閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2022/02/06 平原演劇祭2022第3部#解体ソ連ナイト@目黒区烏森住区センター食堂

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  • 日時:2022年2月6日(日)15:00-19:20
  • 会場:目黒区烏森住区センター食堂
  • 1000円+投げ銭(軽食あり)
  • 演目: 「運命の卵」「銀河鉄道裏ダイヤ」「風土と存在」、他
  • 出演:アンジー、吉水恭子、高野竜、青木祥子、ひなた、小坂亜矢子

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 本来なら平原演劇祭#解体ソ連ナイトは、昨年12月26日に開催されるはずだったのだが、開催直前に主宰の高野竜が崖から転落し大けがを負ったため、日程延期で本日開催となった。会場は中目黒駅から15分ほど歩いた住宅街のなかにある目黒区烏森住区センター。この住民センターは目黒区居住者・在勤者でなくても利用できるそうだ。

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 この会場の食堂(調理が可能になっている)では、平原演劇祭は、2017年にソビエト100年記念#亡命ロシアナイト、2019年に#歳末ロシアナイトの公演を行っている。いずれも食事付き公演だった。今回も食事付き公演だった。

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 昨年末にこの企画を実施する予定だったのは、2021年12月25日がソ連崩壊の30周年だったからだった。と主宰の高野竜が言っていたのでググってみると、ソ連解体は1991年12月25日だった。しかし私の目にする範囲では、ソ連解体30周年で回顧的な催しや特別番組は日本では特に行われなかったようだ。2017年に平原演劇祭でロシア革命100年記念企画をこの目黒区烏森住区センター食堂でやったときも、少なくとも私の目にする範囲内では、平原演劇祭以外で革命100年にまつわるイベントは行われていなかった。2017年の平原演劇祭#亡命ロシアナイトは、私が参加した平原演劇祭のなかでももっとも印象深いものの一つだったのだが、観客は私を含め4名しかいなかった。

 今回は高野竜の転落事故後のダメージで告知がしっかりできていなかったり、新型コロナウイルスのオミクロン株の感染が劇的に広がっていたりしている状況なので、観客数が少ないかと思えば、出演者と合わせ14名の参加者があった。そのうち出演者が6名、主宰の高野竜の配偶者1名なので、純粋観客は7名いたということになる。

 プログラムは以下の通り。「#解体ソ連ナイト」というタイトルが示すように、1991年のソ連崩壊に何らかの関わりのある演目が並ぶ。最初の演目の「お茶」は高野が参席者にロシア風の紅茶を振る舞うというもの。

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 「お茶」の配膳が終わると、小坂亜矢子の「討入」。ピアニカ演奏と歌唱で、山田耕筰のロシア語歌曲(?)ともう一曲ロシア語の歌の演奏があった。曲名はわからない。小坂はピアニカを吹くときはマスクを取り、歌を歌うときにはマスクを付ける。カーキ色のシャツがちょっとソビエトっぽい。

ソ連っぽい気分が盛り上がる。

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 次の演目「ウクライナ」は、高野竜によるソ連崩壊後のウクライナ情勢についてのレクリャーだった。転落事故の後遺症で、高野の動きはヨタヨタ、言葉は詰まり詰まりではあったが、観客および出演者の大半にとってはその地理的な位置も定かでないウクライナの緊迫した状況について、わかりやすく説明していた。この説明を聞いて、平原演劇祭で以前上演されたトランスニストリア戦争を題材とする作品「ねむりながらゆすれ」の背景がようやくわかった。ルーマニアに隣接するモルドバの領域の一部でありながら、モルドバからの独立を主張する未承認国家、トランスニストリア(沿ドニエストル国)は、ソ連崩壊後の現在もなおソビエト連邦の政治体制が継承されている「国家」とのこと。

高野のウクライナ解説のあと、スターリン時代にその著作のほとんどが出版されることがなかったというウクライナ出身の作家、ブルガーコフの風刺小説「運命の卵」の朗読が始まった。読み手はあんじーだ。赤いスカーフを頭にまとった彼女はマトリーショカ人形のように可愛らしかった。

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 「運命の卵」は、天才動物学者のペルシコフ教授が偶然発見した動物の繁殖能力と成長を驚異的に増強させる光線が、誤って蛇、カエル、ダチョウの卵に浴びせられ、そこから生まれた巨大な蛇、カエル、ダチョウの大群によってモスクワが危機に陥るという荒唐無稽なSF小説だ。岩波文庫版の翻訳で160頁ほどの中編小説だが、朗読では一部を端折って物語の最初から最後までが語られた。それでも50分ほどの時間、朗読されていたと思う。

 

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 あんじーの大学後輩の石田大樹氏が描いた10枚のボールペン画とともに作品は、紙芝居のような感じで朗読された。ボールペンで細かく書き込まれた石田のイラストは作品内容に合った素晴らしいものだったし、あんじーも朗読も集中力が最後まで維持され、聴衆の注意をひきつけるものにはなったいたけれど、絵が小さくてよく見えず、あの絵の面白さがパフォーマンスに十分に生かされていなかったのが残念だった。できれば投影するか、あるいは大きく絵を拡大して見せたほうがよかっただろう。

 10分ほどの休憩を挟んでひなたと高野竜の二人による「マハチカラ!」が始まった。カスピ海に面する都市、マハチカラは、ロシア連邦に属するダゲスタン共和国の首都だ。「マハチカラ!」は高野竜とひなたの雑談のような趣向の作品だ。「演目」とされていなければ、リアルな雑談、ないし漫談だと思ってしまうような自然な会話のやりとりだた。

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 マハチカラはカスピ海西岸に面する都市で、ロシア連邦の一つであるダゲスタン共和国の首都だ。この町の名前は私は知らなかった。ダゲスタンはイスラム系住民の国らしい。高野さんが旅行でこの町にやってきて、ぶらぶらと散歩していると「クリニーング」とカタカナで書かれた看板を掲げたクリーニング屋があったとのこと。「なぜ、こんなところにカタカナのクリーニング屋の看板が?」と当然思う。好奇心をかきたてられ、高野さんがこのクリーニング屋に入ると、そこには東アジア系の人がいて、話はソ連侵攻後、旧満州で抑留された日本人移民の話に移る。という具合の話だったように思う。こちらの集中力が欠けていて話の内容はぼんやりとしか覚えていない。するとひなたが、竜さんと一緒に行ったポルトガルのリスボンでも日本人の子孫に会うって話になって、カステラの発祥の店にタクシーで行って、天正遣欧使節のひとりの千々石 ミゲルの墓が見つかって云々という具合に雑談風演劇は続く。特にまとめや落ちがないまま、次の演目、吉水恭子の一人芝居@銀河鉄道裏ダイヤ」が始まった。

 

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 吉水恭子は平原演劇祭初登場の俳優で、昨年末に高野さんが行ったtwitter上での出演者募集の呼びかけに応えて、出演することになったということを先ほど確認した。芝居屋風雷紡というユニットで演劇活動をされている方だった。先ほどの高野-ひなこの雑談が、「遠い異郷で生活することになった人々」というテーマを予告するものであったことが、「裏ダイヤ」を見てわかる。「裏ダイヤ」は、『銀河鉄道の夜』を下敷きとしているが、ロシアの西端に移住した日系移民についての物語だった(ように思う。このあたり、少々もうろうとしていた)。「裏ダイヤ」の上演途中、小坂亜矢子の「討入」がねじ込まれる。ここで彼女が歌ったのは旧ソ連国歌(1977年版)とのこと。

 「裏ダイヤ」の上演は40分以上あったと思う。吉水恭子は短い準備期間中に長いテクストを暗記して、「食堂室」をユーラシア大陸に見立て一人芝居として演じきった。素晴らしい。ここで2回目の休憩。いや休憩というより#解体ソ連ナイトの目玉プログラムというべきか、この上演中、ずっと圧力鍋で炊かれていた料理を食べる時間となった。

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 この圧力鍋は上演中もポコポコと音と立てていて、その存在を意識せざるを得なかった。いわば#ソ連解体ナイトの通奏低音ともいえる存在だった。本日供された料理は、中央アジアのカザフスタン・キルギスの料理、《ベシュバルマク》だった。私ははじめて食べる料理だ。

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 調理法はシンプルで、皮付きの山羊肉を圧力鍋で2時間ほど炊くというもの。味付けは岩塩のみだ。山羊肉は高野氏が埼玉県にあるハラル肉販売店から買ってきたもの。山羊肉というと、羊肉よりさらに臭みが強そうだが、2時間圧力鍋で炊いた山羊肉は意外なほどクセがない。これにパスタを添え、大量のタマネギスライスをかけて食べる。肉は2.5キロ用意したと言うが、20分ほどのうちになくなってしまった。平原演劇祭では時折食事が出るが、ガサガサッと作って、シンプルな味付けで、立ったままさっさと食べるという落ち着かないスタイルながら、毎回美味しい。ただ岩塩だけの味付けで十分美味しかったけれど、できればアリッサ(唐辛子ペースト)みたいな香辛料と食べたいなあとも思った。食事をしているうちに、日は暮れ、14人が山羊肉を食べる食堂室内はちょっと幻想的な雰囲気になる。

