇場 1500 ☆☆☆☆
2019/01/24 OSK日本歌劇団 荻田浩一 荻田浩一 円卓の騎士 銀座博品館劇場 0 ☆☆☆★
2019/02/01 SPAC レオノーラ・ミラノ 宮城聰 顕れ 静岡芸術劇場 3400 ☆☆☆☆★
2019/02/03 トリコロールケーキ/劇団「地蔵中毒」 今田健太郎、大谷皿屋敷 今田健太郎、大谷皿屋敷 懺悔室、充実の4LDK 浅草九劇 3000 ☆☆☆☆★
2019/02/14 せんがわ劇場 ラリー・トランブレ 高橋正徳 顔のない少年 せんがわ劇場 0 ☆☆☆
2019/02/15 SPAC ジャン・ランベール=ヴィルド、平野暁人、出演俳優 ジャン・ランベール=ヴィルド、ロレンゾ・マラゲラ 妖怪の国の与太郎 静岡芸術劇場 3400 ☆☆☆
2019/03/01 ニース・オペラ座 Igor Stravinski / Wystan Hugh Auden et Chester Kallman Jean De Pange LA CARRIÈRE DU LIBERTIN (THE RAKE'S PROGRESS) Opéra de Nice 5500 ☆☆☆☆★
2019/03/02 ニース・オペラ座 Joris et Emma Barcaroli Emma Barcaroli LE ROUGE ET LE NOIR Salle Jedrinsky de la Diacosmie 1800
2019/03/07 Thomas Jolly Sénèque Thomas Jolly Thyeste Théâtre de Caen 4500 ☆☆☆☆★
2019/03/09 Bouffes du Nord Harold Pinter Ludovic Lagarde La Collection Bouffes du nord 4500 ☆☆☆☆★
2019/03/23 赤門塾     第45回赤門塾演劇祭 赤門塾 0 ☆☆☆☆★
2019/04/13 インフィニシアター フランツ・カフカ ギー・スプラング カフカの猿 シアターΧ 0 ☆☆
2019/04/18 ホエイ 山田百次 山田百次 喫茶ティファニー こまばアゴラ劇場 30000 ☆☆☆☆
2019/04/24 三宅優(Zu々) ルネ=ダニエル・デュボワ 田尾下哲 クロードと一緒に 横浜赤レンガ倉庫1号館 0 ☆☆
2019/04/27 ヨアン・ブルジョワ ヨアン・ブルジョワ ヨアン・ブルジョワ Scala - 夢幻階段 静岡芸術劇場 3400 ☆☆☆☆
2019/04/27 SPAC 唐十郎 宮城聡 ふたりの女 舞台芸術公園野外劇場「有度」 3400 ☆☆☆☆
2019/04/29 ゴキブリコンビナート エクアドル Jr.   見世物ナイト2 阿佐ヶ谷ロフトA 2500 ☆☆☆☆☆
2019/05/02 バーズ・オブ・パラダイス ロバート・ソフトリー・ゲイル ロバート・ソフトリー・ゲイル マイ・レフトライトフット 静岡芸術劇場 3400 ☆☆☆☆★
2019/05/03 ロロ 三浦直之 三浦直之 グッド・モーニング 静岡文化会館 0 ☆☆☆☆
2019/05/03 ままごと×康本雅子 柴幸男 康本雅子   駿府城公園 0 ☆☆☆
2019/05/03 梅棒     BBW 静岡市役所 0 ☆☆☆☆★
2019/05/03 FUKAIPRODUCE羽衣     洗濯船 静岡市役所 0 ☆☆☆★
2019/05/03 山田うん       静岡市役所 0 ☆☆☆☆
2019/05/03 範宙遊泳 山本卓卓 山本卓卓 フィッシャーマンとマーメイド 静岡市役所 0 ☆☆☆☆★
2019/05/03 SPAC ヴィクトル・ユゴー 宮城聡 マダム・ボルジア 駿府城公園 3400 ☆☆☆
2019/05/12 ヌトミック 額田大志 額田大志 お気に召すまま こまばアゴラ劇場 0 ☆☆☆★
2019/05/18 前進座 三世瀬川如犀   佐倉義民伝 国立劇場 2600 ☆☆☆☆★
2019/05/19 劇団青春座 橋下和子 馬淵理麻 おっさんラプソディー 北九州芸術劇場 3000 ☆☆☆
2019/05/22 カクシンハン 木村龍之介 木村龍之介 ハムレット×SHIBUYA ギャラリー・ルデコ 0 ☆☆☆☆
2019/05/24 少年王者舘 天野天街 天野天街 1001 新国立劇場 3078 ☆☆☆☆☆
2019/05/25 かんじゅく座 鯨エマ 鯨エマ 方舟は飛沫をあげて 中野ザ・ポケット 3500 ☆☆☆☆
2019/05/27 立本夏山 ガルシーア・ロルカ 上田晃之 ジプシー歌集 喫茶茶会記 3000 ☆☆
2019/05/30 ゴキブリコンビナート Dr.エクアドル Dr.エクアドル 膿を感じる時 北千住BUoY 3000 ☆☆☆☆☆
2019/06/01 THEATRE MOMENTS シェイクスピア 佐川大輔 #マクベス 調布市せんがわ劇場 4500 ☆☆☆☆★
2019/06/07 新国立劇場 アイスキュロス/ロバート・アイク 上村聡史 オレステイア 新国立劇場中劇場 3500 ☆☆★
2019/06/08 劇団唐組 唐十郎 久保井研 ジャガーの眼 新宿花園神社 3000 ☆☆☆☆☆
2019/06/13 ラッパ屋 鈴木聡 鈴木聡 2.8次元 紀伊國屋ホール 5500 ☆☆☆☆☆
2019/06/16 平原演劇祭 孤丘座 高野流 高野竜 鷹の井戸、鷹の風呂 葛生 0 ☆☆☆☆★
2019/06/21 FUKAIPRODUCE羽衣 糸井幸之介 糸井幸之介 ピロートーキングブルース 本多劇場 4000 ☆☆☆
2019/06/26 青年団国際演劇交流プロジェクト2019 ジャン・ランベール=ヴィルド ジャン・ランベール=ヴィルド ジャン×Keitaの隊長退屈男 アトリエ春風舎 0 ☆☆☆★
2019/06/29 愛希れいか、成河、古川雄大、田代万里生 ミヒャエル・クンツェ、シルヴェスター・リーヴァイ 小池修一郎 エリザベート 帝国劇場 5000 ☆☆☆☆★
2019/06/30 文学座 テネシー・ウィリアムズ 高橋正徳 ガラスの動物園 東京芸術劇場シアターウェスト 6000 ☆☆☆☆☆
2019/07/06 劇団ともしび座 永井愛 三嶋友美 こんにちは、母さん 郡上市総合文化センター 1500 ☆☆☆
2019/07/07 ハラプロジェクト     一 舞踊劇鬼の月「黒塚」より
二 新作スーパーコミック歌舞伎「足助版鈴ヶ森」
農村舞台寶榮座 2000 ☆☆☆☆
2019/07/09 青年団+韓国芸術総合学校+リモージュ国立演劇センター付属演劇学校 平田オリザ 平田オリザ その森の奥 こまばアゴラ劇場 0 ☆☆☆★
2019/08/11 劇団青春座 源祥子 井生定巳 おばちゃんGlowing Up ! 北九州芸術劇場 3000 ☆☆☆☆
2019/08/11 劇団華     浅草三兄弟、籠釣瓶舞踊劇 宝劇場 1900 ☆☆☆☆
2019/08/12 うずめ劇場 ジャン・ラシーヌ ペーター・ゲスナー フェードル 若松逆水浜 2000 ☆☆☆☆☆
2019/08/13 うずめ劇場 マリヴォー ペーター・ゲスナー 贋の侍女 北九州芸術劇場 2000 ☆☆☆
2019/08/14 花總まり井上芳雄、成河、涼風真世 ミヒャエル・クンツェ、シルヴェスター・リーヴァイ 小池修一郎 エリザベート 帝国劇場 9000 ☆☆☆☆
2019/08/18 ゲッコーパレード ゲーテ 黒田瑞仁 ファウスト 旧加藤家住宅 3500 ☆☆☆☆
2019/08/22 岡崎藝術座 神里雄大 神里雄大 バルパライソの長い坂をくだる話 ゲーテ・インスティトゥート東京 3500 ☆☆☆
