閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

『秘密の森』シーズン2

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組織にからみとられ、そのなかで翻弄される人間のすがたを見事に描き出した傑作ドラマだ。
人間関係が複雑すぎて、展開を追っていくはかなりやっかいだ。しかし数多くの様々な伏線がきっちりと回収されていく重層的な脚本の仕掛けや、各人物の人間造形の緻密さは驚くべきものだ。韓国の検察vs警察の対立構造というマクロで、重量級の政治的・社会的枠組みを軸に、その組織のなかで動く人間たちのミクロな関係も丁寧に描き出している。
検察にせよ、警察にせよ、このドラマの登場人物たちは根っからの善人でもないし、悪人でもない。それぞれの立場で「正しく」生きていきたいと願っている人たちだろう。しかしたとえ正しく生きようとしていても、人の世はままならぬもので、重層的な人間関係の網のなかで、正しさを貫くことは非常に難しい。われわれは自分自身の弱さや意志にによって悪に犯すこともあるが、自分が関係する集団や環境によって、心ならずも悪に引きずり込まれてしまうこともある。何らかのやましさを抱えることなく生きていける人は極めてまれだ。私たちの多くは自分の犯した罪のやましさを、おさえつけ、ごまかし、正当化しながら生きている。
組織的な動きに取り込まれず、「正しさ」を貫く検察ファン・シモクと警察のハン・ヨジンの二人の主人公は、正しく生きることが難しい、そしてやましさとつきあいながら生きていかねばならないわれわれの願望が具現化されたヒーローだ。

最終話で、正しさを貫いたばかりに、組織内で孤立してしまうハン・ヨジンを演じるペ・ドゥナの演技は胸に迫る。

2021/02/06 大駱駝艦・天賦典式『ダークマター』@世田谷パブリックシアター

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上演時間は80分ほど。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、客席は50%になるようになっていたが、一席ごとに空座席を作るのではなく、一人観劇以外の人は並んで座れるようになっていた。

圧倒的な美しさに満ちた舞台だった。17人の身体が一つの有機物のように動き、優雅に変形していく。舞台上でなめらかな身体の動きが作り出すビジュアルの美しさは圧巻だ。そして堂々たるボスキャラの麿赤兒は途中からゆったりと登場し、カラフルで異形の妖精たちがうごめく舞台空間を制御していく。中盤を過ぎた頃で、舞台両脇から大量のシャボン玉が放出され、空間を埋めていく。そして最後の場面は、天井に持ち上げられた赤い綱を方で揺らす麿赤兒がひとり舞台上にいる。その後はよろめくような動きの麿赤兒のソロダンスの荘厳さに引き込まれてしまう。

濃厚で詩的幻想のメタモルフォーゼの世界。こんな舞台を見ると元気が出る。

2020/1/31 SPAC『ハムレット』

spac.or.jp

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2008年に初演された舞台。私は初演は見ていないが、2015年の再演を見ている。そのときはSPAC移籍後に宮城聡が手がけた新作のなかでは一番いい作品だと思った。タイトルロールの武石守正の鬼気迫る名演が印象に残っている。6年ぶりの再演ではある今回の公演では、ハムレット(武石守正)、クローディアス(貴島豪)、ガートルード(たきいみき)、オフィーリア(布施安寿香)という主要な役柄は初演と同じ。

音楽は棚川寛子だが、今公演では棚川寛子の音楽の使用は限定的なもので存在感は大きくない。音楽が鳴らない台詞だけの場面が多い。

終幕の突飛な演出は記憶に残っていたが、それ以外の部分では前回どんな演出だったかはほぼ忘れていた。

上演時間は2時間弱で、かなり原作を刈り込んでいるが、先週見た『病は気から』同様、どうも全体のリズムがすっきりしなくて、展開がもたついていたような印象があった。

主演の武石は動きも静止の際のポーズも美しく決まっていて、今回の舞台でも素晴らしかったし、初演に引き続き出演した主要な役柄の俳優の芝居も安定感があった。しかしアンサンブルとしては、どこかちぐはぐとしていて、見ていてもどかしさを感じた。ごく些細なディテイルの部分のズレなのだろうが、全体に溶け込めない俳優の演技が妙に気になってしまう。もっともこれは芝居を見る側の私の問題かもしれない。マスクをつけての観劇はどうも眠気が強くような感じがあって、今回は集中力を若干欠いた観劇となってしまった。

床に敷き詰められた巨大な白い正方形の布による美術(布の四方がつり上げられることで、場にいる人間たちの心理を象徴的に示す)や細長い銅鐸のような筒を倒すことによって表現される人物の死、そしてトリッキーで唐突な最後の場面などの核となる演出は初演と変わっていないが、新型コロナウイルス感染拡大下での上演の今回は、それに合わせた演出も取り入れられていた。

今回取り入れられた新しい一つは舞台上の俳優たちも全員マスクをつけて演技していたこと、もう一つは紗幕によって最初から最後まで舞台と客席が分断されていたことだ。

ツィッター上で私の感想コメントに対し「ストーリー的な必然性が無いかぎり、舞台上の俳優にマスクはしてほしくない」という返信がついたが、これは私も同感だ。先週見た『病は気から』でも俳優全員がマスクをしていたが、『病は気から』の場合は喜劇ということもありマスクや新型コロナを時事ネタとして作品中に取り込む余地はある(それでもやりすぎではないかと思ったが)。しかし『ハムレット』で俳優が全員マスクだと、このマスクによって新型コロナという劇の外の現実を否応なしに観客は意識させられてしまう。このマスクの「異化効果」によるメタ演劇化は、この『ハムレット』では観劇の興を削ぐものになっていた

 