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 山羊肉の《ベシュバルマク》のあとは、最後の演目「風土と存在」が始まった。「風土と存在」は、高野竜が1999年以降書き継いでいる60作以上にのぼる戯曲連作のシリーズタイトルなのだが、今回はそのシリーズタイトルが上演演目タイトルになっている。最初が高野の前説だ。

 

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 「風土と存在」の劇の枕として、数年前から高野がtwitter上でバーチャルに行っている「ロシア徒歩横断演劇」の意義と予定について話始める。ロシア徒歩横断演劇は、ロシアの西端にある飛び地領地、カリーニングラード(旧ケーニヒスブルク)からロシアの東端、アメリカとの国境付近まで何回かに分けて高野が徒歩で移動するという壮大な演劇計画だ。実際のところ、高野の身体の衰えぶりを見ると、この徒歩横断演劇が実現するとは思えないのだけれど、高野は綿密な計画を立て、シミュレーションを行い、それをtwitter上にときどき発表している。

 記憶が飛んだり,ろれつが回っていなかったり、話があちこちに脱線したりする、よれよれの前説でいったい「風土と存在」という芝居はまともに上演されるのだろうかと不安になる。二番手は青木祥子で、彼女はアムール州知事代行(?)として、アムール州にあるうち捨てられたような小さな村の人口減少の状況について演説を行う。地誌演劇は高野竜特有のジャンルではあるが、ロシアの小さな村について書かれた文献と高野はどのように出会ったのだろう? またなぜ高野が特に劇的とも思えないこの村の過疎の状況に関心を抱いたのか? シベリアにある自分とは縁もゆかりもない小さな村の状況が事細かに報告されるのを、呆然としながらひたすら聞いた。

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 シベリアの過疎の村についての報告のあとに、どことなくシベリアの民族衣装風(でもないか)のワンピースを着たひなたが登場する。彼女はまずその土地にまつわる歌を歌った。

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 劇を見たのは昨日のことなのに、内容のディテールははっきりと思い出せない。平原演劇祭で上演される高野竜の戯曲は、特に地誌演劇は情報量が膨大で、何回か同じ演目を見た上で、さらに戯曲を読んでようやくある程度その内容が明確になるのが常なのだが。ひなたはこのあたりの民俗学的調査を行う学生のようなことをやっていた。彼女が聞き書きした老女を様子を、ひなたは演じる。老女が語るかつての村の生活は、古代中世に歌われた田園牧歌のようだった。

 最後に演じられた「風土と存在」は、高野の語り(かなりヘロヘロ)、青木の語り、そしてひなたの語りの三部構成で、とある村の風土を浮かび上がらせる、思いのほか早大で美しい物語となっていることに、ひなたのパートでようやく気づいた。三人の異なる性質と内容の語りが全部繋がり、私には縁もゆかりもない遠いロシアの小さな村が、幻想的な故郷となった。

 終演は午後7時20分頃だった。午後2時開演なので、5時間20分の長丁場だった。昨年の転落事故の後遺症でかなり身体が弱っているらしい高野竜もなんとか最後までもちこえた。

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 演劇公演における「手作り感」はとても重要で、味わい深いものだと私は思う。区の住民センターの食堂(調理室)で行われた#解体ソ連ナイトは、昔小学校や中学校のクラスでやった「お楽しみ会」を想起させる。素朴な手作りで、洗練はない。しかしだからこそ逆説的に、そこで提示される特別な時空の充実は深まるように私は思う。平原演劇祭にいると、演劇の喜びというのは、作品の面白さや卓越した演技、見事な美術を楽しむよりもむしろ、こんな具合に、日常のただなかに異世界を作り出し、それを他の人たちと共有することにあるのではないか、と思えてくる。

2022/01/16 平原演劇祭2022第1部@『神曲2022』読み合わせ会

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 昨年末12月22日、平原演劇祭主催の高野竜が、12月31日に上演予定だった「まつもうで演劇」の会場下見中に崖から転落し、高野は脳挫傷という重傷を負った。下見稽古に同行していた女優たかはらさくらも全治三週間の大けがだった。
 高野は数日、転落事故のあった栃木県内某所の近くにある病院に入院したのち、埼玉県宮代町の自宅に戻った。この事故のため、12/26に予定されていた平原演劇祭第14部「解体ソ連ナイト」と12/31に予定されていた第15部「まつもうで演劇」は中止となった。退院したとはいえ、高野が快復したわけではない。脳挫傷のダメージは大きく、記憶障害と運動障害の後遺症があり、高野自身が言うには、今後、戯曲の創作はできなくなってしまったとのことだ。仕事も休職していて、復帰の見込みはたっていないようだ。
 身体的、そしておそらく精神的な面でも大きなダメージを受けているに違いないが、この状況でも高野竜の演劇意欲(変な言い方だが)は衰えてはおらず、2022年は昨年の13公演を上回る20公演以上が予告されている。

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 1/16(日)に行われた『神曲2022』読み合わせ会は、2022年最初の平原演劇祭公演であり、高野の崖落下事故以降、はじめての公演だった。『神曲』はダンテの作品を踏まえ、構想された高野のオリジナル戯曲で、20年以上に書かれたそうだ。「地獄」「煉獄」「天国」の三部からなるダンテ『神曲』にならって、三部構成の大作で、通しで上演するとなると7-8時間かかるらしい。今回はそのうちの第一部を読み合わせ稽古のかたちで「リーディング上演」した。演劇形式の上演は来年夏に、水上舞台で行う予定らしい。会場に集まったのは14名で、高野竜の配偶者Mさんと平原演劇祭カメラマンの「ぼのぼの@masato」以外の参席者には、観客のつもりで来ていた人も含め、全員配役が割り当てられ、台詞を読んだ。
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 配布された戯曲はA4で33ページ、18時半頃から読み始め、途中10分ほどの休憩を挟み、読み終えたのは20時半ぐらいだったように思う。、屋内で座って朗読という安全な環境での「上演」だったため、高野竜の戯曲にしっかり向き合い、その文学性を味わい、楽しむことができた。物語の時代設定は2025年となっていた。今回読んだ第一部は、ダンテ『神曲』での「地獄編」にあたるのか。内容はダンテの作品との類似を感じさせるところはなかったが。舞台は「ある別の首都、南部、神奈川」とあるが、場の表題は「アクサイチン」である。アクサイチンが何かわからない。ググってみると「中華人民共和国、パキスタン、およびインドの3か国が国境を接するカシミール地方」にある盆地らしい。アクサイチンは第一部の最後のほうになって出てくる。流産し、恋人と別れ、虚無に浸る女子大生、暴走族の男達、14歳の少年少女、複数の名前を持つ在日コリアン、ジャーナリスト、イスラムの義勇兵など。殺伐とし、荒々しい風景のなかをさまよう登場人物たちが発する言葉のやりとりは、唐十郎をどこか想起させるところがある。

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 20年前に書かれた近未来のパラレルワールドを舞台とするドラマ、ということでちょうどその頃、映画館で見た岩井俊二の『スワロウテイル』を思い浮かべたりもした。劇中の挿入歌の選択もよかった。あの頃大好きだった新宿梁山泊『千年の孤独』の詩情も思い出す。
 借りた和室の奥の板の間ステージには、赤い服を着た布人形と斧があり、スポットライトで照らされていた。この赤い服の人形は、劇中人物の一人で、公道レース開始前の男たちのやりとりが激すると、突然、斧を自分の胸に突き立てて絶命する在日コリアンの少女ラスコリニコフ(なぜかロシア人名を名乗っている)である。
 

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 前半はみな座ったままの朗読だったが、休憩をはさんで後半になると、読み手である俳優たちはこの人形が佇む「舞台」に立ち、動きながら台詞を読み上げた。物語は段々状況が混沌としてきて、人物の関係がどうなっているのか、展開がどう進行していくのかわからなくなっていった。わからないまま、テクストの詩情と台詞のコミカルなやりとりがもたらす笑いを楽しんでいるうちに、第一部の朗読会は終わった。

 ゆるやかでなごやかな会だった。

2021年の平原演劇祭

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2021年の平原演劇祭は13部まであった。異なるプログラムで年間13回の公演があったということだ。