2019/08/23 DULL-COLORED POP 谷賢一 谷賢一 福島三部作 第一部『1961年:夜に昇る太陽』 東京芸術劇場シアターイース 4200 ☆☆☆☆★
2019/08/23 平原演劇祭 のあんじー 太宰治 高野竜 カチコミ訴え 女の決闘 港区霞町教会 1000 ☆☆☆☆★
2019/08/28 DULL-COLORED POP 谷賢一 谷賢一 福島三部作 第二部『1986年:メビウスの輪 東京芸術劇場シアターイース 5250 ☆☆☆☆
2019/08/28 DULL-COLORED POP 谷賢一 谷賢一 福島三部作 第三部『2011年:語られたがる言葉たち』 東京芸術劇場シアターイース 5250 ☆☆☆☆★
2019/09/01 黒谷白山神社若連中     川北長治 黒谷白山神社 0 ☆☆☆☆☆
2019/09/14 iaku 横山拓也 横山拓也 あつい胸さわぎ こまばアゴラ劇場 0 ☆☆☆☆☆
2019/09/14   和田尚久 山口貴義 成城マドモアゼル アトリエ第Q芸術 0 ☆☆☆☆
2019/09/15 劇団メリーゴーランド 平野華子、俵 ゆり 平野華子、俵 ゆり 誘惑のクミンシード 文化シャッターBXホール 4300 ☆☆☆★
2019/09/21 前進座 朱 海青 鵜山仁 ちひろー私、絵と結婚するのー なかのZERO 小ホール 5600 ☆☆☆★
2019/10/03 劇団チョコレートケーキ 古川健 日澤雄介 治天ノ君 東京芸術劇場シアターウエス 4000 ☆☆☆☆☆
2019/10/11 市原佐都子(Q) 市原佐都子(Q) 市原佐都子(Q) バッコスの信女─ホルスタインの雌 愛知県芸術劇場小ホール 3000 ☆☆☆☆★
2019/10/12 劇団クセックACT ハロルド・ピンター 深沢伸友 家族の声、もしくは ギャラリーブランカ 3000 ☆☆☆★
2019/10/13 劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール イェツェ・バーテラーン イェツェ・バーテラーン ものがたりのものがたり 名古屋市芸術創造センター 3500 ☆☆☆☆
2019/10/20 横浜いずみ歌舞伎 竹田出雲   菅原伝授手習鑑 テアトルフォンテ 0 ☆☆☆☆
2019/10/21 デューダ・パイヴァ カンパニー デューダ・パイヴァ、ナンシー・ブラック ナンシー・ブラック BLIND 東京芸術劇場シアターイース 4500 ☆☆☆
2019/10/24 シャウビューネ劇場 エドゥアール・ルイ トーマス・オスターマイアー 暴力の歴史 東京芸術劇場プレイハウス 5000 ☆☆☆☆★
2019/10/25 前進座 真山青果 中橋耕史 鼠小僧次郎吉 新国立劇場中劇場 6000 ☆☆☆★
2019/11/02 ゲッコーパレード ブレヒト 黒田瑞仁 リンドバークたちの飛行 宮城野納豆製造所 4000 ☆☆☆☆☆
2019/11/09 笑の内閣 高間響 髭だるマン ただしヤクザを除く こまばアゴラ劇場 0 ☆☆☆☆
2019/11/09 ハチス企画 ラガルス 蜂巣もも まさに世界の終わり アトリエ春風社 0 ☆☆☆
2019/11/17 新国立劇場 デイヴィッド・グレッグ 瀬戸山美咲 あの出来事 新国立劇場 6000 ☆☆☆
2019/11/21 鳥公園 西尾佳織 西尾佳織 終わりにする、一人と一人が丘 東京芸術劇場シアターイース 3500 ☆☆☆★
2019/11/22 壁なき演劇センター チェーホフ 杉山剛志 ワーニャ伯父さん シアタートラム 4000 ☆☆☆
2019/11/23 平原演劇祭・孤丘座 高野竜 高野竜 アラル海鳥瞰図 Arakawa dust bunny 3000 ☆☆☆☆★
2019/11/23 SPAC 久保田梓美 宮城聡 マハーバーラタ 池袋西口公園 3000 ☆☆☆☆
2019/11/24 平原演劇祭・孤丘座 高野竜 高野竜 アラル海鳥瞰図 Arakawa dust bunny 2500 ☆☆☆☆☆
2019/11/24 京浜協同劇団 伊賀山昌三/三遊亭円朝 藤井康雄/護柔一 結婚の申込/死神 スペース京浜 2500 ☆☆☆☆
2019/11/28 Julia Perazzini Julia Perazzini Julia Perazzini Holes & Hills Ménagerie de Verre 25 euro ☆☆☆★
11/29 Ana Rita Teodoro Ana Rita Teodoro   Fofo Théâtre de la Cité Internationale 11 euro ☆★
11/30 Château de Chantilly     Alice et le mènage enchanté Grandes écuries du Château Chantilly 21 euro ☆★
11/30 Guillaume Vincent Guillaume Vincent Guillaume Vincent Mille et une nuits Odéon Théâtre de l'Europe 0 ☆☆☆☆
2019/12/02 Arnaud Hoedt, Jérôme Piron Dominique Bréda, Arnaud Pirault, Clément Thirion Dominique Bréda, Arnaud Pirault, Clément Thirion La Convivialité : la faute de l'orthographe Théâtre Tristan Corbière 30 euro ☆☆☆☆☆
2019/12/03 Crazy Horse           ☆☆☆☆
2019/12/04 Benjamin Lazar Verdi Benjamin Lazard Traviata Cinéma le Balzac 0 ☆☆☆☆★
2019/12/05 Opéra de Paris Albert Reinmann, Shakespeare Calixto Bieito Lear Palais Garnier 75 euro ☆☆☆☆
2019/12/05   Stefan Kaegi Stefan Kaegi Granma. Les trombones de La Havane La Commune 29 euro ☆☆☆☆★
2019/12/06   Jean Racine
Antonin Artaud
Frank Castorf Bajazet - En considérant le Théâtre et la peste MC93 29 euro ☆☆☆☆☆
2019/12/14 国立劇場 近松半二   近江源氏先陣館:盛綱陣屋 国立劇場 4800 ☆☆☆☆
2019/12/14 国立劇場 チャールズ・チャップリン 大和田文雄 蝙蝠の安さん 国立劇場 0 ☆☆☆☆
2019/12/15 SPAC ブレヒト 渡辺敬彦 RITA&RICO 静岡芸術劇場 0 ☆☆
2019/12/20 libido メーテルリンク 岩沢哲野 青い鳥 こまばアゴラ劇場 0 ☆☆
2019/12/22 ウイングキッズリーダーズ 平田大一 比屋根秀斗 オヤケアカハチ 石垣市民会館 3000 ☆☆☆★
2019/12/24 演劇集団円 メーテルリンク 阿部初美 青い鳥 シアターΧ 4500 ☆☆☆☆☆
2019/12/24 堀企画 平田オリザ 堀夏子 トウキョウノート アトリエ春風舎 0 ☆☆☆☆★
2019/12/25 世田谷シルク メーテルリンク 堀川炎 青い鳥 シアタートラム 3900 ☆☆☆★
2019/12/26 平原演劇祭 高野竜 高野竜 歳末ロシア・ナイト 烏森住区センター 6000 ☆☆☆☆★