劇の最初から最後まで紗幕越しに舞台を見るというのもフラストレーションが大きく、私にはきつかった。紗幕、マスクという観劇する上で、観客と舞台を分断する障害物を置くことが、新型コロナウイルス下の私たちの現実生活におけるコミュニケションの阻害やそれによるもどかしさの隠喩になっているとも言えないわけではないが。うっすらうっとうしいもやか蜘蛛の巣がかかったような日常から離脱したくて芝居を見にいったら、その芝居がまたそういう状況を具現したかのような芝居だった。

またマスクと紗幕の存在が、観客-俳優のコミュニケーションのみならず、俳優間のコミュニケーションにも影響し、それが芝居全体のアンサンブルの乱れやリズムの悪さにつながっているようにも思った。

 

最後の場面で突然、時代が終戦直後の日本になり、上からハーシーズのチョコレートが大量に落ちてくるのは、前回見たときにも戸惑ったトリッキーな演出だ。ハムレットの悲劇のあと、デンマークの王に指名されたフォーティンブラスを、マッカーサー・進駐軍に例えているということなんだろうが、それまでの展開でそうした解釈の文脈が示されていないので、観客としてはあの最後の場面のギミックは納得できない。

一年ぶりの静岡芸術劇場だった。感染対策のため、観客席はひとつ置きだった。新型コロナウイルス感染拡大下での公演はどこも苦労しているが、先週、今週のSPACの公演を見ると、SPACではこの一年、公演が十分に打てなかったダメージはかなり大きいのではないかという気がした。公立劇場であるがゆえになおさら、このようなコロナ禍での公演は、劇場を必要としない県民からの批判を意識せざるをえず、その配慮で萎縮してしまった面もあるのではないだろうか。作り手の苦しさが伝わってくるような舞台だった。


 

2021/1/23 SPAC『病は気から』@静岡市民文化会館中ホール

病は気から | SPAC

ノゾエ征爾潤色・演出によるSPACの『病は気から』を私が見るのはこれがたぶん三度目だと思う。モリエールの喜劇はフランスでは上演が現代も非常に多いけれど、日本での上演機会はあまりない。よくできた戯曲ではあるけれど展開はどの戯曲も定型的だし、笑いも普遍性はあるけれど微温的で意外性に乏しく、鋭くとがった感じがしない。普通にそのままやってもあまり面白くないのだ。

ノゾエ征爾の『病は気から』は、モリエール喜劇の古典的な硬直した笑いを、オリジナル戯曲の核となる部分を押さえつつ、現代日本の観客の感覚にも通じるエキセントリックな笑いに転換させた非常に優れた翻案だ。モリエールの本場で、様々な趣向のモリエール喜劇が数多く上演されるフランスでも、ノゾエ版『病は気から』を上演し、フランスの観客の反応を見てみたい気がする。

今回は新型コロナ防疫版になっていて、これまでの演出プランを引き継ぎつつ、俳優たちは全員最初から最後までマスクをつけて演技し、劇中でも消毒液噴霧や透明シールドによる飛沫防止などの小技を導入して笑いをとっていた。

ただ芝居開始から30分ほどすると、芝居全体を引き締めるたがが緩んで、冗長さが感じられるようになる。展開のスピードは落ちていないにもかかわらず、俳優同士の反応のキレが鈍くなり、芝居のエネルギーが減少してしまったようにかじられた。おそらくごくちょっとしたずれ、細かいいろいろな不具合の重なりが、芝居全体のリズムに影響を与えているのだろう。

『病は気から』はモリエール最後の作品となり、モリエールはこの芝居の上演中に舞台に倒れ、死んでしまう。作品中の主人公のアルガンと作者のモリエールを重ねる発想の演出はおそらくあまたあるだろう。ノゾエ版もアルガン/モリエールの二重性を取り入れていたが、今回は作品解釈に深みをもたらすその二重性の表現の工夫はもっと練り上げることができるような気がした。このあたりは前回までの上演と脚本上の変更はなかったかもしれないが、今回の上演ではその練り上げの中途半端さが気になった。またこれまでの上演でも単調で長すぎるように感じられた最後のアルガンの口頭試問は、芝居のエネルギーが減衰していった今回の上演ではより単調に感じられた。

アルガンの長女アンジを演じた榊原有美は今回の上演でもいびつな可愛らしさが印象的でよかったが、そのぎょっとするようなコケットリーが今回の舞台ではあまり生きていないのが残念だった。やはりアンサンブルの密度に問題があったように思う。

今回の出演者で最も素晴らしかったのは、『病は気から』の外枠で、作品を今、ここの世界からメタ可していた前説と最後の芝居に出てきたSPAC制作の米山淳一だった。

2021/1/17 青年団『眠れない夜なんてない』@吉祥寺シアター

www.seinendan.org

2008年の初演は見たような見ていないような。典型的な平田オリザの芝居で、セミ・パブリックな場所に出入りする数組の会話で構成された群像劇だ。今回の再演では「昭和の最後の日々」という時代設定を新たに導入したと当日チラシの平田の文章にあった。

場所はマレーシアのリゾート地にある定年移住者を対象とした保養施設だ。「昭和の最後の日々」という時代設定が強調されていた。昭和天皇の「下血」が連日報道され、テレビ番組などで自粛が行われていた頃の話である。私はこのとき、大学一年だった。昭和天皇が死に、平成となりバブル経済で日本中が躁状態で何年か浮かれたあと、日本は現在に至るまで長い停滞と衰退の時代に入っていく。

マレーシアのリゾートで老後を過ごそうとする人たちは、日本社会のなかでかなり裕福な層だろう。そしてこの時期に東南アジアリゾートにやってくる短期滞在者も。しかしこのリゾートの日本人たちには、喧噪の昭和の時代を生き抜いた疲弊と虚脱感が色濃い。薄い絶望をそれぞれ抱えた彼らは、その後の日本社会の停滞を暗示するものになっていた。