上演記録のリンクは以下の通り。

note.com

整理すると以下の通りになる。私が見たものについては、すべてレポートをこのブログに掲載しているので、その記事へのリンクを貼っている。

  1. 01/25:第1部 #埋設演劇 「姥ヶ谷落とし」(荒天のため中止)
  2. 01/31:第2部 #湖底演劇 「朽助のいる谷間」
  3. 03/07:やりなおし第1部 #埋設演劇 「姥ヶ谷落とし」
  4. 03/21:第3部 #傷には種を
  5. 04/29:第4部 演劇前夜 #黄山瀬c/w夜ふけと梅の花
  6. 05/23;第5部 #楽屋三人姉妹
  7. 05/30:第6部 #阿呆ヘレネ
  8. 06/22:第7部 演劇前夜「物語の中」
  9. 07/11:第8部「イオの月」
  10. 07/18:第9部 演劇前夜 「前夜」「末期の水」
  11. 08/29:第10部 演劇前夜「末期の水c/w横車の大八」
  12. 09/23:第11部 演劇前夜「菊の寿命」と前谷津川暗渠下り
  13. 10/31:第12部「十月の天地c/w逃」
  14. 11/23:第13部「二兎物語c/w川尻しのぶ伝」
  15. 12/26:第14部 #解体ソ連ナイト(主宰高野竜の怪我のため中止)
  16. 12/31:第15部  #まつもうで演劇(主宰高野竜の怪我のため中止)

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驚異的なペースの公演数で、制作とプロデュース、脚本、演出を担う主宰の高野竜は、毎回ボロボロになっていた。本来なら年末にさらに二公演が予定されていたが、公演場所の下見調査のときに高野竜が崖から落下し、頭蓋骨骨折という大けがを負ってしまったため、中止となった。平原演劇祭の公式告知によると「年内に事故のため延期になった2企画は安全な下見の仕方を再確認してから実行方法を探るつもりでいます」とのこと。

なお2022年には21年を上回る23の上演が予告されている。

open.mixi.jp

平原演劇祭の公演会場はすべて劇場でない場所で、2021年はすべて野外劇だった。

私が見にいった公演のなかでは、長時間歩き回ったあげく、地面に首まで埋められた俳優たちが話す上演風景が強烈だった(最初のイラストはその様子を描いたもの)3月7日に東武伊勢崎線和戸駅付近で上演されたやりなおし第1部 #埋設演劇 「姥ヶ谷落とし」や、千葉県の鋸山の山中の過酷なハイキングのあと、テリー・ライリーの《in C》の演奏会とともに岩舞台を背景に上演された05/30の「第6部 #阿呆ヘレネ」が特に印象深い。しかし観客こそ2名だけだったが、雨の中、東大駒場付近の暗渠をたどって歩いたあと、公演で上演された田宮虎彦の短編小説の朗読、04/29の「第4部 演劇前夜 #黄山瀬c/w夜ふけと梅の花」も、小規模でささやかな公演ながら、楽しい体験だった。

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2021年の演劇生活

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 新年明けましておめでとうございます。

 昨年見た舞台作品は70作品でした。45作品だった一昨年よりは観劇数は増えましたが、新型コロナ以前は年間に100本ぐらい見ていました。新型コロナ感染拡大に対する対策のもととはいえ、多くの公演が中止を余儀なくされた一昨年とは異なり、昨年は東京では公演は行われていましたので、昨年観劇数が伸びなかったのは私の側の問題です。これについては後で書きます。

 今年見た70作品から最も印象度の高い作品を10作品選ぶと以下のようになります。

  1. ゴキブリコンビナート『肛門からエクトプラズム』@ 川口市某所(2021/12/04)
  2. 虹企画/グループしゅら 『じょるじゅ・だんだん』@虹企画ミニミニシアター(2021/12/03 )
  3. SPAC『夢と錯乱』@楕円堂(2021/12/12)
  4. 劇団昴『堰 The Weir』@Pit昴 サイスタジオ大山(2021/09/14)
  5. 赤門塾演劇祭 『父と暮らせば 』@赤門塾(2021/03/27)
  6. 劇団サム『覚えてないで』@練馬区立生涯学習センター(2021/04/11)
  7. 劇団唐組  『少女都市からの呼び声』@下北沢駅前劇場(2021/01/21 )
  8. 劇団前進座『一万石の恋』新国立劇場中劇場(2021/10/10)
  9. iaku 『逢いにいくの、雨だけど』@三鷹市芸術文化センター(2021/04/21 )
  10. 『子午線の祀り』@世田谷パブリックシアター(2021/03/22)

番外:劇団一級河川『孤独を旅する短編演劇集』(亀尾佳宏 作・演出)@配信(2021/04/18)

 各作品について一言ずつコメントしておきます。

 ゴキブリコンビナートの本公演は二年半ぶりだったそうです。ゴキコン・ファンとしては待望の本公演でした。上演会場は予約者にのみメールで連絡がありました。埼玉県川口市内の殺風景な工場地域にある倉庫のような建物でした。ゴキコンがここで公演を行うことは私が知る限りこれが初めてです。性欲に翻弄される人間のおぞましさと滑稽さを、身も蓋もない率直さと独創的で過激な表現で示すゴキコンの舞台にはこれまで失望させられたことは一度もありません。ゴキコンは常に観客の期待に応え、そしてそれを超えた見世物を見せてくれます。今回は6メートルほどの高さのある櫓を会場内組み、高さを利用したダイナミックな演出でした。最初のほうで俳優の頭から激しい流血があるといういかにもゴキコンっぽい感じで、会場の興奮も一気に盛り上がりました(頭部流血俳優はその後、ガムテープを頭にぐるぐる巻きにして再登場しました)。グロテスクな着ぐるみや会場内を狂走する山車、そして本物のアルパカの登場など、観客を喜ばせる仕掛けが満載の実に楽しい芝居でした。ゴキコンはミュージカルなので、多くの楽曲が公演中に歌われます。表現のえげつなさにかき消されてしまいがちですが、その音楽は実は名曲揃いです。90分間の比較的短い時間の公演ですが、最初から最後までフルスロットルで突っ走る爽快な舞台でした。インパクトという点では、昨年私が見た芝居のなかではダントツでナンバーワンです。

 虹企画/グループしゅら は、96歳の演劇人、三條三輪さんが主宰する団体です。昨年、板橋演劇センターのシェクスピア作『終わりよければすべてよし』の公演で、私は三條三輪さんを知りました。高齢にもかかわらず、明晰な台詞回しで準主役と言っていいロシリオン伯爵夫人をプロンプターなしで演じきった様子や、当日パンフに初舞台の演出が土方与志ということを知り、私は彼女に関心を持ち、5月に彼女が主宰する虹企画/グループしゅらによる『地獄のオルフェウス』の舞台も見にいきました。上演時間が二時間を超える舞台でしたが、この作品でも彼女は主役級のレイディを演じていました。

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 10月に成蹊大学の日比野啓氏が研究代表者の科研基盤(B)「戦後演劇史の再構築:オーラル・ヒストリーからのアプローチ」の取材で、三條三輪にインタビューをする機会を得ました。そこで事実婚を選択した女医の母親と編集者の父親のもとに生まれ、リベラルな左翼ブルジョワの家庭環境で育ち、女医と俳優の二本立ての人生を歩んできた彼女の女優人生について話をうかがいました。虹企画/グループしゅらは、三條三輪さんと彼女のパートナーである跡見梵さんによる演劇ユニットで、その活動1970年代から続いていいます。公演のレビューについては以下のブログの記事に記しています。虹企画/グループしゅらのモリエール劇『じょるじゅ・だんだん』は、完成度という観点からは高く評価できる舞台とは言えません。しかし大胆な翻案や今日の感覚ではオーバーに感じられる演技演出、そしてメルヘン的な味わいのある素朴な舞台美術には、70年以上のキャリアを持つ演劇人のモリエールに対する深い理解と愛が感じられるものでした。モリエールのファルスの本質的な部分がくみ取られた楽しい舞台でした。そして舞台上の三條三輪さんの姿に、生の充実と演劇活動がシンクロしていることに大きな感動を覚えずにはいられませんでした。

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 SPAC『夢と錯乱』は、美加理が一人で演じる20世紀初頭のオーストリアの表現主事の詩人、トラークル(1887-1914)のテクストの朗読パフォーマンスでした。この作品は二年前になくなったクロード・レジ(1923−2019)の最後の演出作品であり、2018年に今回と同じ舞台芸術公演の楕円堂でも上演されています。

美加理は持てる表現技法を十全に駆使して、死ぬ瞬間にはじけ散る想念のかけらのようなトラークルの言葉を丁寧に拾い上げ、それを演劇的に表現してきました。楕円堂の高い木組みの天上の骨組みは、ゴティック様式のカテドラルの天上を連想させる崇高な空間となり、荘厳な宗教的儀式に立ち会っているような雰囲気でした。演出家の宮城聰と女優の美加理は、レジへの深いリスペクトを示しつつ、レジの深遠さに彼らの表現によって到達するすばらしいオマージュとなっていました。
 