平原演劇祭2020 一年劇団・孤丘座解散野外劇「奉納 人生は長いのだろう #橋の下演劇」」

平原演劇祭2020 一年劇団・孤丘座解散野外劇「奉納 人生は長いのだろう #橋の下演劇」」

 

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2020/4/5(日) 11:00-16:00
場所:多摩川左岸 是政橋下
1000円+投げ銭
出演:
武田さや、空風ナギ、アンジー、栗栖のあ、ひなた、もえ、夏水、青木祥子

「詩とは何か」(もえ)「ねむりながらゆすれ」(ひなた)
ブルーサンダー」(夏水、詩:暁方ミセイ)
「河原のかはたれ」(全員)

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高野竜が主催する平原演劇祭は一年に6、7回の公演を行うが、ここ数年は春の公演は西武多摩川線の終点、是政駅の近くにある小さな喫茶店豆喫茶でこを借り切って行われるのが常だった。

今年は喫茶店内ではなく、多摩川の是政橋の下での野外劇となったのは、コロナウイルスの問題があったからである。高野竜が公演場所の変更の決断をしたのは2月前半で、横浜停泊のクルーズ船でのコロナウイルス感染が問題になりはじめた頃だった。

この頃は日本でのコロナウイルス感染は、クルーズ船を除いてはごく散発的な感染者しか確認されておらず、高野竜のこの判断を私は「それにしても、野外劇に変更しなければならないようなものなのかな」と私は思っていた。多摩川河川敷、是政橋の下で演劇上演が行われるはこれがおそらく初めてだったはずで、役所等の許可を取るのはいろいろとたらい回しされかなり大変だったようだ。

結果的に高野の判断は正しかった。いや日本のコロナウイルス状況は高野が想像していた以上に進んでいたかもしれない。

東京は週末は「不急不要の外出自粛」の要請が出ていた。東京都がこうした要請をするよりずっと前から、私は3/15(日)にフランスから帰国して以降、自主的に外出をしないようにしていたのだが、この平原演劇祭だけは行かずにはいられない。

今回の公演は、大学生の武田さやと空風なぎがメンバーの一年限りの劇団、孤丘座の解散公演だった。昨年の3/31に立ち上がった高野竜と二人の女子大生俳優の一年劇団は、今回の公演も含め8回(!)の公演を行ったが、この七回の公演のいずれもいわゆる普通の劇場とは異なる特殊な環境で行われた。もともと高野竜の平原演劇祭では劇場ではない場を利用した公演が主なのだが、孤丘座の公演はとりわけ平原演劇祭の野外公演の可能性を追求するものとなった。洞窟や真夜中の山の中、崖の下といった演者にとっても、観客にとっても過酷な場所での公演が多かった。若い女性の二人が、高野竜のどうかしている演劇によくも一年間、脱落することなく付き合ったことだと思う。私は自分の体調不良や仕事の都合などで、残念ながら孤丘座の公演をいくつか見逃している。

しかし高野と空風なぎ・武田さやの一年の活動の集成となる今回の公演だけは何としてでも見にいかなければならないと思っていた。空風、武田の最終公演であるだけでなく、のあ、アンジー、ひなた、夏水、青木祥子といった最近の平原演劇祭のスターが勢揃いする公演でもあった。

「自粛要請」は出ているが、「外出禁止令」は出ていない。コロナウイルス感染拡大の状況から東京都のロックダウンは必至だと私は考えていて、平原演劇祭の日よりまえにロックダウンが宣言されることを恐れていた。幸いロックダウンは発令されなかった。

ロックダウンは発令されていないとはいえ、感染拡大には当然配慮しなくてはならない。私の家から是政までは22キロほどの距離があるが、今回は半月以上の引きこもり生活の運動不足の解消もかねて、自転車で現地まで行くことにした。6段変速のママチャリで80分ほどで到着した。東京の西側は平坦で坂道があまりないので疲労はそうでもない(と思っていたのだけれど、翌日に一気に疲労がやってきて身体が重かった)。

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平原演劇祭の広報はほぼツィッター頼みだ。上演によっては観客が数人ということもたびたびある。今回は東京のはずれのかなりへんぴな場所での野外劇で、さらに「外出自粛要請」期間中ということでどれくらいの観客が来るのかなと思ったら、河原の橋の下には30人ほどの人が集まった。変わった場所でゲリラ的に独創的な公演を行うということで、平原演劇祭の認知度も高まっているのかもしれない。

野外劇上演となった今回の平原演劇祭だが、会場となった河川敷には仮設舞台も客席も用意されていない。風が吹き抜ける是政橋の橋の下の空間全体が公演会場となり、観客は俳優の動きに合わせてぞろぞろと移動する。30人ほどの観客の半数は若い女性で、半数はおっさんだ。

開演前の挨拶で平原演劇祭主催の高野竜が「これからは野外劇がどんどん盛んに行われるようになるような気がします」といったことを言っていたが、高野竜ほど野外劇の可能性を突き詰め、上演空間の特性を引き出すような戯曲を書き、演出し、公演を行うことのできる演劇人はそうそういないだろう。

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演劇祭は現役女子高生によるモノローグ劇「詩とは何か」から始まった。是政で「詩とは何か」が上演されるのはこれが九回目になる。毎年演者は変わるので主人公を演じる高校生女優も今回のもえが九代目となる。ただし野外でこの演目が上演されるのは今回が初めてだ。

高校に通うのをやめてしまった一人ぼっちの女子高生が家の近所の高台から駅前の広場の様子を望遠鏡で眺める。駅前広場にはいつも同じナンパ師がいて、ひっきりなしに女性に声をかけている。しかしめったに成功しない。女子高生はこのさえないナンパ師がなぜか気になって、いつもその様子を望遠鏡越しに追っていたが、ある日、彼が啞であることに気づいてショックを受ける。ジェスチャーと筆談で彼はナンパを続けていたのだ。望遠鏡で数百メートル離れた高台からこっそり彼を見ていたのに、彼がこちらを向き、手を降って挨拶をしたような気がした。

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高野竜は優れたモノローグ作品を何編も書いているが、そのなかでも現役女子高生劇「詩とは何か」は鉱物の結晶のような美しさを感じさせる傑作だ。思春期の女性に特有のはかなくさ、うつろいやすさ、不安定さがもたらすきらめきが、「詩とは何か」には凝縮されているような気がする。「詩とは何か」を他者の前で演じきったあと、高校生の女優は思春期のある段階を終え、次の段階の女性へと変貌していくように思える。「詩とは何か」はその変貌の様子を上演の過程で目の当たりにすることができる作品だ。

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野外劇の「詩と何か」は、橋の下の空間を広く使って演じられた。最初はコンクリートの橋脚の壁をバックに始まったのだが、そこから周りを囲む観客に分け入り、どんどん橋桁のしたの河原を移動していく。演者と観客、そして是政橋したの広い河川敷が、すばらしい演劇的空間を作り出していた。

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もえの「詩とは何か」は、シームレスにひなたの「ねむりながらゆすれ」に引き継がれた。「詩とは何か」を語り終え、河原に置かれた椅子に横たわるもえに向かってひなたは遠くから駆けより、語りかける。

「ねむりながらゆすれ」も女優一人によるモノローグ劇だが、4人の年齢、国籍の異なる人物の語りからなり、東欧のモルドバルーマニアの東にある国家)にある沿ドニエストル地域の独立問題という大半の日本人にはなじみのない事柄が語られていることもあって、上演中は内容がほとんど理解できなかった。先程mixiに高野竜が公開してる戯曲を参照して、ようやく何がどのように語られていたのかが何となく理解できた。