振り返ってみると日本社会が壊滅的な打撃を被った第二次世界大戦の敗戦から私の誕生まではわずか20年ほどだ。50を過ぎた今、20年前を思い浮かべると、それはついこの間のことのように思えるのに。そして昭和が終わったとき、私は20歳だった。

自分の記憶にはっきり残る30年前が、既に遠い過去であり、歴史となっている。『眠れない夜なんてない』の世界に、現在の日本や私自身の状況とは連続性がありながら、別のフェーズの過去の時代であることを意識させられた。

 
 
 
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2020年の観劇生活

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謹賀新年2021

新型コロナウイルス感染拡大の一年で世界中でスペクタクル公演がほとんどなかった数ヶ月があった年だった。日本では7月頃から舞台公演が再開されるようになったが、それでも新型コロナ以前の2020年2月以前の状況とはほど遠い。映像での舞台中継公演上映を含む私の観劇本数は2020年は45本で例年の半分以下となった。観劇数が減ってしまったのは、舞台公演数自体が減ってしまったのに加え、私自身の観劇のための外出の気力も少々縮小してしまったせいでもある。

 

舞台公演全体が新型コロナによって押さえ込められ、沈滞を余儀なくされたこの2月以降、高野竜の平原演劇祭は例年以上のペースで今年は公演を行い、気を吐いた。この状況下で平原演劇祭のユニークさはさらに突出したものに感じられるようになった。これまでも劇場でない場所を主な公演会場としていた平原演劇祭は野外公演が多かったのだが、昨年は新型コロナの流行が問題になる2月以前から全公演をすべて野外で行った。昨年は全部で9部の公演が行われ、私はそのうち、第3部、4部、6部、7部、9部に参加し、レポートをこのブログに残している。全公演に参加できなかったのが残念だ。野外で奇妙な演劇を行う団体として認知度も近年になってようやく高まったようで、公演のたびに見かける常連の観客も増大してきた感じがある。平原演劇祭は私にとってはすでに演劇以上の破格のものなのだけれど、自宅にいることが多かったこの一年、平原演劇祭の遠足演劇は、私にとりわけ大きな解放感と喜びを与えてくれるものとなった。

 
 
 
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9月に行われた豊岡演劇祭の開催は昨年の演劇のなかでも特筆すべきことがらだろう。過疎の地である兵庫県北部の但馬地方で平田オリザが国際演劇祭を開くということで、兵庫県の地元ではもとから期待が大きかったのだが、新型コロナ感染拡大の状況のなかで第一回を開催するのは非常に大きな賭だったはずだ。海外からの招聘は不可能になり、国内の団体だけによる演劇祭となったが、スタッフにも観客にも感染者が出なかったことは本当に幸いであった。3月以降舞台公演が「不要不急」なものとして中止を余儀なくされたことの不当性を訴えた野田秀樹や平田オリザの発言が世間の物議をかもし、緊急事態宣言解除後の7月に新宿のシアター・モリエールで出演者と観客への集団感染が発覚するという事態があって、舞台芸術に対する世間の視線は厳しいものになっていた。そのなかでの演劇祭開催である。兵庫県北部の中核都市とは言え、但馬の豊岡はよそ者の少ない田舎町だ。そこで都会からやってきた演劇人という得体のしれない連中が新型コロナを持ち込んだということにでもなれば、行政との協力のもと演劇文化による地域振興を目指す平田オリザの計画は水泡に帰してしまいかねない。

 
 
 
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第一回豊岡演劇祭の実行という決断はとてつもない重圧のもとなされたはずであり、平田オリザとスタッフの緊張感は尋常なものではなかっただろう。

但馬は父の郷里に近く、私にもなじみのある場所だったので、豊岡演劇祭には私も強い関心を持っていた。後半の日程の数日、私は豊岡演劇祭に行くことができた。厳重な感染対策のもとでのひっそりとした演劇祭だったが、この演劇祭を無事終えることができたのは、日本の演劇界全体にとって幸いであり、重要なことであったように思う。

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2020年に見た芝居で、特に印象に残ったものベスト5を挙げると以下のようになる(ただし平原演劇祭は私にとってはいわゆる演劇とは別枠になるので、ベスト5からは除外している)。

1位の板橋演劇センターを除けば、すべて海外のプロダクションで、しかもそのうち3本は映像配信ものの舞台となった。

板橋演劇センターは40年にわたってシェイクスピアを板橋で上演し続けている団体だ。レポートはリンク先に残している。私が板橋演劇センターの公演を見にいくのは15年ぶりぐらいだった。主宰の遠藤栄蔵氏にまともに台詞が入っていないのだから、完成度という点では私が見た有料公演のなかでは突出して低いのだけれど、105歳の女優、三條三輪さんをはじめとする個性的で存在感抜群の出演者たちは、ここでしか見ることはできないだろう。完成度なんてどうでもいい、とにかく彼らが舞台に立ち、シェイクスピアを上演し続けているということだけで圧巻だ。本物の演劇バカのすごさを確認することが出来る舞台だった。

この秋は『シラノ・ド・ベルジュラック』関連の映画や舞台がいくつも上演されたが、そのなかでも出色だったのはロンドンのジェイミ・ロイド・カンパニーの英語翻案による『シラノ・ド・ベルジュラック』だった。とにかくかっこいい舞台だ。レトロなロマンティシズムに満ちた原作の修辞的なシラノ台詞が、現代の舞台の言葉として提示される。しかもその詩的文学性の味わいは、オリジナルの雰囲気を踏襲したものよりも、英語の翻案・翻訳では強烈で深いものになっていた。

3位のジュリ・デュクロ演出の『ペレアスとメリザンド』は、新型コロナによる劇場封鎖の直前に、パリのオデオン座ベルティエで見た舞台だ。昨年のアヴィニョン演劇祭でも上演されている。原作のストイックでシンプルな雰囲気を誠実に精密に、そして現代フランスの舞台らしい映像と組み合わせた洗練されたセノグラフィで再現した舞台だった。