 赤門塾演劇祭の大人の部の公演は2年ぶりの開催でした。新型コロナ感染対策のため、観劇は定員を設けた予約制、少人数キャストで演じられるものということで、井上ひさしの『父と暮らせば』が上演演目となりました。この作品は映画や舞台で何回か見ていますが、『父と暮らせば』は、無名の俳優によって、このような小さな空間で見るほうがより味わいが深く、胸に迫るものがあるように赤門塾演劇祭の公演を見て思いました。

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 劇団サムは石神井東中学演劇部のOB・OGによる劇団です。本来は1月に第6回公演が予定されていたのですが、新型コロナによる緊急事態宣言発令によって公演の中止が余儀なくされました。4月の公演は、1月公演の中止の後、急遽あらたな演目とキャストで行うことなった番外篇の公演でした。劇団サムは中学演劇のエートスをひきついだまま、高校生、大学生、社会人になった人たちが上演を続ける演劇団体です。中学演劇は彼らにとってノスタルジックなユートピアのようなのかもしれません。元演劇部顧問で、劇団主宰の田代卓さんはそして今も「先生」の役割を引き受けています。劇団サムの公演を見て感動的なのは、出演者のすがたに(そして裏方のスタッフも)演劇によって自己表現することの切実な欲求と喜びを、舞台から感じ取ることができることです。

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 劇団昴『堰 The Weir』は、アイルランドの劇作家コナー・マクフィアソンの作品ということで食指が動き、見にいきました。アイルランドの田舎町のパブが舞台の居酒屋演劇でした。パブの常連たちがだらだらとお話をして時間を潰すという動きのない語り芝居なのdせうが、そのバーでのグダグダの語りが見事に演劇になってしまう脚本の素晴らしさに感嘆しました。とりとめのない語りの仕掛けのなかで登場人物のかかえるさまざまな思いが浮かび上がってきました。芝居が提示する物語の奥行きと滋味の深さに満たされた感じがしました。

 劇団唐組といえば野外のテント芝居ですが、  『少女都市からの呼び声』は1月7日発令された緊急事態宣言期間中に下北沢駅前劇場でひっそりと上演されました。新型コロナによる社会の閉塞感と寒くて暗い冬の夜での上演という状況とあいまって、唐十郎のノスタルジックでデタラメな夢の世界にいっそう深く浸ることができたように思いました。美仁音がとてもよかったです。彼女の身体にくすんだ色合いの夢の甘美と狂気が凝縮されていました。

 劇団前進座『一万石の恋』は、落語「妾馬」に基づく山田洋次作の翻案劇です。絶妙の呼吸で軽快に、テンポ良く進むカラッと乾いた喜劇で、前進座ならではのアンサンブルの心地よさを楽しむことができました。こういう人情噺喜劇をここまできっちり上演できる劇団は前進座しかないと思います。もっと多くの人に前進座の舞台を見に来て欲しいものです。

 iaku 『逢いにいくの、雨だけど』は、再演の舞台でした。この作品は横山拓也の戯曲のなかで私が最も好きな作品の1つです。再演で完成度が高まり、感情のゆれ、矛盾、心理のニュアンスが丁寧に表現された、さらに隙のない緻密な舞台になっていました。

 世田谷パブリックシアター『子午線の祀り』。新型コロナ対策によりキャストを絞り、上演時間も休憩25分を含めて3時間10分と圧縮されたバージョンの上演でした。凝縮されたことで、展開が引き締まり、全編退屈することなく見られてよかったですが、各人物の活躍の場が端折られていて物足りなさもありました。

 番外としている劇団一級河川『孤独を旅する短編演劇集』は、劇場ではなく、配信で見た演劇です。劇団一級河川は、2010年以降毎年上演を行っている島根県の雲南市民演劇の参加者によって結成された劇団で、作・演出の亀尾佳宏さんはこの市民演劇がはじまった当初から関わっています。また亀尾佳宏さんは高校演劇の全国大会の常連である島根県立三刀屋高校演劇部の指導者としても知られています。『孤独を旅する短編演劇集』は新型コロナ対策のため、わずか20名の観客を前に上演されました。三篇の短編戯曲のオムニバスですが、とりわけ太宰治『葉桜と魔笛』の翻案劇は印象的な作品でした。静謐ではかなくて、透明感のある美しさと緊張感に満ちた舞台でした。

 

 

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日付 カンパニー・出演者 作者 演出 公演名
2021/01/01 青年団 平田オリザ 平田オリザ 『コントロールオフィサー』『百メートル』
2021/01/05 尾上菊五郎 福森久助 尾上菊五郎 四天王御江戸鏑
2021/01/09 現代版組踊『肝高の阿麻和利』 平田大一 平田大一 肝高の阿麻和利
2021/01/15       狂言『松囃子』石田幸雄(和泉流)、能『弱法師』朝倉俊樹(宝生流)
2021/01/17 青年団 平田オリザ 平田オリザ 眠れない夜なんてない
2021/01/21 大竹しのぶ、林遣都、瀬戸さおり ラシーヌ 栗山民也 フェードル
2021/01/21 劇団唐組 唐十郎 唐十郎、久保井研 少女都市からの呼び声
2021/01/23 SPAC モリエール ノゾエ征爾 病は気から
2021/01/27 前進座 三遊亭円朝 平田兼三 文七元結
2021/01/31 SPAC シェイクスピア 宮城聡 ハムレット
2021/02/03 オフィスコットーネプロデュース サルトル 稲葉賀恵 墓場なき死者
2021/02/04 笹本玲奈、昆 夏美 ミヒャエル・クンツェ、シルヴェスター・リーヴァイ ロバート・ヨハンソン マリー・アントワネット
2021/02/06 大駱駝艦・天賦典式 麿赤兒 麿赤兒 ダークマター
2021/02/18 AKNプロジェクト 知念正真 上江洲朝男 喜劇「人類館」
2021/02/25 劇団チョコレートケーキ 古川健 日澤雄介 帰還不能点
2021/03/07 平原演劇祭 高野竜 高野竜 平原演劇祭2021やりなおし第1部 #埋設演劇 「姥ヶ谷落とし」
2021/03/11 FUKAIPRODUCE羽衣 糸井幸之介 糸井幸之介 おねしょのように
2021/03/14 Co. Ruri Mito & 壁なき演劇センター 三東瑠璃 三東瑠璃 ヘッダ・ガーブレル
2021/03/14 宮﨑規格 宮﨑玲奈 宮﨑玲奈 忘れる滝の家
2021/03/19 佐藤滋とうさぎストライプ つかこうへい 大池容子 熱海殺人事件
2021/03/22 世田谷パブリックシアター 木下順二 野村萬斎 子午線の祀り
2021/03/27 赤門塾演劇祭 井上ひさし 長谷川優 父と暮らせば
2021/03/28 表現倶楽部うどぃ 比屋根秀斗 比屋根秀斗 命水の器
2021/04/04 島人Lab 平田大一 下村一裕 現代版組踊 鬼鷲〜琉球王尚巴志伝
2021/04/08 新国立劇場 三好十郎 上村聡史 斬られの仙太
2021/04/11 劇団サム 南陽子 田代卓 覚えてないで
2021/04/16 虹企画/ぐるうぷ・しゆら テネシィ・ウィリアムズ 三條三輪 地獄のオルフェウス
2021/04/18 劇団一級河川 亀尾佳宏 亀尾佳宏 孤独を旅する短編演劇集
2021/04/21 iaku 横山拓也 横山拓也 逢いにいくの、雨だけど
2021/04/29 平原演劇祭 高野竜 高野竜 平原演劇祭2021第4部演劇前夜「黄山瀬c/w夜ふけと梅の花」
2021/05/26 劇団桟敷童子 サジキドウジ 東憲司 獣唄2021改訂版
2021/05/30 平原演劇祭+《in C》 高野竜 高野竜 阿呆ヘレネ
2021/06/05 劇団麦の会 山口雄大 山口雄大 温泉旅館湯けむりの里ー取らぬ狸の皮算用の巻
2021/06/07 雲南市民劇 亀尾佳宏 亀尾佳宏 永井隆物語
2021/06/17 かんじゅく座(ウグイスチーム) 鯨エマ 鯨エマ パリテ!
2021/06/18 劇団BB★GOLD 三島由紀夫 佃典彦 卒塔婆小町・葵上
2021/06/18 劇団ひとりっこ 宮本研 竹内典子 花いちもんめ
2021/06/18 劇団サンシャイン ふじもり夏香 深町麻子 How many いい女
2021/06/20 仙台シニア劇団まんざら さとう修三 大石和彦 記憶・飛ばずに消えた
2021/06/20 劇研GO! 楽座 雁坂彰 雁坂彰 誇鶏克考(コケコッコー)〜野生に戻れ!〜
2021/6/20 石見国くにびき18座 金田サダ子 金田サダ子 この道をつないで
2021/06/20 かんじゅく座(カラスチーム) 鯨エマ 鯨エマ パリテ!
2021/06/24 錬肉工房 モーリス・メーテルリンク 岡本章 盲人達
2021/07/03 石見神楽東京社中 石見神楽 石見神楽 「塩祓」「八幡」「恵比須」「大蛇」
2021/07/15 ヘレン・マックロリー エウリピデス キャリー・クラックネル、ロス・マクギボン メディア
2021/07/15 新国立劇場 宮本研 千葉哲也 反応工程
7/22 世田谷パブリックシアター ワジディ・ムワワド 上村聡史 森 フォレ
8/2 イメルダ・スタウントン、トレイシー・ベネット、ジェイニー・ディー ジェームズ・ゴールドマン、スティーヴン・ソンドハイム ドミニク・クック フォーリーズ
8月7日 劇団風斜 日下部佐理 日下部佐理 終わりなき夜間飛行
8月9日 劇団四紀会 桜井敏 岸本敏朗 なおちゃん
2021/09/13 劇団俳優座 カミュ 眞鍋卓嗣 戒厳令
2021/09/14 劇団昴 コナー・マクフィアソン 小笠原響 堰 The Weir
2021/10/03 SPAC メーテルリンク セリーヌ・シェフェール;たきいみき、永井健二、仲村悠希 みつばち共和国
2021/10/10 劇団前進座 山田洋次・朱海青 小野文隆 一万石の恋
2021/10/10 さすらい姉妹     モスラ
2021/10/18 劇団音芽 谷口真彌 谷口真彌 Musical DRACULA Another Infection
2021/10/30 小林沙羅、他 木下順二/團伊玖磨 岡田利規 オペラ 夕鶴
2021/10/31 tpt モリエール/辰野隆訳 門井均 ミザントロオプ もしくは怒りっぽい恋人
2021/11/04 iaku 横山拓也 横山拓也 フタマツヅキ
11/5 山井綱雄之会 横町萬里雄 木村龍之介 鷹姫
2021/11/22 日本のラジオ 屋代秀樹 屋代秀樹 カナリヤ
2021/11/23 平原演劇祭 高野竜 高野竜 平原演劇祭 「二兎物語/ジョジョ4部」
2021/12/03 虹企画グループしゅら モリエール 三條三輪 じょるじゅ・だんだん
2021/12/04 ゴキブリコンビナート Dr. エクアドル Dr. エクアドル 肛門からエクトプラズム
12/11 劇団渡辺 ブレヒト 劇団渡辺 四川の善人
2021/12/12 SPAC チェーホフ ジャンヌトー 桜の園
2021/12/12 SPAC ゲオルク・トラークル 宮城聰 夢と錯乱
2021/12/23 小田尚稔の演劇 小田尚稔 小田尚稔 レクイエム
2021/12/30 世田谷パブリックシアター 瀬戸山美咲 栗山民也 彼女を笑う人がいても