芝居の内容はほとんど理解できなかったのだが、すらりとした体型の長身女優のひなたが、河原を駆け回り、時折河原の地面に身を投げ出し、服や手を泥だらけにしながら、4人の人物へと化身していくさまを、風景とともに楽しんだ。高野竜の戯曲は「詩劇」と称するにふさわしい文学性の高い美しいテクストなのだけれど、平原演劇祭で上演される際には高野は自作のことばが明瞭に観客に伝わることを重視していない。テクストに書かれたメッセージの内容よりも、ある風景のなかで、俳優の身体を通して、彼の書いた言葉が発声されるという状況が重要であり、それが上演の場所を異世界に変容させる。変容させるというよりは、戯曲、俳優、観客の存在によって、作品が上演されている土地が内包している潜在的な世界を呼び出すという感じかもしれない。面白みの乏しい散文的風景に内在する驚異の豊饒さを、平原演劇祭は浮かび上がらせる。俳優により声という実態を持つことで戯曲のテクストは、土地の魔法を引き出す呪文のように機能する。俳優は呪文を伝える神官のようであるし、観客はそこでたち現れる不思議な世界に取り込まれ、風景の一部となる。

ひなたの「ねむりながらゆすれ」の終演後、観客たちは橋脚の向こう側、是政橋の中央部、多摩川の流れのそばに誘導された。川のそばで観客を待っていたは、夏水である。

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夏水がやったのは、暁方ミセイの詩集『ブルーサンダー』を歩きながら朗読するというものだった。歩きながら詩を読み上げる彼女に、観客がぞろぞろついて行くだけなのだが、その歩くルートが河川敷の未知なき道をかきわけてというかなり過酷なものだった。夏水はときおり立ち止まることもあるけれど、基本的には観客を気にすることなくマイペースで歩きながら、次々と詩を静かに読み上げる。しかしとにかく道が悪い。ごつごつとした河原の石の上、水浸しになったドロの上や急斜面の土手、雑草の生い茂るなかなど、道なき道を進んでいくのだから、片手に詩集を持ち、息を切らさずに平然と読むのは実はかなり大変なのかもしれない。

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観客には若い人もいたが、運動不足のおっさんもいて、夏水を追いかけるのはかなりの難行だった。30人近くの観客がいたので、この歩行詩の行軍は難路ゆえに必然的にばらけてしまい、詩のテクストの内容を味わうどころではなかった。暁方ミセイの詩はかなり難解といってよく、言葉の連ねに意味を辿ろうとすると、さっと逃げていってしまうようなところがある。是政橋を通行する車の走行音や河原に吹く風の音、そして南武線を通過する列車の通過音で、朗読の声はしばしば妨げられた。南武線には詩集のタイトルである貨物列車の「ブルーサンダー」が朗読中に通過したが。夏水はそんなことを気にかけている様子はみられない。

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こうした歩行詩はなんと一時間近く続いたのだ。一時間近く、時折小雨のぱらつくなか、寒い思いをしながら無造作で殺風景な多摩川河川敷を、女優が語る詩の言葉の断片を追いかけながら歩き回った。さすがにあの荒野を一時間歩いて疲労した。詩の内容はほとんど理解することはできなかったが、詩の世界は存分に体感できたように思う。

歩行詩のあとに昼飯・トイレ休憩が入った。私は是政駅前のコンビニで買ったおにぎりとせんべいを橋桁の下の斜めになったところに座って食べた。川からコンビニまでは歩いて10分ほどだったので、午後の部の開始前にコンビニに寄ってトイレもすませておく。

午後の部が始まったのは午後1時40分頃だったと思う。午前の部はモノローグ劇2本と詩の朗読という単独の俳優によるパフォーマンスだったが、午後は全員が出演する「河原のかはたれ」という演目一本だった。

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この「河原のかはたれ」も平原演劇祭ならではの破天荒な怪作多摩川河川敷の開放的な空間をダイナミックに利用した壮大な作品だった。外枠は俳優が自分自身を演じる私的な語りである。その自分自身を演じる俳優たちの会話を外枠にして、そのなかに既存のメジャー作品の自由で奇抜な引用・パロディを挿入するという破天荒なコラージュだった。

外枠となる俳優たちの私的な語りは、俳優たちが素の状態で即興的にやられているような自然さで提示される。その内容も俳優たちのリアルの生活と結びついたものだ。この素の状態と映画の場面のパロディというあからさまな虚構のコントラストの大きさが愉快だ。

しかし上演時には私が俳優たちの「素の語り」だと思っていた台詞が、実は事前にしっかりテキストとして書き込まれたものであり、俳優たちは脚本に記されていた「自分」を演じていたことが、後で台本を購入して読んだときにわかって「やられた!」と思った。

さらにそのリアリティに満ちた語りの内容も虚構だったことが、さらにそのあとに判明して、二度「やられた!」と思う。高野竜の作品を何年も見ているのに、また私はだまされてしまった。

私的な語りのパートで、ともに大学4年の孤丘座の武田さやと空風なぎは自分たちの卒論のことを話す。イエイツの「骨の夢」を卒論とするさやはその内容を的確にレジュメしてみせる。空風ナギは「うないをとめ」の伝承を卒論とし、この伝承をもとにした謡曲の一節を朗唱する。私は本気で彼女たちふたりがこれらの作品を卒論の題材にしていると信じてしまったのだ。それくらいリアルなやりとりだったのである。

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 引用された作品すべてを私は把握していない。最初は平原演劇祭では古典といっていい『ジョジョの奇妙な冒険』からの引用だったらしい。これは私はわからないかったが他の人のツィートを読んで知った。私がわかったのは映画『復活の日』、『OK牧場の決闘』、『下妻物語』ぐらいだ。他にもあるに違いにない。

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およそこれらの作品の本格的なパスティーシュなど再現不可能な状況と俳優を使って、それらを強引につないで不可解で奇怪で混沌としたファルスを成立させてしまうのが高野竜の平原演劇祭のすごいところだ。無茶苦茶すぎてなにがなんだかよくわからない。でも面白い。

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この破天荒でエネルギーに満ちたファルスが是政橋の河川敷の空間で展開する。こんなに壮大で自由で突き抜けたスペクタクルを他のどこで見ることができるだろうか。

公演当日は風が強く、時折小雨が降る寒い日だった。多摩川の水はどろっと濁っている。俳優たちは河川敷の地面に転がり泥だらけになり、そして冷たそうな河のなかに入って行った。その勇ましさには「おおっ」と感嘆の声を上げてしまう。

過酷な上演状況のなかでもがくように演じる彼女たちが話す言葉は広い河原で必ずしも明瞭に聞こえない。しかしその身体と声は、俳優たちを見守る観客の存在とともに多摩川の風景と一体化し、広大な彼方の世界への連続を感じさせるものだった。

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最後は出演者全員による合唱で終わり。壮大なスケールの猛烈にばかばかしいファルスの幕切れにふさわしい牧歌的で学芸会的な終わり方だ。

孤丘座のふたりは、一年前はまあどこにでもいそうな女子大生という感じだった。この二人が一年間、高野竜のあまりに独創的で特殊な演劇を完走したことはおおいにたたえたい。彼女たちが望んだことだとはいえ、よくこんな無茶苦茶な演劇活動を脱落せず一年間持ち越えたものだと思う。高野竜はよくもここまでボロボロになりながら一年間責任をもって孤丘座の活動を全うしたなあと思う。

今回野外劇となったのは、コロナウイルス感染拡大という三ヶ月前には誰もが想定しなかった事態ゆえだが、このおかげで孤丘座は祝祭感に満ちた破格のフィナーレを迎えることができた。

劇団サム第5回公演『ことばのかいじゅう』『水平線の歩き方』

 