4位のドルイド・シアター・カンパニーは、アイルランドのゴールウェイを拠点とする劇団で、このカンパニーの『西の国』の舞台公演は私は2007年にに東京国際芸術祭で見ている。3月にはゴールウェイで同カンパニーの『桜の園』を見ていて、これも素晴らしい舞台だった。本場の劇団によるその土地を舞台としたシングの傑作を上演の舞台映像。演出は2007年に私が東京で見たものと同じだと思う。アイルランドの土地の匂いを濃厚に感じ取ることができるような舞台だった。英語上演で字幕はなかったが、引き込まれずにはいられない。

5位のホーヴェの『橋からの眺め』は1、2年程前に上演(上映)された舞台だが見逃していたのをアンコールで見ることができた。伝統的なマッチョイズムの価値観にとらわれたニューヨークのイタリア移民の悲劇だが、ミニマルで抽象的な舞台美術のなかでの象徴性の高い演出によって、作品の普遍性は強調され、現代的な問題提起が行われていた。

 

1. 板橋演劇センター『終わりよければすべてよし』@板橋区立文化会館小ホール(2020/11/28)

2. The Jamie Lloyd Company『シラノ・ド・ベルジュラック』NTL@シネリーブル池袋(2020/12/06)

3. Julie Duclos演出『ペレアスとメリザンド』@Odéon Berthier(2020/03/11 )

4.ドルイド・シアター・カンパニー『西の国のプレイボーイ』@自宅、映像配信(2020/4/4)

5. イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出『橋からの眺め』NTL@シネリーブル池袋(2020/08/01)

 

日付 カンパニー・出演者 作者 演出 公演名 劇場 評価
2020/01/11 狂言・和泉流/能・宝生流     酢薑/八島 国立能楽堂 ☆☆☆☆
2020/01/12 ゲッコーパレード 清水邦夫 黒田瑞仁 ぼくらは生まれ変わった木の葉のように 旧加藤家住宅 ☆☆☆★
2020/01/16 劇団俳優座 横山拓也 眞鍋卓嗣 雉はじめて鳴く 俳優座劇場 ☆☆☆☆★
2020/01/25 佐陀神能     御座/三韓、剣舞/八重垣/成就神楽 国立劇場小劇場 ☆☆☆☆
2020/01/25 大土地神楽     悪切/八戸、茣蓙舞/野見宿禰 国立劇場小劇場 ☆☆☆☆
2020/02/06 砂と水玉 市松 市松 blue bird, black hole 北千住BUoY ☆☆☆★
2020/02/07 青年団 平田オリザ 平田オリザ 東京ノート インターナショナルバージョン 吉祥寺シアター ☆☆☆☆
2020/02/08 劇団サム 成井豊 田代卓 水平線の歩き方 練馬区立生涯学習センター ☆☆☆☆★
2020/02/28 Opéra de Nice チャイコフスキー オリヴィエ・ピィ スペードの女王 Opéra de Nice ☆☆☆☆
2020/03/02 Druid Theatre チェーホフ Garry Hynes 桜の園 Black Box Theatre ☆☆☆☆★
2020/03/07 Gaiety Theatre マクドナー Andrew Flynn The Lieutenant of Inishmore Gaiety Theatre ☆☆☆★
2020/03/10 Les Cris de Paris マルグリット・ナヴァール Benjamin Lazar Héptaméron, récits de chambre obscure MC2 ☆☆☆☆★
2020/03/11 Odéon メーテルリンク Julie Duclos Pelléas de Mélisande Odéon Berthier ☆☆☆☆☆
2020/03/12 Odéon テネシー・ウィリアムズ Ivo van Hove ガラスの動物園 Odéon l'Europe ☆☆☆★
2020/04/03 MET ガーシュイン ジェイムズ・ロビンソン ポーギーとベス 東劇 ☆☆☆☆
2020/04/04 ドルイド・シアター・カンパニー シング Garry Hynes Playboy of the Western World 自宅 ☆☆☆☆☆
2021/04/08 平原演劇祭 高野竜 高野竜 平原演劇祭2020第3部#橋の下演劇 多摩川左岸 是政橋下 ☆☆☆☆☆
2020/06/08 うずめ劇場 ラシーヌ ペーター・ゲスナー フェードル せんがわ劇場 ☆☆☆☆
2020/07/12 平原演劇祭 高野竜 のあんじー 平原演劇祭2020第4部 #行軍演劇 「一輪の書」 上谷沼運動広場 ☆☆☆☆☆
2020/07/15 Ova9 サラ・ベルティオーム 山上優 NYOTAIMORI アトリエファンファーレ東池袋 ☆☆☆★
2020/07/19 前進座 山谷典子 横山あさひ ああ、母さん。あなたに申しましょう。 江戸東京博物館大ホール ☆☆☆☆
2020/08/01 NTL アーサー・ミラー イヴォ・ヴァン・ホーヴェ 橋からの眺め シネリーブル池袋 ☆☆☆☆☆
2020/08/04 NTL アーサー・ミラー ジェレミー・ヘリン みんな我が子 シネリーブル池袋 ☆☆☆☆☆
2020/09/12 cigars 小川未玲 志賀廣太郎 庭にはニワトリ二羽にワニ
キニサクハナノナ
豊岡市民プラザ ☆☆☆☆★
2020/09/12 東京デスロック 多田淳之介 多田淳之介 Anti Human Education III〜PANDEMIC Edit.〜 豊岡稽古堂 ☆☆☆☆
2020/09/12 青年団 平田オリザ 平田オリザ ヤルタ会談 江原河畔劇場 ☆☆☆★
2020/09/13 Q 市原佐都子 市原佐都子 バッコスの信女〜ホルスタインの雌 城崎国際アートセンター ☆☆☆☆★
2020/09/13 Jessica (Ngatari)他 中堀海都+平田オリザ 平田オリザ、中堀海都 零(ゼロ) 豊岡市民会館 ☆☆☆
2020/10/01 五反田団 前田司郎 前田司郎 いきしたい こまばアゴラ劇場 ☆☆☆☆★
2020/10/09 青年団 高山さなえ 平田オリザ 馬留徳三郎の一日 座・高円寺 ☆☆☆★
2020/10/18 平原演劇祭 高野竜 高野竜 平原演劇祭2020第6部 #50年芋煮演劇 埼玉県宮代町「新しい村」芝生広場 ☆☆☆☆☆
2020/10/30 iaku 横山拓也 横山拓也 The last night recipe 座・高円寺 ☆☆☆☆
2020/11/21 堀企画 太田省吾 堀夏子 水の駅 アトリエ春風舎 ☆☆☆☆
2020/11/22 コメディ・フランセーズ エドモン・ロスタン ドゥニ・ポダリデス シラノ・ド・ベルジュラック アンスティチュ・フランセ東京 ☆☆☆
2020/11/22 パリ オペラ座 テオフィル・ゴーティエ、ジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュ ジャン・コラーリ、ジュール・ペロー ジゼル アンスティチュ・フランセ東京 ☆☆☆
2020/11/28 板橋演劇センター シェイクスピア・小田島雄志訳 遠藤栄蔵 終わりよければすべてよし 板橋区立文化会館小ホール ☆☆☆
2020/11/28 カクシンハン・スタジオ シェイクスピア・松岡和子訳 木村龍之介 ロミオとジュリエット youtube ☆☆☆☆
2020/12/06 若獅子会 エドモン・ロスタン、楠山正雄、額田六福 澤田正二郎、田中林輔 白野弁十郎 シアターΧ ☆☆☆☆
2020/12/06 The Jamie Lloyd Company Edmond Rosnta, Martin Crimp Jamie LLoyd Cyrano de Bergerac シネリーブル池袋 ☆☆☆☆☆
2020/12/12 茂山宗彦、金春安明     猿婿/舎利 国立能楽堂 ☆☆☆☆
2021/12/13 平原演劇祭 高野竜 高野竜 第7部 宮沢賢治未完成短篇集 #それはだいぶの山奥でした 山猫軒 ☆☆☆☆☆
2020/12/26 中村時蔵、中村芝翫、尾上松緑 河竹黙阿弥   三人吉三巴白浪 国立劇場 ☆☆☆☆
2020/12/26 松本白鸚、中村梅玉、市川染五郎 河竹黙阿弥   天衣紛上野初花 国立劇場 ☆☆☆☆
2020/12/31 平原演劇祭 高野竜 高野竜 平原演劇祭2020第9部 #まつもうで演劇 #冬イチゴ 廿里白山神社 ☆☆☆☆☆