 

2021/11/23 平原演劇祭2021第13部「二兎物語c/w川尻しのぶ伝」

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平原演劇祭2021第13部「二兎物語c/w川尻しのぶ伝」
時 11/23(火祝)16:30-19:00
於 浅川ふれあい橋(京王・多摩モノレール高幡不動駅北口徒歩10分)
銭 1000円+投げ銭
出演 千賀利緒、栗栖のあ、池田淑乃、尾崎勇人、西岡サヤ、橘朱里、たかはらさくら

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すでに二年近く続く新型コロナの感染拡大への警戒のもと、非演劇的場所に潜在する演劇性を引き出し、土地と結びついたドラマを作り続けてきた平原演劇祭は、これまでのノウハウの蓄積を生かし、むしろその活動はこの二年、さらに活発化しているように見える。公演の数も今年は月に一本以上のハイペースで、すでに13回である。年末にはさらに二つの公演が予告されている。平原演劇祭の観劇記録をある種の使命だと思っている私だが、今年は見落とした公演がけっこうあった。

今回の会場となった浅川ふれあい橋は、平原演劇祭にとってははじめての上演会場だった。橋の周りの風景の雰囲気は、春の平原演劇祭公演で会場になることが多い是政橋とよく似ているが、浅川ふれあい橋は歩行者専用で上演開始時刻前後には、散策を楽しむ近所の人たちの往来がかなり合った。こののどかな橋の上と下に、平原演劇祭は非日常の異世界を強引に出現させる。

最初は平原演劇祭特有のジャンル、JOJO劇「川尻しのぶ伝」が橋の入り口ではじまった。観客の数は30名ほどだったように思う。

最初は出演者全員による「もしも明日が晴れならば」の斉唱からはじまる。自分自身が子供頃聞いた懐かしい曲で、70年代の青春ドラマっぽいい曲だなと思ったが、誰の曲だったのか思い出せない。家に帰って調べると「欽ちゃんのドンとやってみよう」のわらべのヒット曲だった。

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平原演劇祭でJOJO劇は定番もののシリーズなのだが、私はJOJOをまともに読んだことがない。子供がJOJOのファンなので、家に単行本はそろっているのだけど、私は老眼が進んだこともあって、あのような情報量の多い密度の高いマンガを読むのがおっくうなのだ。JOJO劇は原作を読んでいないと何が起こっているのかさっぱりわからない。平原のJOJO劇は若い俳優が暴れ回るはちゃめちゃで何が展開しているのか理解できなくても面白いのだけれど、今回は事前に予習しておくことにした。

「川尻しのぶ」伝とあったが、最初は「じゃんけん小僧」のエピソードだった。始まった時間は日の入り前で明るく、橋には平原演劇祭の観客ではない地元の人たちもたくさんいた。そんなことはおかまいなく、平原演劇祭は町の人たちの日常に切り込んでいく。橋の上を駆け抜けるダイナミックな芝居で、奇矯な格好の人間が声を張り上げているのだから、当然、通りがかりの人たちも何事かと足を止める。特にこどもたちは興味深そうに見入っていた。

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JOJOの原作を読むと、エキセントリックで超人的なキャラクターが大量に出てきて、「スタンド」で暴れ回るこのマンガを演劇で再現しようとすること自体が無謀に思える。しかしこうした無謀をあえてやってしまうのが平原演劇祭のいいところ。低予算で手作り感に満ちた平原演劇祭で無理矢理やるからこそ、逆説的にJOJO劇がリアルで説得力のあるものになる。「ごっこ」遊びを行き過ぎになるまで徹底的にやったときの面白さがある。俳優の芝居のJOJO再現度のレベルの高さに笑った。実は全然マンガのキャラクターには姿形は似てないのだけれど、あの人物としか思えないような無理矢理リアリズムを勢いで実現させている。

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「じゃんけん小僧」の巻は橋の上で展開し、このエピソードが終わるころには日はすっかり落ちて、あたりは暗くなっていた。上演場所は橋の下に移動し、背の高い雑草が生い茂る河原で「川尻しのぶ」伝が始まる。倦怠の主婦、川尻しのぶを演じた池田淑乃のちょっとしどけなさのある色っぽさ、美しさが、非常によかった。まさに私がマンガを読んで思い浮かべた川尻しのぶのキャラクター・イメージが池田に完璧に再現されていた。何の違和感もない。マンガの場面の再現度から言うと、開演15分前に突然出演が決まった大家役の俳優の芝居も素晴らしかった。原作マンガを片手に持ちながら、取り立ての場面を、ねっとりとした嫌らしい口調で演じる。これは素人ではないなと思ったのだが、あとで聞くと名古屋の優しい劇団の所属俳優とのこと。大学受験で上京したついでにやってきたそうだ。吉良吉影役の尾崎優人と猫草を演じた平原演劇祭の常連俳優となった西岡さやは、原作のキャラクターとは似ても似つかないのだが、身体を張ったエネルギッシュな芝居で観客をファンタジーのなかに引きずり込んでいた。

橋の下演劇となるとあたりは暗闇となり、照明は観客が俳優たちを照らし出す懐中電灯頼りとなる。この懐中電灯による照明も幻想的な空間を作り出していた。「川尻しのぶ伝」が終わった後は、対岸の河原に移動し『二兎物語』が始まった。

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これはサン・テグジュペリの『夜間飛行』(もしかすると『南方郵便機』も入っていたかも)とワイルドの『幸福な王子』の二編の場面をコラージュして再構成したモノローグ劇で、二人の若い女優が演じた。