劇団サム第5回公演

練馬区立生涯学習センター

『ことばのかいじゅう』作:黒木美那、演出:田代卓

『水平線の歩き方』作:成井豊、演出:田代卓


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元石神井東中学校演劇部のOBOGを中心に有志で集まってできた劇団、劇団サムの第5回公演。

これまでは夏に年一回の公演だったが、今年は夏にキャラメル・ボックスの成井豊作『BREATH』を上演しただけでなく、2月にも上演時間一時間の作品の二本立て公演を行うことになった。予告では劇団サムの二本の前に、石神井東中学演劇部の『モノクロ』(一丁田やすたか作)の上演も予定されていたが、インフルエンザ流行のため石神井東中学演劇部の公演は中止になってしまった。

 

最初に上演されたのは黒木美那作『ことばのかいじゅう』だった。
作者の黒木美那は現在大学一年生で、この作品は昨年、彼女が高校三年生のときに書いた作品とのこと。

舞台は高校の教室で、登場人物は三人の女子高生だ。三名といっても一名はほんの短い時間、舞台に現れるだけで、実質的には二人の登場人物の対話劇である。クラスメートからの執拗ないじめにけなげに耐えている久保さんという女の子といじめで傷つく久保さんを見守り、彼女に寄り添おうとする河原さんという女の子の対話劇だ。久保さんは明るく強気な態度を貫くことで、自分を守ろうとしている。

放課後の教室で、机にされた落書きを一人で消している久保さんを見かけた河原さんは、久保さんの様子を見過ごすことができないが、彼女は同級生の久保さんに敬語で話しかけるいかにも不器用そうな女の子だ。久保さんは自分に言い聞かせるように、河原さんに話しかける。久保さんの明るい饒舌が、かえって彼女の受けたダメージの大きさを感じさせてしまう。おずおずと久保さんに寄りそう河原さんは、徐々に久保さんの心を開いていく。河原さんは両親に虐待を受けて深く傷ついてしまったために、人との距離感の取り方がわからなくなってしまっていた子だった。自分の思っていることを、不用意に吐き出すことで、他人を傷つけ、それによって人が自分から遠ざかっていくことを彼女たちは恐れている。しかし互いに心を開いて、それぞれの思いを受け止めた二人は、自分たちの心情を素直に言葉にすることで、自分たちが解放されることに気づく。絶望と諦念に囚われていた彼女たちは希望を見いだす。

 

登場人物二人だけのやりとりで、しかも動きの少ない作品だったのだが、声の調子や間だけでなく、言葉と連動した細やかな身体の動きがとても印象的だった。細かい演技の工夫に感心した。過度に感情的にならず、むしろ軽やかにリズミカルに対話が進行していく。自分と同年代の少女の気持ちをしっかりと丁寧に表現されたすばらしい演技で、一時間の上演時間、緊張感が途切れなかった。久保さんを演じた石附優香さんのちょっと鼻にかかったような声が、いじめられている女の子が抱えるさまざまな感情を見事に具現していたように思った。

二本目は昨年の夏に引き続き、キャラメルボックスの成井豊の作品の上演である。『水平線の歩き方』は、怪我によって引退を余儀なくされ、不自由な身体になってしまった社会人ラグビー選手の物語だ。6歳の時に急死した34歳の母の幽霊に、35歳の岡崎幸一は自分のそれまでの人生を語る。両親を失い、叔父叔母の夫婦のもとで育てられた彼は、孤独を内部に抱えつつも、新しい家族の愛情や友人や恋人、そしてラグビー選手としての成功のなかで順風満帆の人生を送っていった。しかし膝の故障によって選手生命を絶たれたことによって、彼は人生の目標を失ってしまう。絶望と孤独感のなかにあった彼は、母親への語りを通して、自分の人生を見直していく。

キャラメルボックスが活動休止してしまった今、劇団サムはキャラメルボックスのエッセンスを忠実に継承し、ある意味キャラメルボックス以上にキャラメルらしい舞台を見せてくれるような気がした。

出演者のアマチュアリズムが、人間への信頼に基づく健全でピュアなキャラメルボックスの世界の表現に、大きな説得力をもたらしているからだ。一年に一度ないし二度しか上演のない、同窓会のような公演に注がれた出演者たちの熱い思いが舞台からほとばしっている。私の娘は4年前に石神井東中学演劇部に所属していた(残念ながら劇団サムには参加していないのだが)。私は娘が中学に入ったころから、演劇部顧問の田代卓が指導する石神井東中学演劇部の公演を見ている。

 

そして中学を卒業し、数年たち、思春期後半の大きな変化を遂げた娘の同級生や先輩後輩が、この舞台で演じている。彼ら、彼女たちの劇的な変化、成長を目の当たりにするだけで胸に迫るものがある。中学を卒業し、ばらばらのところでそれぞれの世界を持つ仲間たちが、演劇を通じて旧師のもとに再び集うことの喜びが舞台から伝わってくる。そして演じること自体に彼らがいかに魅了されているかということも。

優れた中学演劇の指導者であった田代卓のもとで鍛えられた彼らの芝居は、細部まで神経が行き届いた美しい楷書体の芝居だ。中学演劇を出発点とし、学校演劇的な様式をベースとしつつ、出演者の成長とともに、小劇場や商業演劇的なものとは味わいの異なる独自のすがすがしい洗練が感じられるようになった。

 

『水平線の歩き方』はいかにも成井豊らしい、いかにもキャラメルボックスっぽい、健全でまっすぐすぎて気恥ずかしくなるような人間賛歌だ。しかし成井豊の作品を劇団サムほど堂々と説得力あるやりかたで上演できる団体はそうそうないだろう。

姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』文藝春秋、2018年。

 

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 

心がザラザラとするような後味の悪い小説だった。2016年に起こった東大生5人による女子大生への強制猥褻事件を取材した小説である。この小説に関心を持ったきっかけは、2018年12月に東大で行われた作者の姫野カオルコをパネリストに含むブックトーク・イベントの記事を読んだことだ。このブックトーク・イベントでは、東大教授でジェンダー論を専門とする瀬地山角が小説内記述と事実の違いを指摘することでこの小説を批判したことで、かなり紛糾したそうだ。その様子は東大新聞オンラインに詳しく報告されている。
 
小説のプロローグでまず伝えられていることだが、この小説は「東大生5人による女子大生への強制猥褻事件」をセンセーショナルな筆致で描写するものではない。全四章437ページのうち、三章までの333ページは事件の前史に当てられている。三章までは事件の当事者となる女子大生と東大大学院生の恋愛に関わる生活史を、彼らの高校時代から丹念に、緻密に記述しているのだ。そして事件について書かれてある第四章は、事件当日の生々しく、おぞましい描写が前半、その後日譚が後半という構成になっている。
 
作者の姫野が事件の当事者に与えたライフストーリーのディテイルに驚嘆する。作者がこの小説を書く動機となったのは、事件後の被害者となった女子大生へのバッシングだと言う。Twitterや匿名掲示板にこの被害者を誹謗するような書き込みが多数あった。「世に勘違い女どものいるかぎり、ヤリサーは不滅です」「被害者の女、勘違いしていたことを反省する機会を与えてもらったと思うべき」等々。
姫野は被害者女子大生をごく普通の女子大生として造形する。「東大生というブランドに憧れ、積極的に接近していく浅はかで性的に奔放な女子大生」ではなく。
作者が描いた平凡な、そして「標準的な」女子大生とはどのようなものか。都市近郊の住宅地に住む。庶民的で仲のいい家族のなかで育つ。小中高は地元の公立の学校に通い、中学から私立や「付属」の学校に進学する人たちは「自分とはちがう」人たちと認識している。生活態度はまじめで、よくない遊びも覚えず、おっとりとすごしている。異性から積極的にアプローチされるような美貌も持っているわけではないが、公立の共学では男子たちとはクラスメイトとして仲良くつきあってきた。メディアなどを通して流布している女子大生のステレオタイプは、ある種の先鋭的でひと目につくタイプの女子大生像に基づき形成されているものだと考えたほうがいいかもしれない。標準的な多数派の姿というものは案外その外部には可視化されないものだ。
 