 

 

2020/12/31 平原演劇祭2020第9部#まつもうで演劇 #冬いちご

note.com

平原演劇祭2020第9部 #まつもうで演劇 「冬イチゴ」

2020/12/31(木)12:00 JR高尾駅北口集合

廿里(とどり)の白山神社奥社近辺(高尾駅より徒歩15分)

演目:「冬イチゴ」

出演:SAKURA、フェニックスのサヤ、高野竜 

 2020年12月は平原演劇祭の公演が3つあった。全部参加するつもりだったのだが(観客として)、12/20の鋸山演劇は新宿さざなみが事故運休で行くのを断念した。上演時間を遅らせて、蘇我駅まで車で迎えが来ると言うことだったのだが、その前週の12/13に黒山三滝で転倒して手首にひびが入ってしまったことで、心が若干弱くなっていた。鋸山は険しい山道を登らなくてはならない体力的にハードな公演だったとのことで、手首にひびが入った状態で行かなくて正解だったと思った。

今回は12月に入ってから急遽決まった公演だ。平原演劇祭のnoteを読むと稽古の様子の記事があるし、高野竜さんのtwitterなどでも公演情報があったのだが、私は事前にそうした情報はろくに参照しないまま、集合時間と場所だけ前日にメモしただけで、現地に向かった。

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集合場所の高尾駅に降りたのは私ははじめてだった。高尾山の最寄り駅かと思っていたのだがそうではないらしい。駅前はがらんとしている。高尾駅は私が乗った中央線快速の終着駅だった。かなりの数の乗客が降りたけれど、どこに行ってしまったのだろう。朝方はかなり寒かったので、山の中の野外演劇ということで駅近くのコンビニエンスストアでカイロを購入した。

集合時刻の12時をちょっと過ぎたころに、高野さんが登場。

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今日の観客は私を入れて6名だった。おっさんが3名と若い女性が3名。13日の山奥、20日の鋸山のような登山演劇であることは強調していなかったのだが、竜さんの格好がやけに「本格的」なのが気になった。靴は黒長靴で、泥で汚れている。

「いやあ、稽古でけっこうヘロヘロになりまして」

と言っていたので、果たして私は大丈夫だろうかとちょっと不安になる。高尾駅の北側には南浅川が流れていて、そのすぐ先には山が迫っている。

www.google.com

「右手が大正天皇陵です。われわれの上演会場は左手の山です」

と竜さんから説明があった。川を渡って左に曲がり、川沿いの一戸建ての住宅街を15分ほど歩くと、上演会場の廿里(とどり)白山神社の入り口に到着した。何の変哲もない町中の小さな神社という感じだ。

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今回の公演は神社に許可を取っていないゲリラ公演だという説明が竜さんからあった。「#まつもうで」とは「年末詣で」のことのようだ。元日は初詣でそれなりに賑わうだろうけれど、大晦日の昼間なら参拝客はいないだろうということで、この日を選んだそうだ。もし神社のひとがいてなんか聞かれたら、『コロナなので人があまりいなさそうな大晦日のうちにお参りしようと思いまして』とか言ってごまかして欲しいとの指示があった。