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石がゴロゴロしている河原を歩き回る芝居だった。『幸福な王子』を演じる女優がこのゴロゴロ石の河原を何回か疾走するので、躓いて転んだりしないかはらはらした。照明は観客の懐中電灯と橋の上の街灯頼りなので、足下はよく見えないところが多い。後半の上演中は、私は寒さと頻繁な移動を伴う立ち通しで疲労していて、集中力を欠いた状態での観劇となっていた。サン・テグジュペリの『夜間飛行』は観劇前に予習して読んでいたのだが、丁寧で静謐な描写は見事ではあるけれど、楽しんで読めたという感じではなかった。

劇の最後のほうに出演者が一人一人、旗を持って登場し、それぞれが「名乗り」をおこなった。

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自己紹介のあと、自由に所感を述べる。いかにも平原演劇祭っぽい趣向だ。栗栖のあがしゃれでなく本気で「あらゆる人をキリスト教徒にしたいっ」と力強く宣言していたのがおかしかった。場違いなことを計算しつつ、すごく真面目に言っているのが伝わってくるので、そのエネルギーの裏返り加減が面白い。そして締めも斉唱、「もしも明日が晴れならば」。すがすがしく、感動的な気分に持って行かれてしまう。

平原演劇祭にはノスタルジーがある。どこか小中学校のころ、クラスの行事でやっていたお楽しみ会を連想させるところも。あのときの遊びを大人になってもずっとやり続け、発展させていくと平原演劇祭のようなものになっていくような。

2021/12/03 虹企画・ぐるうぷシュラ『じょるじゅ・だんだん』

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作:モリエール

訳:恒川義夫

台本・演出:三條三輪

照明・装置・音響:菰岡喜一郎

衣装:サヨコ・中山、今川ひろみ

宣伝美術:小林恵

舞台監督:林正信

演出補佐・制作:跡見梵

出演:松本淳、藍朱魅、三條三輪、跡見梵、植松りか、清水学、荻原俊一

会場:北新宿 虹企画ミニミニシアター

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初舞台の演出は土方与志(1898~1959)だったという長寿の演劇人、三條三輪の出演・演出によるモリエール劇の上演となれば、見にいかずにはいられない。さらにほぼ一年前、板橋演劇センターの『終わりよければすべてよし』に三條とともに出演し、堂々たる存在感を示した女優、藍朱魅も出演となればなおさらである。

 
 
 
 
 
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A post shared by 片山 幹生 (@katayama_mikio)

明朗なエネルギーに満ちたモリエール劇だった。上演会場の虹企画ミニミニシアターは、大久保駅から徒歩5分ほどのところにある劇場だ。舞台の間口は6メートルほど、客席は50席くらいか。『ジョルジュ・ダンダン』の初演はヴェルサイユ宮殿での祝宴の枠組みの中で、音楽とバレエ付きで上演されたスペクタクルだったが、こうしたこじんまりした劇場での上演がむしろふさわしいように思えた。

貴族女性と結婚した裕福な農民、ジョルジュ・ダンダンが、妻に浮気された上、貴族たちにバカにされ、さんざんいたぶられるという話で、現代的な観点から読むとダンダンのいじめられかたはあまりにも理不尽で、ダンダンがかわいそうに思えてしまう。しかし三條版『じょるじゅ・だんだん』では、ダンダンは理不尽な仕打ちを受けながらも、一方的にやられたりはしない。屈辱的な謝罪を強いられても、それで凹んだりはしない。なにくそと、しぶとく意地悪な貴族たちに立ち向おうとする。『じょるじゅ・だんだん』ではダンダンだけでなく、あらゆる登場人物がしたたかで、利己的で、浅はかだ。

素朴で絵本のような味わいのある舞台美術、派手で突飛な衣装、大仰な喜劇芝居によって、架空の十七世紀パリ郊外のファンタジーを強引に出現させてしまう。一見不器用で粗く思える演出だが、第二幕の暗闇のなかのだんまり芝居の照明の加減は絶妙だったし、ミュージカル・シーンの導入のタイミング、そしてその場面の楽しさとおかしさは秀逸だった。『ジョルジュ・ダンダン』がコメディ・バレという音楽舞踊劇であったことを思い起こさせた。

伯爵夫人を演じた三條三輪の歩きは不安定で見ていてハラハラしたが、その明瞭で品格のある台詞回しは見事だった。彼女の台詞でピーンと筋が通るような感じがした。ジョルジュ・ダンダンの妻である貴族の娘、アンジェリックを演じた藍朱魅の堂々たる存在感も目を引いた。彼女が舞台に登場すると舞台がぱっと明るくなった感じがする。ゴージャスで典雅だけれど、利己的で卑小でもある貴族娘が見事に具現されていた。

浮気相手の伯爵を演じた跡見梵は、浮気男のうさんくささと高貴さとがしっかりと表現されていた。アンジェリックの小間使いをクローディーヌを演じた植松りかとダンダン役の松本淳は、めりはりのある表情とジェスチャーの演技で、芝居全体をひきしめていた。

見た目の洗練とか完成度の高さは求めない、ただ戯曲の核心となる部分をなんとかして伝えたいという心意気は見て取れる。いろんな意味で破天荒で自由な舞台だった。

こんなにおおらかで、奔放な活力に満ちたモリエールは他ではちょっと見ることができないだろう。大胆な翻案は施されていたが、モリエール劇のエッセンスとメッセージはしっかりと伝える筋の通った芝居だった。

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2021/11/4 iaku『フタマツヅキ』@シアタートラム

www.iaku.jp

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iakuの新作は私にとっては実に身につまされる話で、息が詰まるような思いをしながら、舞台を見た。

モロ諸岡演じる主人公克(すぐる)は、開店休業中の落語家で、もう何年も高座に上がることなく、知り合いが経営しているギャラリーの管理人として小遣い程度の給料を貰って、無為の日々を過ごしている。老年にさしかかろうという彼には糟糠の妻、雅子と20歳ぐらいの息子、花楽(からく)がいる。妻は働いていて、彼女の働きでなんとか生計を維持している。息子は高校卒業後、アルバイト生活を続けていたが、介護施設での就職が内定した。妻の稼ぎに依存するこの一家は貧しく、二間だけの狭くてみすぼらしい団地に住んでいる。息子はまともに働かずにぶらぶらと生きている父親を憎悪している。克は家にいるとばつが悪いのか、この二間の住まいには金がなくなったときにしか来ない。雅子はそんなふがいない夫に対してなぜか優しく、無心にやってきた夫に小遣いを渡す。

主筋と並行して、若い頃の克と雅子の出会いから花楽の出産にいたるまでの数年間の様子が提示され、なぜ雅子がこのどうしようもない夫を献身的に支えてきたのかがわかるようになっている。

若き頃はピンの漫談家として、そして雅子の妊娠がわかってからは落語家としての活動をはじめた克は、芸人としては成功せず、経済的には雅子に依存状態ではあったが、ずっと好き勝手に生きてきた人間だ。しかしチャンスと才能に恵まれず、年を経ることにやさぐれ、その生活と心はすさんでいった。克の絶望とやるせなさは私には痛いほどわかる。彼をこんな風にしてしまったのは、彼自身だけでなく、妻の雅子の優しさのせいでもある。雅子にとって、克はこの世での自分の居場所と存在意義を与えてくれた恩人だった。献身的に雅子は夫を支えるが、この夫婦は共依存の関係のなかで、地獄の状態をどんどん悪化させていたのだった。雅子の優しさによって、克は救われつつ、同時に真綿で首を絞められるように苦しんできたのだろう。

青年期を迎えた息子、花楽には、克は父親と夫としての責任を果たさず、自分が愛する母を苛めるいまわしい存在となる。また自分が憎悪する父親を母親が依然愛していることが我慢ならなかっただろう。

弟弟子が持ってきた再生のチャンスとなる落語の仕事を、克は全うできない。再起をかけた挑戦の無残な失敗に、克は深い自己嫌悪に陥り、自暴自棄となる。そして彼は自分がこうなってしまったのは、妻、雅子のせいだと雅子を責める。彼は雅子の優しさの犠牲者という面はあるのは確かだ。しかしそれは克の立場にいたなら、人として決して口に出してはならないことだろう。

自身の無能ぶりへの絶望、高いプライド、妻への負い目、子供との確執など、思いどおりにならない人生にいたぶられ、克のように苦しんでいる男は少なくないだろう。作・演出の横山拓也は確実に、彼らの身の回りにいるそうした屈折した心情を抱える男たちから、克という存在をつくりあげたに違いない。私もまさにその一人であり、克と雅子の夫婦、そしてその子供花楽の重苦しい関係に、自分自身の家族関係を重ねずにはいられなかった。たまっていた鬱屈が爆発し、互いの思いをぶつけあう最後の30分ほどは、圧巻だった。私は嗚咽しながらそのやりとりを見た。そしてひきこまれた。

こうした決定的で破壊的な感情のぶつけあいがないと、関係は再生できないのかもしれない。息子は家を出ることを決める。克と雅子は部屋のなかで久々によりそい、二人の未来を穏やかに思い浮かべる。