こうした女子大生は実際には山ほどいるのだろう。『彼女は頭が悪いから』はこのような普通の女子大生が、どのような経緯であのおぞましくセンセーショナルで特異な事件にまきこまれるようになったのかという経緯を、彼女の高校時代から順々にその恋愛体験を追うことによって丁寧に描き出している。その恋愛体験は、華やかさとは無縁のごく慎ましく、微笑ましいものだ。
 
実は私は『彼女は頭が悪いから』を読みつつ、自分がこのようは「普通の」女子大生がどのような生活を送り、どのようなことを考えてきたなど、これまで彼女の立場にたって思い浮かべたことがないことに気づいた。
『彼女は頭が悪いから』の138ページの記述に、以下のようにある。
 
「日常生活に男子がいる。幼稚園から高校まで、例外なく、男は女を分類する。「かわいい子とそうでない子に」。「かわいい子とぶさいくな子」という分類ではない。「かわいい子」ではない子は全員、「そうでない子」だ(…)だが共学というところは「そうでない子」と判定されても、その学校がよほど荒れた環境でないかぎり、いじめられるわけでもなく、男子から冷たい仕打ちにあうわけでもないのである(…)むしろ「そうでない子」のほうが、男子と仲良くなるケースが多々ある。互いに構えず交流が積み重なるからだ」
 
『彼女は頭が悪いから』の主人公のひとりである美咲についての記述を読んで、私はおそらくちまたの女子大生の多くがそうであろうところの普通の子、「そうでない子」というのはどのような女の子であるのかを私ははじめて思い浮かべることができるようになったのだ。そもそもそういた子がどんな内面を持っているのか、どんな生活を送ってきたのかということに対して私は関心を持ったことがなかった。考えてみれば自分は恋愛対象としてはいわゆる「かわいい子」にしか関心がなかったし、その恋愛感情も相手に自己の願望を投影するという一方的なものでしかなかったような気がする。日常的な交流のなかで自然に親愛を深めていき、それが恋愛関係につながるという「健全」な付き合いというのをしたことがないのだ。私の恋愛経験はいびつでかつ貧しい。
  
『彼女は頭が悪いから』では美咲という標準的な若い日本人女性が、どういうきっかけとプロセスで恋愛を経験していくのかが丁寧に描かれてる。それは私にとってはこれまで関心の外になったことがらであり、未知の情報であったので、非常に興味深く読んだ。
 
強制わいせつ事件の加害者の一人であり、被害者の元恋人でもある東大大学院生のつばさのライフヒストリーもまた緻密に書き込まれている。父親は官僚で、母親は専業主婦。広尾の国家公務員宿舎に住む。兄は中高一貫の男子校から東大文1に進んだ。つばさはその兄に反発を感じ、中学は敢えて公立を選ぶ。高校は生徒全員が東大をめざすような教育大付属の進学校に進み、東大では理1に進学した。つばさ以外に事件に関与した東大生たちについてもかなり詳しく小説のなかでは書かれているのであるが、上記の東大で開催されたブックトークイベントのなかで、瀬地山角は東大生について書かれたディテイルについていくつもの事実誤認があり、それが小説のリアリティと説得力を奪っているといった趣旨の批判をしている。批判の要点をまとめると、小説のなかで「三鷹寮が広い」と書かれていた、小説のなかの東大生たちが挫折のない若者として描かれていた(実際には東大では優秀な者の集団にいるがゆえの挫折を抱えているものが圧倒的多数である)、そして理1の男子学生の大半は女性に縁遠く、つばさのようなプレイボーイを東大理1の代表例のように記述されているのは悪質なミスリードであるといったことになる。
 
小説を読み終えたあとで、上記の東大新聞オンラインにある瀬地山角の発言を読むと、彼の批判は小説のなかの東大生描写の枝葉末節についての難癖に過ぎないように思えてしまう。あの小説は、この事件で東大生である彼らがしたかったことは、私立女子大生である彼女、すなわち「偏差値の低い大学に通う生き物を、大嗤い」することであり、「彼らにあったのは、ただ『東大ではない人間を馬鹿にしたい欲』だけだった」を描いていて、それは『彼女は頭が悪いから』という小説のタイトルで明示されている。
 
あの強制わいせつ事件が起こったのは、いくつかの偶然が重なったからであり、彼らが意図・計画的にああしたふるまいを彼女にしたのだという解釈を、この小説の作者は取ってはいない。しかしこの小説の読後の後味が悪く、あの事件がことさら忌まわしく、おそぞましく感じられるのは、そのふるまいの背景に東大生という上層階層の人たちが、東大生でない人間たちに抱いている差別意識、彼ら傲慢で醜い特権意識が、小説のなかで執拗に緻密に暴露されているからである。東大の大学内で、あるいは東大にはいる前の進学校での経験で、東大生の多くが挫折と無縁ではないと言っても、日本における最難関の高等教育機関である東大の学生であることに自負心を持たない東大生は少ないだろう。東大以外の者に対して、そうした自らの優越性を誇示することがどのようなマイナスの印象をもたらすのかは(しばしば致命的ともいえる)、東大生の多くは熟知していて、実にスマートに対応する。しかしそうした賢明な東大生にしても、自分たちの言動の端々に、東大生以外の人間に対する侮蔑の感情、自己の優越への誇らしさがにじみ出ていることには、おそらく気づいていない。そしてそのエリート意識は、ときにグロテスクなかたちで無自覚に垂れ流されることも実際にあるのである。強制わいせつ事件はそれがもっとも極端なかたちであからさまになった事例であり、実は同じ性質の事がらは程度の差こそあれ、あまたあるに違いないのだ。
 
これは人間が差別をする生き物である以上どうしようもないところがある。いわんや経験の乏しい若者がついいい気になって若気の至りでやってしまうということはあるだろう。一対一の恋愛関係でも互いが同じレベルで同じように愛し合っているという例は、極めて稀もしくは錯覚であり、二人のあいだには何らかの権力関係が存在し、その権力関係を背景としたかけひきは常に行われているはずだ。
 
そういう意味でこの小説は、東大生というものをステレオタイプに押し込み、批判しているわけではない。私が『彼女は頭が悪いから』を読んで気づいたのは、まず自分自身の「普通の」女の子という他者への無関心である。もう一つは日本に現に存在する格差社会の現実であり、そこでの差別がどのようなものであるかということだ。東大生による女子大生への強制わいせつ事件は、われわれの社会に蔓延する他者への無関心、そして階層社会がもたらす歪みのおぞましさを、象徴するものだったのだ。

2019/12/26 平原演劇祭 歳末ロシア・ナイト

目黒区烏森住区センター地下2階調理室
2019/12/26(木)19:00-21:30
出演:高野竜、青木祥子、ひなた

平原演劇祭亡命ロシアナイトが行われたのは2年前の2017/11/7、目黒区内の住民センターの調理室だった。
おっさん演劇人4人を案内人とし、ソ連ロシア革命に関わる朗読、料理、20世紀ソ連音楽解説というプログラムで構成された名企画だったのだが、告知が不十分で純粋観客は私を含め4名しかいなかった。
今回、目黒区内の別の住民センター調理室で行われた歳末ロシア・ナイトは、その亡命ロシア・ナイトのリベンジ企画とのこと。今回は20名弱の観客(というより物好きな参加者というべきか)が集まった。