高野さんは今回の主演女優とは三回しか会ったことがないという。平原演劇祭の野外演劇をツィッターで知って興味を持ち、連絡があったそうだ。それで急遽、高野さんが戯曲を書き、今日の上演に至ったとい言う。「実は通し稽古もやってないんですよ」とのこと。

神社の本殿は山のなかにある。まず整備されたコンクリートの石段を上ったところにあるのが拝殿。その脇に細い参道があり、10分ほど登ったところに本殿がある。上演場所はその本殿からさらに数十メートル奥にある奥宮(?)とのこと。作品の上演自体は30分ほどだということでちょっとほっとする。

拝殿までの階段はたいしたことがない。しかしそこから本殿に至る森の木々のなかの参道は細くて、傾斜が急だった。

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肥満と運動不足の身にはけっこうきつい。この前のように転けては大変なので、慎重にゆっくりのぼったが息が切れた。本殿までのぼっていったん休憩。

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この本殿前の広場で高野竜さんの前説があった。『古事記』の最初の部分の概説のあと、コノハナサクヤヒメのエピソードの説明があった。コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの姉妹は二人セットで、天照大神の孫であるニニギノミコトと結婚するのだが、ニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメだけを愛し、醜いイワナガヒメを追い返したという逸話である。この前説を話しているときに、小さい子供二人を連れた親子四人連れが参道を上ってきた。子供は興味深そうに、前説を語る竜さんを見ていたが、後から上ってきた両親は得体の知れない小集団をちょっと警戒している風だった。そりゃそうだろう。

この前説のあと、本会場である本殿からさらに数十メートル奥に張ったところにある奥宮に行くように促される。奥宮への道は数日前までは枯れ葉で覆われていたが、大晦日の今日は初詣参拝客の便宜のため枯れ葉が取り除かれていた。

奥宮(?)には石碑のようなものがあるだけだ。その向こうはほぼ崖といっていいような急斜面になっている。

高野竜さんが『古事記』のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメのエピソードを読み始めた。

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急斜面のきわにある切り株に黒づくめのカラスのような男がうずくまっている。竜さんが古事記の一節を読み終えると、そのカラス男が語り出したのだが、それが何を言っているのかよくわからない。

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竜さんが読み上げた『古事記』のコノハナサクヤヒメの内容とはまったく関係のないことを語っていることは分かってきた。カラス男は足を踏み外せば、後ろの急斜面を転がり落ちるようなところで、奇声を発し、動きながら何かを語っている。

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私は『弱虫ペダル』が自転車レース青春ものらしいということぐらいしか知らないのだが、上演中は「もしかするとこれは『弱虫ペダル』なのかな」ぐらいは聞こえてくる言葉の断片から判断できた。終演後にカラス男を演じたフェニックスのサヤ氏に聞いてみると、やっぱりそうで、本筋の古事記とはまったく関係ないことをやっていたことを確認出来た。帰宅後、平原演劇祭のnoteを読むと、「2.5次元担当で弱ペダ18巻インハイ箱根クライマックスの御堂筋・金城・福富をひとりで演じる」とあった。

このカラス男が演じているときに、先ほど本殿であった親子四人がやってきたのだが、さすがにこれは危ないと思ってすぐにそのまま引き返してしまった。そりゃそうだろう。

カラス男が森の木立のなかに退場すると、それと入れ違いに小柄な少女が奥宮の石塚の方へやってきた。

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彼女の言っていることはわかる。コノハナサクヤヒメの現代版だ。彼女は美しい妹のコノハナサクヤヒメの役だ。姿の見えない姉に向かって話しかけている。「冬いちご」の戯曲のテクストはここで読むことができる。

open.mixi.jp

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高野竜さんが読み上げる『古事記』の原典と若い女優が演じる「コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ」の現代女子高生版である『冬いちご』が交互に、この森深い山の中で交互に演じられるのがどれほど効果的だったことか(本当は富士山を神体としてコノハナサクヤヒメを祀る浅間神社がよかったと、高野さんは道すがらに話していた)。

12月になって向こうから連絡があって知り合い、急遽戯曲を書き上げ、,今回の上演を行うことになったと高野さんから聞いていたが、現代のコノハナサクヤヒメを演じたSAKURAは、作品のイメージにぴったりの、いかにも高野さんの戯曲に出てきそうな女性だった。高校三年生だとあとで聞いた。可憐で子供っぽい外観だが、これまでにあった傷ついた経験を身のうちに抱え、それに負けない強かさがあるような。

『古事記』の部分も本当は彼女が読み上げるように考えていたみたいだが、高野さんの『古事記』の朗読と彼女の「冬いちご」が交互に上演される今回のかたちでよかったような気がした。

二人は森のなかの神話的結界を移動しながら演じる。何回か古事記の語りと現代劇の交錯があったあと、古事記の語り手である高野さんは森の斜面のなかに消えていく。そして別の方向から、最初に出てきたカラス男が自転車とともに現れる。

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関わりのないまったく別の世界の住人であるように思っていた二人の若者が結ばれる美しい奇跡が締めくくりとなる。歌の後、ETのように二人の人差し指が触れあった。

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実質40分ほどの小品だったがとてもいい作品だと思った。高野さんは十代の女性のモノローグの書き手としては一流だ。彼女たちが語り得ない、言葉とすることできない感情、感覚、思いを、みごとに言語化し、詩のような言葉によって代弁する。そしてそのテクスト内容はその上演する場と語り手の身体と結びつき、その場に異世界を生じさせる。

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行きの上りは大変だったが、下りは楽だった。転けないように気をつけて、ゆっくり参道を降りていった。

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下に降りたのは午後2時前だったか。今回は肉体的にはハードでなかったのでほっとした。一年の締めくくりにふさわしい爽やかな観劇だった。