モロ師岡がやさぐれた老年芸人のおぞましいエゴイズムをしっかりと引き受け、演じきった。暗い舞台空間のなかにぼんやりと照らされる回り舞台によって各人の心情を浮かび上がらせる演出が効果的だった。若きに日の雅子を演じたiakuの芝居の常連、橋爪未萠里が表現するはかなさと切なさはたまらない。

劇中で部分的に何回か演じられる「初天神」が、作品全体のメタファーとなっているし劇作上の仕掛けの巧妙さ。「初天神」が最後まで語られたときに、この演目が物語全体を包み込み、深い余韻を作り出す。

かつて息子と一緒に親子落語鑑賞会で一之輔の「初天神」を聞いたことを思い出し、ジンとした気持ちになった。

2021/10/03 SPAC『みつばち共和国』

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SPACの公演を見にいくのは久々。今年の春のふじのくに⇄せかい演劇祭もチケットは予約していた演目はあったが、予定が立て込んで結局一本も見ることが出来なかった。静岡芸術劇場に来たのもこの1月末に見た『ハムレット』再演以来だ。

新型コロナウイルス感染下の状況で、どうもSPACの演劇は積極的に見にいきたい気分にならない。状況下で表現自体が萎縮しているような感じが強く、公演のエネルギーがあまり感じられないのだ。SPACは大きなスペクタクルばかり上演しているわけではないが、やはり野外での大人数キャストでの大きな芝居の賑わいがあってこそSPACという感じが私はする。

『みつばち共和国』はフランス人の女性演出家、セリーヌ・シェフェールの作品で、初演は2年前のアヴィニョン演劇祭だった。昨年秋に、SPACのキャストで上演されたが私はこの公演は見ていない。原作はメーテルリンクの『蜜蜂の生活』で、これは戯曲ではなく、そのタイトルが示すように蜜蜂の生態についてのエッセイだ。

シェフェール『みつばち共和国』の上演時間は約1時間。正直なところ、東京から往復して見にいく価値のある作品ではなかった。それなりに洗練されているが、凡庸なアイディアの教材演劇というか。蜜蜂の一年の生活を女王バチを中心に語るというもので、いくぶん文学的な香りがしないでもないナレーションを、俳優が演技で説明的な動作でなぞるというものだった。プロジェクション・マッピングやいかにも現代のフランスの舞台っぽい暗めの洗練された照明などはあったが、舞台表現として特に独創的なアイディアがあるわけではない。

もともと蜜蜂の生態というものに私はほとんど関心がないというのもあるが、そんな私でも北マケドニアの女性の自然養蜂家の生活を追ったドキュメンタリー『ハニーランド 永遠の谷』には大きな感銘を受けたのだから、やり方次第ではこの題材でもこちらの心をぐっと引き寄せるような作品は可能なはずだ。

小学生向けの学習図鑑を、丁寧に舞台化したかのような舞台。丁寧には作られているかもしれないが、何の驚きも発見もない。もともと小学生ぐらいの子どもの教育用に作られた舞台なのかもしれない。実はこんな舞台だろうなと、広報の情報を見て思っていたのだが、まさにそういう舞台だった。

新型コロナウイルス下ということで、公共劇場であるSPACは活動にさまざまな制限を加えられていて苦しい状況なのだろうと思う。この1月に見た『病は気から』、『ハムレット』でも感じたことだが、SPACの公演からはSPACの苦しさが伝わってくるような気がして、応援したい気持ちはあるものの、それであまり積極的に見にいく気になれないのだろう。

2021/09/23 平原演劇祭[演劇前夜]田宮虎彦「菊の寿命」と前谷津川暗渠くだり

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平原演劇祭では田宮虎彦の小説の朗読を月例で行っている。ここ数回、この朗読の会を見に行けてなかったのだが、黒菅藩(くろすげはん)という架空の東北地方の藩を通して、新政府軍に敗北していく幕府側についた武士たちを描く連作集を取りあげているとのこと。

今回は私の最寄り駅の地下鉄赤塚付近でこの「演劇前夜」の朗読をやるということで、私は見に行かないわけにはいかない。ただ私は告知をtwitterで見ただけで、当日何をここでやるのかについては全く予習をしていなかった。田宮虎彦の黒菅藩ものの一つ、「菊の寿命」を読むというのも、朗読が始まってから知ったのだった。

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集合は午後1時に東京メトロ、地下鉄赤塚駅の一番出入り口を出たところだった。川越街道をはさんで一番出入り口の斜向かいにある出入り口を私は日常的に利用している。まさに私にとっては地元中の地元である。秋分の日だったが、昨日は真夏の太陽が照りつける暑い日だった。

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集合時刻10分前に駅出入り口に行ってみたが、誰もいない。成増側にあるこの一番出入り口は、地味な地下鉄赤塚の出入り口のなかでもっとも利用者が少ない地味な出入り口だ。もしかすると集合場所を間違えたのかと思い、人の乗降が多い池袋側の出入り口まで見にいったけれど、やはり平原演劇祭の観客らしい人はいなかった。もとの場所に戻ると、高野竜さんの妻のみきこさんが出入り口のそばにいた。観客は私ひとりかと思えば、常連のMさんの姿もあった。結局、今日の観客は私とMさんの二人だけだった。

高野さんは1時15分ごろに地下鉄赤塚駅出入り口にやってきた。地下鉄赤塚で奥さんを下ろしたあと、高島平まで車で戻り、そこに車を駐車したあと、赤塚まで歩いてきたらしい。車を高島平に駐車したのは、今回の平原演劇祭の終着点が高島平だからだ。

赤塚と高島平の距離は三キロぐらいだが、かなり急な上り下りがあるうえ、気温が33度の炎天下である。始まる前から高野さんは暑さと疲労でヨレヨレの状態で、地下鉄の改札に下りる階段でうずくまっている。

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どんなにボロボロの状態でも演劇をやるのが高野さんだ。しばらくへばっていたが、立ち上がり、川越街道沿いの実に散文的な風景のなかで平原演劇祭は始まった。まず赤塚から北に向かって高島平の向こう側、埼玉県との県境をなす荒川まで流れる前谷津川の川筋を下っていく。といっても五キロほどの長さの前谷津川は全面的に暗渠になっていて、地表を流れていない。赤塚近辺に20年ぐらい住んでいる私は前谷津川の存在を知らなかった。古くからの住民以外は知らないだろう。この前谷津川の水源は川越街道沿いに建つマンションのゴミ置き場の奥にあった。板橋区がちゃんと「ここは水路です」と看板を立ている。しかし水路とは書いてあるものの、その水路にはふたがかぶせられ流れている水は見えない。看板のそばに行くと、ふたの下で水が流れている音が聞こえた。川越街道を越えた向こう側には川筋跡らしい空間は見当たらない。まさにここが前谷津川の水源なのだ。

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このあたりは家の近所なので、ちょくちょく通る。たしかに川が流れていた(現在も地下で流れている)ということに気がつけば、暗渠っぽい路地が川越街道沿いのマンションのゴミ集積所から北に向かって続いていることがわかる。

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暗渠となっている道の出入り口には、上の写真のような車止めが設置され、車が進入できないようになっていた。一戸建ての住宅が並ぶなか、ぐねぐねと伸びる前谷津川暗渠に沿って歩いて行った。気温が高くて、歩くのはきつかったが、既にバテバテの状態で杖をつきながらゆっくり歩く竜さんがガイドだったので、ついていくことができた。一時間ほど高島平方面に歩いたところで、アイスクリーム休憩を取る。かき氷屋があれば入りたいような感じだったのだが、そんな気の利いた店はこのあたりにはない。ひたする木造モルタルの一戸建て住宅とアパートが乱雑に並ぶ。

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《高島平暗渠×水路上観察入門展》@高島平図書館で配布されていたパンフレット。この地図にある「前谷津川」沿いを今回歩いた。

アイスクリームを購入したCOOPは板橋区役所赤塚支所の近くにある。2011年までは板橋区民だったのでここには何回か来たことがある。地下鉄赤塚駅からここまではゆるやかな上りになっているが、この先はかなり急な下り坂になる。この下り坂から、田宮虎彦「菊の寿命」の朗読が始まった。午後一時半ごろに赤塚新町駅を出発して、朗読が始まったのは午後三時すぎだったように思う。

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両側を住宅に挟まれた、狭くて急な階段をそろりそろりと用心深く下りながら、高野さんは架空幕末歴史小説「菊の寿命」を朗読した。水まきをしていた下り階段の左手のアパートの住民がいぶかしげに朗読しながら階段を下りていく竜さんを見ていたが、何も言われなかった。危ない人だと思われたのだろう。