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まず最初は生きた鯉の解体ショーからはじまった。ウハーというロシア料理のスープの食材だ。このウハーは、アメリカに亡命したロシア人ジャーナリストが書いた『亡命ロシア料理』という著作に掲載されたレシピに基づき作られたが、この本では魚はチョウザメが指定されている。チョウザメは日本では手に入れるのが難しい。2年前にはチョウザメの代わりに鮭を使った。これはすこぶる美味だった。今回は鯉だ。鯉はロシアで広く食されているとのこと。埼玉県岩槻市にある川魚専門の魚屋で購入したとのことだが、鯉は活きた状態で販売されることになっているらしい。会場にはビニール袋に入れられた活きた鯉がいた。
 
これを調理室のシンクに放つ。当然ピシャピシャと跳ね回る。この跳ね回る鯉を押さえつけて、切り刻むのは相当大変な作業で、魚屋で働いていた高野竜さんもかなり苦戦していた。魚に痛覚はないという話を聞いたこともあるが、やはり痛いみたいだ。頭を切り落とされても、身体はまだ活きていて、うろこをごしごしやると尾をピンピン動かす。鯉は二枚に下ろして、ぶつ切りにして、それを冬瓜、タマネギなどが入った鍋に入れて煮込む。だしは鯉の他、キュウリウオの干物を使っている。
 
鯉の解体ショーは衝撃的だったが、これは歳末ロシア・ナイトの前座のようなものだ。解体ショーのあと、本プログラムが始まる。まず最初は竜さんによるシャラーモフ『極北 コルィマ物語』の朗読だった。極東の極寒の地の収容所の様子を描く連作短編小説だ。朗読に入る前に、竜さんからロシア・ソ連における収容所文学の伝統について短い解説があった。シャラーモフ『極北 コルィマ物語』で日本語訳されているのは150編以上からなる全体のうち、29編。そこから3編が朗読された。これが30分ほど。連作集の冒頭にある厳しい冬の風景を描く短いプロローグ、そのあとは「いい話がいいか? それとも陰惨な話がいいか?」と竜さんが観客に問うて、陰惨な話が選ばれ、読み上げられた。荒野に埋められた死体から衣類を剥ぎ取って売りさばく話だった。最後はツンドラの常緑樹ハイマツについての短い描写。

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『コルィマ物語』の朗読のあとは食事タイムとなった。料理は二種類用意された。そのうちのひとつが先ほど解体された鯉を使ったスープ料理、ウハー。もう一品は山羊肉(羊肉かもしれない)と砂肝の焼き肉、シャシリク。ウハーはそばの実をゆでたものと一緒に供された。キュウリウオの干物に塩分が含まれているということで、ウハーには特に味付けはされなかった。ディルといる香草を振りかけただけ。鯉は臭いという先入観があったが、匂いは案外気にならない。味付けは薄いと思ったので、塩、こしょう、七味を振りかけて調整する。だし汁を吸った冬瓜がおいしい。鯉は小骨が多くて、食べるのがちょっとやっかいだった。魚肉の味はあまりしない。出汁を取るのに使ったキュウリウオの塩加減がよかった。シャシリクは、私は山羊肉だと思って食べたのだが、それは勘違いで羊肉だったかもしれない。この山羊肉は堅くて噛み応えがあったが、味は濃厚でおいしかった。臭みはまったく気にならない。

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食事時間のあとは、今夕の歳末ロシア・ナイトのメイン・プログラム、マルシャークの『ねこのいえ』の朗読劇がはじまった。マルシャークは『森は生きている』の作者として日本ではよく知られている。『ねこのいえ』は絵本の形態で出版されているが、戯曲の形式で書かれている作品だ。演者は高野竜、青木祥子、ひなたの三人。ねこをはじめ、たくさんの動物たちが登場人物の動物寓話劇だ。お金持ちで高慢な猫の屋敷が火事で焼けてしまい、その持ち主だった猫の女主人と執事は焼け出されてしまう。助けを方々に求めたものの、焼け出された二匹の猫に他の動物たちはつれない。二匹を迎え入れたのは、この二人が追い返した貧しい二匹の子猫だった。四匹は家族となり、力を合わせて新しい家と家族を作り始める。。高野竜が語り的な部分を引き受け、青木とひなたが動物たちを演じ分ける。ひなたは巧みに声色を変えて、動物たちを演じ分けている。演じ分けにわざとらしさを感じない。ちょうどいい具合に声に表情をつけていた。三人の声のバランスがよく、音楽的に呼応していた。高野は左手に座ったままだったが、青木とひなたは正面と右手の場所を移動して入れ替わった。右手に移動したときには調理室のテーブルに寝っ転がって朗読する。ちょっとした照明の操作と小道具の使用といった素朴な演出が、物語の情景を効果的に浮かび上がらせる。上演時間は45分ほどだった。

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とてもよい公演だった。一年の観劇生活をこの公演で締めくくることができて私は気持ちがいい。数年前から、日常性のなかで提示されることで、その日常を揺さぶり、そこに居合わせたものを異世界へと誘ってくれるようなささやかな試みの方に、私はより大きな演劇の充実を感じるようになっている。劇場という特殊な空間で上演されるいわゆる「普通の」演劇作品がつまらないというわけではない。大がかりで贅沢な装置、訓練された俳優の演技、斬新で前衛的な演劇的手法に魅了され、感嘆することは多い。しかし日常性とつながりを持ちつつ、日常性から抜け出させてくれるようなささやかなパフォーマンスこそが自分にとっては切実で重要な時間であり、自分にとっての演劇だという感覚はだんだん強くなっている。平原演劇祭の歳末ロシア・ナイトはまさにそうした充実した演劇の時間だった。

ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』@宮城野納豆製造所(2019/11/02)

 

60分の演劇作品を見るために仙台まで日帰りで行ってきた。

公演が終わったのが20時過ぎ。それから6時間たった今、宮城野納豆製造所で見たあの公演を反芻すると本当に夢の中に自分がいたように感じられる。リンドバークの大西洋横断飛行を追体験する演劇だ。圧縮された旅のような演劇体験だった。

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ゲッコーパレードの『リンドバークたちの飛行』を見るのは今回が2回目だった。この公演は《家を渉る劇》と称される企画で、劇場ではなく文化財として保存されている建築物で作品が上演される。上演会場は毎回代わり、私が昨年見た時は早稲田大学演劇博物館が会場だった。その時の演劇体験があまりにも印象深いものだったので、この作品が再演される際は必ず見に行こうと決めていた。

作品はブレヒトのラジオ教育劇だと言う。ブレヒトの作品ではそんなに有名な作品ではないだろうし、上演機会もあまりない作品だと思う。俳優は3人だけだ。名前をもつ役柄はリンドバークだけである。

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筋立てはごくシンプルで、1927年のリンドバークの大西洋横断飛行を時系列に演劇として再現している。飛び立つ前の準備、出発、飛行中、そしてヨーロッパ大陸への到着。

演劇博物館での公演では、観客は俳優に導かれながら博物館内の各部屋を巡る。17の場を6人の演出家が演出している。確かに各場毎に趣向の違いはあるけれど、その流れはスムーズでちぐはぐした感じはない。

60分の演劇作品を見るためのだけに、新幹線に乗って仙台まで往復するなんて我ながらどうかしていると思った。お金があるわけでもないし、間近に締め切りのある仕事を複数抱えている。それでも演劇博物館でこの作品を見た時の感動は一体何だったろうかと、もう一度しっかりと確かめたかった。このシンプルな冒険譚の演劇を見ながら、私はなぜかポロポロと泣いたし、終演後は呆然となった。自分にとっては本当に夢のような演劇体験で、感想を言葉にすることさえできなかた。

好きな芝居はたくさんあるが、ゲッコーパレードの『リンドバークたちの飛行』については私は偏愛とでも言うような特別な愛着を感じてしまう。

昼の公演と夜の公演があったが、私は夜の公演を選択した。昼の陽光よりも、夜に照明で照らされている方が宮城野納豆製造所という会場がより幻想的で美しいのではないかと思ったからだ。