ドラマ『キャン・ユー・ヒア・ミー』

 

https://www.netflix.com/title/81190136


Netflixで配信中のカナダのケベックのテレビドラマ。フランス語。
シーズン1の10話を見終わった。
これはこの夏以降、私がネット配信で見たドラマのなかでも異色であり、かつ出色のものだ。
ケベックの下層社会をたくましく生き抜いている三人の若い女性の友情を描く。今村昌平の映画を連想させるようなハードでヘヴィなコメディだ。 
彼女たちの生きる世界は過酷で絶望的だけれど、その世界を三人は下品で快活なバイタリティ、そして歌と友情でもって突破していく。彼女たちをとりまく現実はあまりに悲痛なものだが、彼女たちのエネルギッシュな活躍は痛快だ。
彼女たちは強く、たくましい。でもあの環境のなかで生きていくためには、寄り添い、連帯しなければ生きていけないほど弱い存在でもある。
黒人女性のファビが歌う《J'existe》「私は生きている」という曲の歌詞が心に浸みる。
1話20分だが、どのエピソードも濃厚。
シーズン2ももちろん見る。
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ケベックのドラマ、『キャン・ユー・ヒア・ミー』のシーズン2を見終えた。アダ、ファビ、カロの物語はまだ続くが、残念ながらNetflixではシーズン3はまだ配信されていない。配信されたらもちろん見る。

これはケベックに関心のある人だけでなく、あらゆる人たちに見ることを勧めたい素晴らしいドラマだ。

シーズン2は、シーズン1とはトーンが変わり、アダ、ファビ、カロの三人の女性それぞれが抱える生活の問題が重くのしかかってくる。それは彼女たち個人の問題というよりは、彼女たちのような生活環境に生きる人間一般が抱えるうる問題であり、現代のケベックの社会の問題でもある。そして日本の社会にも同じような問題があるだろう。アダは怒りを時折爆発させ、感情のコントロールができなくなる。アダの怒りがいったい何なのかがだんだんわかってくる。

またこれは社会の貧困層だけの問題ではない。
満ち足りた幸福な人生を送っている人間なんてこの世にはほとんどいない。いいときもあれば悪いときもある。よきにつけあしきにつけ、思いがけない、ちょっとしたきっかけが人生の転機となる。
三人娘は逆境に打ちのめされ、深く傷つく。しかしそれでも彼女たちは果敢にそのくそみたなな人生を生き抜こうとする。その姿は私たちに希望をもたらすものだ。

 

2020/12/13 平原演劇祭2020第7部 「宮沢賢治未完成短篇集 #それはだいぶの山奥でした 」@ギャラリィ&カフェ山猫軒

note.com

  • 2020/12/13(日)12:10-16:00
  • ギャラリィ&カフェ山猫軒(埼玉県越生町龍ヶ谷137-5、@yamaneko_ogose)
  • 1000円+投げ銭
  • 演目:「サガレンと八月」「小岩井農場 先駆形A」「みぢかい木ぺん」「学者アラムハラドの見た着物」
  • 出演:ひなた、はなの、青藍、小阪亜矢子

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note.com

今回の平原演劇祭の会場は埼玉県の越生町(おごせまち)の山中だった。川越のさらに奥にある坂戸駅が始発の東武越生線の終着駅である越生駅からバスに15分ほど乗り、さらに降りたバスの停留所から2.2キロ山中に入ったところにある山猫軒という知る人ぞ知るギャラリー兼カフェの周辺がメイン会場となる。

越生は梅林で有名らしいが、私はその場所も地名の読み方も知らなかった。公演のタイトルにあるように「 #それはだいぶの山奥」ではあったけれど、東武東上線の成増が最寄り駅の私のうちからは比較的行きやすい。バスの接続時間さえよければ、家から90分ほどで行けるところだった。

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公演会場の最寄りのバス停からさらに三キロほど奥に行ったところにある黒山三滝も一時間ほどで回れる面白いスポットだと案内にあったので、公演前にそこも回ってみることにした。

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黒山三滝は越生駅発のバスの終点にある。私以外にもう一人、平原演劇祭の観客の方が同じバスに乗っていて、この方と滝をまわることにした。

goo.gl

なだらかな山道だけれど、しばらく歩くと両側は山の斜面の木がうっそうと生い茂っていて、晴れの日中にもかかわらず道は薄暗くなる。まず一番下流側にある天狗滝を見学しにいった。

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特に険しい道ではなかったのだけど、足下は石がゴロゴロしていて歩きにくい。転ばないように気をつけなければと思い歩いていたのだけれど、足をねじってしまい右側にごろりと倒れてしまった。そのときに右手を変なふうについてしまった。また右側のお尻をかなり強く河原の石にぶつけてしまった。

「大丈夫ですか?」

と近くにいた人が寄ってきて、「はい、大丈夫です」と言って起き上がったもののぶつけたお尻とひねった手首が痛い。しかしがまんできないほどではない。

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 そのままさらに上流にある男滝、女滝を見学して、山のふもとにもどった。twitterで高野竜さんに連絡して、車で黒山のバス停まで迎えにきてもらった。

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f:id:camin:20201213110617j:plain黒山三滝はうっそうとした物寂しい渓谷なのだが、知る人ぞ知る景勝地なのか、レトロでしぶいお土産物屋さんや食堂が道沿いに何軒かならんでいて、家族連れのすがたもあった。こんなところで無様に転んでしまうなんて、情けない限りだ。

迎えに来た高野竜さんの車で、平原演劇祭公演開始場所の麦原入り口バス停まで戻る。今回は観客と出演者で合わせて15名ほどか。僻地感が強かったためか、実際にパフォーマンスに何らかのかたちで関わっていない「純粋」観客は5-6名だったかもしれない。平原演劇祭の場合、上演の状況と演目の特殊性から観客も「内輪」に取り込まれしまうのだが。