坂を下りきると、今度は上りになる。この上り坂も階段でかなり急だ。そして登り切ったところに赤塚植物園があり、高野竜さんは朗読を続けながら植物園に入っていった。

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植物園なのでいろいろな植物がある。そして植えられている植物を歌った万葉集の歌を記した標識が立っていた。この植物園を回遊しているときは「菊の寿命」朗読では幕府に仕えてきた黒菅藩の歴代藩主の事績と没年が列挙されている箇所だった。竜さんは時折、植物の標識に記された万葉集の歌も立ち止まって読み上げる。「菊の寿命」は、黒菅藩の藩主、山中和泉守重治の独白なので、傍目からみると頭の可笑しい人が独り言をブツブツつぶやきながら、散歩しているように見えたかもしれない。植物園には小さな子供を連れた親子連れが数組と植物園の植栽を管理する人たちが数人いた。

今回は「虫除け持参」が事前に推奨されていたが、この植物園は蚊がたくさんいた。アイスクリーム休憩のときに、高野さんの奥さんから腕に虫除けスプレーをふきかけてもらっておいてよかった。

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赤塚植物園に附属し、その隣にある農園で「菊の寿命」を竜さんは読み終えた。朗読時間は50分ぐらいか。読み終えたのは午後四時半ぐらいだった。幕府軍側で、新政府軍と戦い、悲壮な最期を迎えることになる藩主の話。竜さんは最後は、靴を脱ぎ、上半身裸になっての朗読だった。農園の緑をバックにした朗読は美しく、力強い。農園の閉園時間間際ということもあり、最後のほうは農園には我々4人しかいなかった。

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本日の締めは、高島平図書館で行われている《高島平暗渠×水路上観察入門 展》だ。図書館は午後8時まで空いているとのこと。この展示を見ることで、前谷津側暗渠歩きと田宮虎彦「菊の寿命」の朗読のつながりがよりはっきり浮かび上がっているはず、と竜さんは言う。

しかし実のところ、私は田宮虎彦「菊の寿命」をなぜここで朗読したかったのか、その理由がまだわかっていない。

植物園から高島平図書館までは2.5キロぐらいの距離がある。出発時点で既にヘロヘロで、そのあと歩き朗読を続けた高野さんはもちろん、みきこさんや観客二人もかなり疲れていたのだが、暗渠路沿いにぶらぶら高島平まで歩いて行くことにする。

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図書館に着く頃にはあたりは暗くなっていた。図書館に入る前に、高野さんが途中で買ってくれたホワイト餃子で腹ごしらえをした。遊歩道のベンチに座って手づかみで、一人二個ずつ食べた。こんな落ち着かない状況で手づかみ餃子なんて気が進まないなと思ったけれど、路上でのホワイト餃子、けっこういける。

図書館に到着したのは午後五時半過ぎだった。《高島平暗渠×水路上観察入門 展》はごく狭いスペースでの展示だったが、企画者のかたが撮影したキャプション入りの写真や昔の新聞記事などのスクラップなどで、今日、私たちが歩いてきた前谷津川の過去と今を振り返ることができるう内容になっていた。

高島平図書館から歩いて6分の別の場所で、《いたばし暗渠×水路上観察入門 展》という関連企画が行われていることを今になって知る。図書館についた時点で疲労でヘロヘロになっていて、しかも時間も午後五時半を過ぎていたので、知っていたとしても足を運ぶ元気があったかどうかわからないが。

解散は高島平図書館で午後六時半。私にとっては近場の遠足演劇だったが、午後一時から六時半、暑い中をだらだらと歩き続けるという長時間体力消耗演劇となってしまった。疲れたけれども、久々に外を歩き回って、気分はいい。

 

 

『ドライブ・マイ・カー』

dmc.bitters.co.jp

 

映画の原作であり、映画にいくつかのモチーフを提供している村上春樹の短編小説集『女のいない男たち』に収録されている「ドライブ・マイ・カー」、「シェエラザード」、「木野」の三編も、映画を見た後に読んだ。

映画版のタイトル、および設定の骨格は「ドライブ・マイ・カー」から借りてはいるものの、原作に大きな改変が加えられていて、濱口竜介版は原作の映画化というよりは、上記の短編集に含まれる三つの短編小説にインスパイアされた別の作品といっていい。原作の設定と空気感を引き継ぎつつも、原作のなかのいくつかのモチーフから想像力を働かせ、映画版独自の新たな構想のなかでその要素を大幅に発展させることで、濱口竜介の世界を提示している。小説版は小説版の味わいはあるのだが、小説にはない映画版独自の要素が私にはこの映画のなかで特に面白さを感じたところだった。

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舞台を東京から広島の演劇祭に移したこと、敗残した失意の人間のやるせなさを描くチェーホフの『ワーニャ伯父さん』を映画の物語と重ねたことなど、演劇というメタファーの強調は、濱口の改変のなかでも最も大きなものだろう。ずっとそばにいて、愛し合っていた人の心さえ、見えない盲点がある。その盲点に気がついたときの大きなショック、人はわかりあえないというディスコミュニケーションへの絶望とそれを受け入れて生きることの寂しさ(しかし受け入れ、諦念したときに、人は安らぎも手に入れることができるだろう)が、様々な脚本の仕掛けを通して丁寧に描写された作品だった。

特に印象的だった場面は、家福の妻の浮気相手の高槻が、セックスのあとで家福の妻が夢うつつで語る物語を、家福と共有していたことが明らかになる車のなかの場面だ。妻の浮気相手だったとはいえ思慮と倫理観に乏しいこの若い俳優の高槻を、家福はどこか馬鹿にしていた。しかし高槻は、家福と妻のあいだのきわめて秘めやかな関係のなかで語られていたはずの物語を、家福と同じように情交のあと聞いていただけでなく、彼の聞いた物語は家福には語られなかった物語であり、しかも家福が知っていた物語よりもはるかに深遠で濃密で官能的な内容だった。家福は思いがけないところで、不意打ちのように、妻の闇をつきつけられることになるのである。この高槻の語りの場面の岡田将生の芝居は、その語りの内容にふさわしいすさまじい迫力と緊張感があった。

もう一つ印象的な場面は、最後のシーケンスである。唖の韓国人女優による手話による『ワーニャ伯父さん』の最後の場面は圧巻だったが、その後の場面で、スーパーで買い物をするドライバー、みさきの様子が数分間映し出される。彼女の乗っている車は、家福の愛車である年期の入った赤い外車だ。しかし家福の姿はない。車のナンバーは韓国語になっていて、彼女が、今、韓国のどこかの地方都市にいることがわかる。買い物を終えて戻ってきた車のなかには、唖の韓国人女優と演劇祭コーディネーターをやっていた彼女の夫が飼っていた犬が、みさきを待っていた。

前場とのつながりがみえないこのエピローグには観客の大半は戸惑い、シーケンスの状況とそれが伝えるメッセージがなんであるか考えるだろう。そして映画で語られないこの空白の時間がどのようなものであったか想像してみたくなるだろう。

おそらく『ワーニャ伯父さん』の演劇祭の上演から、数年の時間は経っている。車は家福から譲り受けたものに違いない。家福にとっては自分の分身のような愛車だったが、おそらく彼は緑内障が進み、運転することが難しくなったのだ。家福が車を手放すとなれば、その愛車の次の持ち主はみさきでしかありえない。

みさきはあの舞台の出演者のなかで、とりわけ唖の韓国人女優に強い共感を抱いていたことは映画のなかで示されている。外国人の唖の舞台女優というよるべなき不安定な状況のなかで、この状況を引き受けつつ、力強く自分の人生を生きていく韓国人女優のありかたは、よるべなき孤独の人であるみさきに大きな希望をもたらすものだった。みさきは、あのプロデューサーの夫からも大きな信頼を得ていたことは映画のなかで強調されている。演劇祭が終わったあとも韓国人夫婦とみさきの交流は続いただろう。

地方での演劇祭としては潤沢な資金で行われていたようにみえたあの演劇祭もその後、何年続いたのかわからない。外国人の舞台俳優とプロデューサーも仕事のため、他の土地に移らなければならなくなった。そのときに飼っていた犬をどうするかが問題になった。

家族同様にあの夫婦とつきあってきたみさきは、犬とも仲良しになっていた。そしてあの地を離れることになった夫妻から犬を引き継いだ。

あの夫妻がいなくなると、みさきもこの土地に留まる理由はなくなってしまう。もとより肉親も友人もいない一人生活の風来坊の彼女は、彼女の孤独をいやす犬とともに新しい土地に移動することにした。新しい土地はどこでもよかったのだ。みさきはあの韓国人夫妻の出身地である韓国の地方都市を新天地とした。自分には理解できない言語を話す人が住む未知の土地での生活の孤独のなかで、彼女はようやく自分にまとわりついていたネガティブな思いから解放され、自由を楽しむことができるようになった。