しかし国の有形文化財に指定されたと言う宮城野納豆製造所の正面はごく地味な古い木造建築だった。1934年ごろに建てられたこの製造所は、今でも現役の製造所として稼働しているとのこと。
しかし製造所入り口の引き戸が開かれ、中に導かれるとそこには非日常的な演劇的空間が広がっていた。大掛かりな美術によって製造所の作業場空間が改変されているわけではない。ごくささやかな照明の操作(裸電球が印象的だった)と3人の俳優の身体と声、時折入る音響効果といった小さな仕掛けの数々の融合が、宮城野納豆製造所を別世界にしていた。

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入り口外観は無個性だが、宮城野納豆製造所の内部は奥行きがあり、製造の作業工程に合わせて複数のスペースに区分けされていた。正面から見えない別棟もあった。天井は低い。区分けされた平屋木造の空間を、うねうねと進みながら、リンドバークの大西洋横断飛行は進行していく。

《家を渉る劇》である『リンドバークたちの飛行』の特徴は何よりもまず、会場となる歴史的建築物の空間の特性を最大限に利用しつつ、それをちょっとした仕掛け、ユニークで気の利いたアイディアによって、演劇的空間に変容させてしまう手腕の見事さにある。

しかし私が『リンドバークたちの飛行』の何に感動したかと言うと、それは何よりもリンドバークという存在を引き受けた河原舞と言う俳優のパフォーマンスであるような気がする。もちろんあの劇空間の創出があったからこそ、俳優と脚本も力を持つことができたのだけれど。大西洋横断をした時の25才のリンドバークの若さ、悲壮さ、健気さ、力強さが、小柄な河原舞の身体から噴き出してくるかのように感じられる。リンドバークを演じる河原は、女性でも男性でもない、リンドバークの言葉に反応する観客それぞれの思いを受け止める抽象的な存在になったかのようだった。

最初の部屋で河原は地図を開くと、20人の観客一人一人を見つめながら、リンドバークの飛行計画を話す。飛行計画を話し終えると、彼女は20人の観客一人一人と握手をするのだ。河原舞が演じる彼女が演じるリンドバークには吸い込まれそうになる。この後に続く大西洋飛行の冒険を、観客である私はリンドバークとともに体験しているような、彼ととともに冒険の波乱を乗り越えていくような気持ちになった。アイルランドイングランド上空に到達すると、リンドバークの飛行機を目撃する漁師たちの会話を観客が演じるという楽しい趣向があった。パリは目前だ。上演の場は屋外に移り、ここでは観客たちはフランスでリンドバークを迎え入れる群衆に同一化しようという気分になっている。

しかし『リンドバークたちの飛行』の結末は、大西洋横断飛行に成功したリンドバークを観客が迎え入れるというカタルシスをもたらしてはくれない。観客が待ち受ける場所にリンドバークは降り立つことはなく、そのままどこか彼方に消えてしまうのだ。

夜の野外で観客を呆然と立たせたまま、劇の終わりが告げられる。観客である私は儚さをどう受け止めていいのか戸惑うが、しばらくするとこれでいいのではないかとこの終わり方を納得させた。

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正直に書くと宮城野納豆製造所でのラストはもう少し叙情味があっていいような気がしたのだが。演劇博物館での最後は遠くに消え去っていくリンドバークを見送る長い時間があったのが余韻になっていた。

終演後は明かりのついた工場内を見学できた。先ほどまでとは全く異なる散文的で実用的な空間だった。それだけに上演中の60分が一層、「夢」の中の時間であるように感じられた。

グラモン城 Château de Gramont ─ガスコーニュの田園風景のなかの重厚な歴史遺産

http://www.chateau-gramont.fr/

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中世の戦乱の面影を伝える古城

グラモン城はフランスの南西部のガスコーニュ地方、トゥールーズボルドーのほぼ中間地点にあります。このあたりは中世の時代から大小の諸侯が相争う戦乱の地であり、この歴史のなかで育まれた勇猛で好戦的な気風は近代にまで受け継がれました。この土地の多くの若者たちが土地の貧しさから故郷を離れ、富と出世の機会を軍隊に求め、兵士として活躍しました。デュマ作『三銃士』は、こうしたガスコーニュの若者たちを主人公に、冒険好きでほら吹きで、空威張りの気味はあるが友情に厚いガスコンかたぎを描いています。
グラモン城の歴史は13世紀初頭にまでさかのぼることができます。当時南フランスのトゥールズ伯領を中心に広がっていたキリスト教の一派、アルビジョワ派(カタリ派)を制圧するための十字軍が組織され、その指揮者だったシモン・ド・モンフォールが戦功によりこの一帯の領主となりました。このシモン・ド・モンフォールが、ユード・ド・モントーという人物にグラモンの領主権を授けたという記録が残っています。

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異なる時代様式の混在

14世紀から15世紀にかけての英仏百年戦争の時代には、両国の国境地帯にあったこの地域には《ガスコーニュ様式》と呼ばれる独自の様式の城塞が数多く建築されました。グラモン城もこの戦乱の時代に城塞化されます。中世のガスコーニュ様式の面影は、グラモン城の正面入り口の堂々たるゴシック風の構えや入口に隣接する正方形の塔に確認することができます。北側の建物はルネサンス期のもので、張り出した翼の部分の窓や柱に施された奇抜な装飾や彫刻が印象的な外観を作り出しています。ルネサンス期に建築された建物の螺旋階段を上ると、上階には大広間があります。内装、外装ともに大きな改築と修復がその後も行われ、中世・ルネサンスの古い様式の建築の土台の上に、19世紀後半に流行った中世回顧的なネオ・ゴシックやネオ・ロマネスク、南仏特有のトゥルバドゥール様式など様々な様式の混交が独特の風貌をこの城にもたらしています。

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1900年以降はおざなりな所有者が管理を怠ったため、城は荒廃しますが、1961年にディシャン夫妻の所有になり、城は廃墟になるのを免れます。建物の構造を補強する工事が行われたあと、16世紀から18世紀の家具や調度品によって邸宅の内部を飾られ、ルネサンス風の優雅な庭が整備されました。グラモン城は国の歴史的建造物に指定されています。所有者のディシャン夫妻は1979年に国の文化財センターにグラモン城を寄贈しました。

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ガスコーニュの田園風景

トゥールーズ地方とコンドン地方の境界をなす渓谷を見下ろす高台に建つグラモン城の周囲は、ガスコーニュ地方の起伏に富んだ牧歌的な田園風景が広がっています。城は人口150人ほどしかいない小さな村のなかにありますが、フランスでもっとも美しい村の一つに登録されているグラモンの村にはフランス全土から多くの観光客が訪れます。村には、民宿も兼ねたレストランと二つの博物館があります。テラス席から城を見ながら食事を楽しむことができる村のレストラン、オベルジュ・ル・プティ・フィヤンで提供される料理は、カスレ、プーレ・ファルシ、カナール・コンフィといった伝統的な定番フランス料理です。

はちみつ博物館は養蜂家の夫妻によって建てられたもので、フランスのみならず世界各国のはちみつ作りの技術と秘密を知ることができます。もちろん地元産を含む様々な品種のはちみつをここで購入することができます。ブドウとワインの博物館では、ブドウの収穫からワインの醸造の過程を詳しく知ることができるでしょう。この博物館のカーブは、500以上のワインのコレクションが展示されています。村にはこのほかに、くるみ油の採集のための水車小屋や伝統的な様式の石造りの田舎家があります。グラモンを訪れる旅行者は、数百年の歴史を持つ古城の周囲の牧歌的景観に田園の恵みと安らぎを感じ取ることができるでしょう。