メイン会場らしいギャラリィ&カフェ山猫軒は、麦原口のバス停から2キロほど山のなかに入ったところにある。まずは歌手の小阪亜矢子が、その2キロほどの山道を登りながら、「サガレンと八月」と「小岩井農場 先駆形A」を朗読したり、楽器を演奏したり、歌ったりする。途中、高野さんの盟友のミュージシャンの酒井康志が演奏に加わったりすることもあった。

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スタート地点から数百メートルいったところの川の中での芝居もあった。しかし川のなかでいったいどんな台詞が話されているのかはまったく頭に入ってこない。

f:id:camin:20201213125529j:plainふもとから山猫軒までは2キロ強の距離で、山を登っていくとはいえ、道は舗装されてある。たいしたことはないやと思っていたのだけれど、勾配はきつくないとはいえ、上り坂をだらだらと上っていくのは思っていた以上に肥満で運動不足の私には大変なことだった。小坂さんはよく歩きながら、パフォーマンスを続けたものだと思う。滝で転んだときのお尻も痛いし、手首もじんじん痛む。読み上げられたり、歌われたりするテクストの中身はまったく頭に入ってこなかった。ただひたすら上るので精一杯。

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四〇分ほど上ってようやく山猫軒に到着。ポツンと一軒だけ山のなかにある。オーナーの主人はギリヤーク尼ヶ崎のパフォーマンスの写真集を出した人らしい。ギャラリーで絵などの展示の他、音楽のライブや録音もしばしば行われる知る人ぞ知るスポットのようだ。到着したときは、私は汗だくで息を切らしていた。

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山猫軒の建物のまえで、「みぢかい木ぺん」の朗読があった。朗読したのは小学生だということをあとで知った。すらすらと問題を解いてしまう魔法のぺんのはなしだが、未完小説なので唐突に途中で終わってしまい、投げ出されたかのような気分になる。この朗読が終わった後、九〇分ほどの食事休憩となった。

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山猫軒の内部は上の写真の通り。お洒落な山小屋という感じ。オーナー夫妻で切り盛りをしている。昼食は私は古代米カレーを食べた。具は野菜のみ。普通においしいカレーだが、特に特徴があるというわけではない。ボリュームは私にはちょっと不満。

休憩のあと、山猫軒の裏山の山道を登っていく山中行軍演劇となった。この頃には気温が急激に下がって、かなり寒くなっていた。
ひなたが木が生い茂る山道を登り、観客を先導しながら、「学者アラムハラドの見た着物」を声色を使い分けて演じる。

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朗読ではなくて、ひなたは学者アラムハラドを演じ、ハーメルンの笛吹きのように観客たちを山道へと導いていく。

最後は小さな谷を越え、かなりの斜度の斜面を登っていった。私はお尻と手首の痛みゆえに、谷を渡らず登ってのを見ていた。10名ほどがひなたに続き、この森の急斜面を憑かれたようにひなたについて登っていく光景がとてもよかった。

 

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しかしよくもまあこんな場所でロケハンして、事前に稽古したものだと思う。帰りはバス停まで歩いて戻る。行きの上りのときは気づかなかったが、けっこうな急斜面で距離もある。上るのがしんどかったはずだ。

越生駅に着いたのは午後五時過ぎだが、ホームには誰も居なかった。

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右手首の痛みは時間が経つにつれてひどくなった。ただひねっただけではないことは明らかだ。翌日、整形外科に行くと、骨にひびが入っていて全治一ヶ月とのこと。やれやれ。初骨折だ。
翌週の12/20(日)には、平原演劇祭2020第8部#鋸山演劇だったのだが、新宿から浜金谷に向かう特急新宿さざなみが事故のため運休してしまい、怪我の痛みもあって気力が衰えてしまっていた私は行くのをやめてしまった。

無念だが、行った人たちのレポートを読むと、体力的な過酷さは越生山中演劇よりはるかにきついものだったようなので、私は行かなくて正解だったかもしれない。

 
 
 
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映画『燃ゆる女の肖像』

gaga.ne.jp

評価:☆☆☆☆★

映画館:TOHOシネマズ新宿

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新型コロナ「戒厳令」が出る直前の3月上旬にパリでも見た。字幕なしで見てなんとなく言っていることがわかったようなつもりになっていたのだが、今回字幕つきで見ると、フランス語がけっこう聞き取れていない。台詞は少なく、むしろ詩的な映像美がいろいろなことを語っている映画なので、なんとなくわかったつもりになっていたのだろうか。
 
18世紀のブルターニュの孤島の貴族の館が舞台。女性の肖像画家(原題ではこうした女性画家の存在はほとんど忘却されている)とそのモデルとなった若い伯爵令嬢の恋愛、感情のやりとりを、フランス映画っぽい精緻な心理描写で丁寧に、美しく描き出す。

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十代の頃に映画監督から受けたセクハラをテレビで告発したことでフランス映画界における#MeToo運動の牽引者となったアデル・エネルは、女優としても今のフランス映画を象徴する存在であるようだ。
 
ブルターニュの孤島の館に女性だけの密やかで小さなユートピアが五日間だけ存在した。隔絶された環境のなかで、つかの間生まれた奇跡のような静かな幸福と官能の悦びを、張り詰めた美しい映像と饒舌ではない言葉で詩的に描きだした秀作だった。
 
ブルターニュの孤島の野性的な風景、二人の女性のあいだで交わされる視線、ろうそくと暖炉の火で照らされた邸宅の内部、窓から室内に入っている白くて柔らか陽光、そしてごく短いシーンだが夜の孤島で女性だけが参加する祭のたき火、燃えるドレスのすそなど、緊張感に満ちた美しい映像で提示される象徴的で詩的なイメージに引き込まれた。
オウィディスのオルフェウスの冥界下りの挿話が、二人の秘めやかな愛の物語にさらに奥行きを与えていた。